DYSTOPIAの歴史(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日1月28日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

<2021年1月27日現在>
PCR検査数    累計6,548,733    2020年12月27日4,711,851    直近1か月1,836,882
陽性判定数    累計371,680    2020年12月27日217,312    直近1か月154,368
死者数        累計5,252    2020年12月27日3,213        直近1か月2,039
致死率        累計1.41%    2020年12月26日1.48%        直近1か月1.32%
(データ元:厚労省「新型コロナウイルス感染症に関する報道発表資料」)

今日は嬉しいことがあった。
国会予算委員会の各党代表質問で、日本維新の会の柳ケ瀬裕文議員が、「厚労省が6月に出した通達では、新型コロナ陽性になった方が亡くなった場合、厳密な死因を特定しなくてよいとしている。政府は、新型コロナウイルスを主要因とする死者と、それ以外の要因で亡くなった方を把握しているのか。」と質したのだ。
これに対して、田村厚労大臣は、「交通事故で亡くなった人はさすがに除外されていると思いますが…人口動態調査の確定結果が出るまで、正直わかりません」と回答した。
このブログでさんざん書いてきたように、「新型コロナ陽性判定者の中の死者」のうち、「本当に武漢ウイルスを主要因として亡くなった人」がどれだけなのか、世界各国の保健当局は隠蔽し続けている。毎日PCR検査総数、陽性者数、死者数を集計して公表している日本の厚労省も例外ではない。
陽性判定数ではなく、本当の発症者数、武漢ウイルスが体内で増殖したことによる肺炎、敗血症、DIC、多臓器不全で亡くなった方の統計は、どこにもないのだ。
柳ケ瀬氏が、「人口動態調査の結果は数か月先にならないと発表されない。だが、現在の正確な致死率がわからなければ有効な対策がとれないではないか。ただちに調査して国民に示せ」とズバリ的を射た追及をすると、田村厚労大臣は「人口動態調査の結果が出なければわからない」と繰り返し、シドロモドロになっていた。
柳ケ瀬氏はそれ以上ツッコまなかったが、実際、例年1月に公表されてきた人口動態調査の速報値は、今年に限り、未公表のままである。
日本維新の会では、一昨日1月26日の馬場信幸議員の質問でも、「PCR検査は、人体内で増殖しないウイルスの死骸であっても増幅して陽性判定してしまう。PCR検査に基準を設けるべきではないか。また、抗体反応が出た感染者のみ検知する抗原検査をもっと活用すべきではないか」といった質問をしていた。
ぼくは、日本維新の会を政党として支持しているわけではないが、「PCR検査を増やせ」「GOTOキャンペーンを続けたのは間違っていたことを認めろ」「医療機関にもっと金を回せ」と繰り返す野党ばかりの中で、武漢ウイルス禍の本質について、正しい理解をしている政党、国会議員がいることに、ほんの少し安堵した。こういう議員がいなければ、日本は本当にDYSTOPIAになってしまう。

1917年2月、第一次世界大戦中のロシアで革命が起こり、自由ロシア臨時政府が樹立された。
皇太子時代に日本の大津で襲撃されたこともあるニコライ2世は退位を迫られ、ロマノフ王朝は崩壊した。(二月革命)
新政権は自由主義者が中心で、西欧諸国にならって憲法を制定する議会開設を公約していたが、社会主義者も協力していた。
ひとつはナロードニキの流れを汲む社会革命党(エスエル)で、リーダーのケレンスキーが入閣した。
また、マルクスの流れを汲むロシア社会民主労働党(共産党)の穏健派メンシェビキも、二月革命を共産主義体制にいたる前のステップとして評価し、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)でソヴィエト(労働者評議会)を結成しつつ、新政府に協力していた。
これに対して、ウラジーミル・イリイチ・レーニン率いる共産党急進派ボリシェビキは武力革命を唱えて排除された。
だが、長引く戦争のため、新政府は成果を上げることができず、7月に成立した第二次連立内閣ではケレンスキーが首相に就任し、メンシェビキからも数人が入閣した。
こうした中、10月24日、ボリシェビキは、レーニンに次ぐ地位にあった軍事委員トロツキーが軍を掌握してペトログラードで武装蜂起した(10月革命)。
日露戦争の日本海海戦で生き残ったバルチック艦隊所属の巡洋艦アヴローラが、ケレンスキー首相の執務する冬宮を砲撃するなど、ボリシェビキの赤軍は、ペトログラードの要所を次々と占拠していった。
各地で内戦が広がる中、「すべての権力をソヴィエトへ」をスローガンに、ボリシェビキは単独で「全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会」を開催し、レーニンを議長とする独裁機関「人民委員会」を設立した。
明けて1918年1月、レーニンはメンシェビキが多数を占める憲法制定議会を赤軍の包囲によって強制的に解散させ、世界初の共産主義国家、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国の成立を宣言した。
要するにボリシェビキ=ロシア共産党は、国民の選挙で選ばれた国会議員による多数決ではなく、赤軍による武力で政権を簒奪したのである。

十月革命から3年後の1920年、エヴゲーニイ・ザミャーチンが26世紀のソ連を舞台にしたSF小説『われら』を発表した。
あらすじは以下のとおり。

主人公は、宇宙船の建造技師Д(デー)-503。
26世紀、全世界は「緑の壁」に覆われ「恩人」が支配する「単一国家」によって統治されていた。
日常生活は「守護局」が常に監視していた。
家はガラス張りの集合住宅、街路にはいたるところに盗聴器が設置され、空には監視用の航空機(ドローン)が飛行していた。国民の名前は個性をなくすためにすべて番号で呼ばれ、同じ時間に目を覚まし、毎日同じ制服を着て合成食料を食べ、命令された通りに仕事をし、性行為の回数や所要時間さえ「守護局」が管理していた。
国民の誰もが、そういう管理社会に慣れきっていたが、ある日Д-503は、一人の女性I(イー)-330が、体制に疑問を持ち、革命を企てていることを知る。話し合ううちにД-503はI-330に惹かれ、科学だけでは割り切れない人間らしい感情を取り戻していく。
だが、革命のためにД-503が製作に参画した宇宙船インテグラル号が飛行実験に成功した直後、密告によって、二人は逮捕されてしまう。I-330は拷問の末に処刑され、Д-503は「想像力摘出手術」を受けさせられ、感情のない元の日常生活に戻っていく。

ザミャーチンは、1905年、21歳のとき、オデッサでゼネストと戦艦ポチョムキンの反乱を目撃して、ペトログラードでボリシェビキの一員となり、逮捕、流刑になるが、こっそりと大学に戻り造船技師となった。
1912年頃から、造船技師の仕事の傍ら小説を発表し、十月革命後の1918年、ゴーリキーとともに、文学活動家同盟や世界文学出版所活動に参加、全ロシア作家同盟ペトログラード支部の結成にも尽力した。
だが、十月革命の翌年1918年には、個人の自由を奪い、官僚的に計画化を進めるボリシェビキ=レーニンの方針に疑問を抱くようになり、ソヴィエト体制を批判する短編『龍』を社会革命党左派=左派エスエルの新聞に発表した。
ザミャーチンが、ディストピア小説『われら』を執筆した2年後の1922年後半、レーニンは、数万人の知識人に「反ソヴィエト」というレッテルを貼って逮捕し、国外追放した。ザミャーチンも逮捕・投獄されたが、この時は友人の援助で釈放された。
1922年5月、レーニンが脳卒中で倒れると、党内序列では下位にいたヨシフ・スターリンが人民委員会直属の秘密警察チェーカー(のちのKGB)を使って共産党内で実権を握り始め、翌年レーニンが亡くなると、トロツキー、ブハーリン、ルイコフといった党内有力者を次々に追放し、独裁者となる。

ポーランド侵攻の折、スターリンの軍事的手腕を酷評したトロツキーは、亡命先のメキシコで暗殺された。
独裁者スターリンは、芸術の内容ばかりか形式にまで口を出し、革命の芸術はリアリズムでなければならないとして、ゴーリキー(文学)、ロシア・アバンギャルド(美術)、メイエルホルド(演出家)といった「政治革命=表現の革命」を夢見た芸術家たちも弾圧、粛清した。

ザミャーチンはあらゆる出版活動を禁じられ、47歳のときに1931年にフランスに亡命、パリで不遇のうちに客死した。

『われら』で描かれた「恩人」はレーニン、「守護局」は秘密警察チェ―カーのことであった。
彼が共産主義ソ連に抱いた危惧は、現実となったのである。
(つづく)