以前にこの話を書いたのか書いてないのか覚えていないのですが…。
私の亡くなった父は大正14年生まれで終戦の年には20歳でした。
父親の年齢=昭和の年数という覚えやすいというか覚える気にならないというか。
で、父も召集令状をもらったそうです。
海軍だったそうです。東京に住んでいたので横須賀の基地に訓練のために集合だったそうです。
その集合を基地で待っている間に8/15を迎えたんだそうです。
当時の海軍の若い兵隊が何をさせられたかと考えると、恐らく終戦が半年でも遅かったら私はこの世にいなかったのではないかと思います。
子供の頃に父から聞いた戦争の話というと、横須賀基地でやることもないので小さい船の甲板で魚釣りをしていてフグが釣れると腹を突いて膨らませて遊んでたとか、就寝ラッパとか起床ラッパとかの話ばかりでした。
実はギリギリで生き残ったと気づいたのはそれなりに成長してからのことでした。
亡くなった母は今の台北で昭和4年に生まれたそうです。
当時は日本の占領下でした。祖父が銀行でそれなりに偉い人だったらしく、戦後に日本に帰れたのは遅く、最後の引き上げ船だったそうです。
台北でも空襲はあったらしく空襲警報とか防空壕とか焼夷弾という言葉は子供の頃から聞いていた記憶があります。
母は高校野球の中継が嫌いでした。あのサイレンの音が空襲警報の音に聞こえるのだそうです。なんでこんな音を使うのかと文句を言っていました。
机上の空論のレベルで軍事のことを語ってはいけないのだと思います。どんな立ち位置であれ戦争に巻き込まれたら、そこには日常的に死と隣り合わせの生活があることを忘れてはいけないと思います。