僕が住んでいる札幌市には、西区に琴似という街がある。
地下鉄の琴似駅には、お年寄りの書道サークルの展示や絵画など、アートギャラリーと称される地下通路がある。
僕は結構好きで、この手のアートギャラリーに立ち寄る事が多い。
その日も、小学生の習字のアートギャラリーに出くわした。やはり若いだけあって、エネルギーに満ち溢れた作品ばかりだった。
その中の数点をご紹介したい。
まずはこれ。
2年つばさによる「大空」。半紙から溢れんばかりの大空。筆を目一杯紙に押し付けても、中々この太さは出せないだろう。絵の具で書いたみたいだ。「大」の字が、心なしか人が手を広げているように見える。
続いてはこちら。
1年けいたとけんすけによるDX。
けいたの「DX」がなければ、けんすけのは、単なるぐちゃぐちゃな水墨画だ。
見る人のことを考えて貼った人の親切さが見て取れる。
けいたとけんすけが互いに活かし合っているのも、この作品の良さだ。
単なる半円と×(バツ)にも見えなくはないが、そこは見る人の判断に委ねられている点はアートなんだと思う。
最後はこちら
2年ほそきによる、細い「太い」。
2年しょうへいによる「しめり気」。
「太い」は、習字の細い筆でも、中々この細さは出せない。習字は名詞が多い中、形容詞を選ぶ点が彼独特の感情表現として表れている。
「しめり気」は、きちんと半紙の3分の2で収まるように名前まできっちり書かれている点が、しょうへいの性格を表しているようだ。この子は、一見言葉のチョイスが人と違うように感じるが、国語のノートはきちんと右から左にかけて書く几帳面な子なんだろう。
こういう枠にとらわれない思い切りの良さが、見習わなくてはいけない部分なんだと思う。子供の感性は豊かだ。自分はどうか。「~しなければならない」「~でなければならない」という概念に囚われてはいないか。「~したい」というものを実現するためには技術が必要なのだが、それと同時に周りを意識しない表出が必要だ。
地下鉄の琴似駅には、お年寄りの書道サークルの展示や絵画など、アートギャラリーと称される地下通路がある。
僕は結構好きで、この手のアートギャラリーに立ち寄る事が多い。
その日も、小学生の習字のアートギャラリーに出くわした。やはり若いだけあって、エネルギーに満ち溢れた作品ばかりだった。
その中の数点をご紹介したい。
まずはこれ。
2年つばさによる「大空」。半紙から溢れんばかりの大空。筆を目一杯紙に押し付けても、中々この太さは出せないだろう。絵の具で書いたみたいだ。「大」の字が、心なしか人が手を広げているように見える。
続いてはこちら。
1年けいたとけんすけによるDX。
けいたの「DX」がなければ、けんすけのは、単なるぐちゃぐちゃな水墨画だ。
見る人のことを考えて貼った人の親切さが見て取れる。
けいたとけんすけが互いに活かし合っているのも、この作品の良さだ。
単なる半円と×(バツ)にも見えなくはないが、そこは見る人の判断に委ねられている点はアートなんだと思う。
最後はこちら
2年ほそきによる、細い「太い」。
2年しょうへいによる「しめり気」。
「太い」は、習字の細い筆でも、中々この細さは出せない。習字は名詞が多い中、形容詞を選ぶ点が彼独特の感情表現として表れている。
「しめり気」は、きちんと半紙の3分の2で収まるように名前まできっちり書かれている点が、しょうへいの性格を表しているようだ。この子は、一見言葉のチョイスが人と違うように感じるが、国語のノートはきちんと右から左にかけて書く几帳面な子なんだろう。
こういう枠にとらわれない思い切りの良さが、見習わなくてはいけない部分なんだと思う。子供の感性は豊かだ。自分はどうか。「~しなければならない」「~でなければならない」という概念に囚われてはいないか。「~したい」というものを実現するためには技術が必要なのだが、それと同時に周りを意識しない表出が必要だ。