供養というと、どこか「立派なもの」「厳粛なもの」と捉えられがちです。
でも最近、私は少し違う形の関わり方を模索しています。
とくに気をつけたいのは、
自分と直接関係のない霊を安易に供養しようとしないことです。
たとえば、昔の歴史的事件などの現場に行って、自分の力で供養しようとしたり、
お経や祝詞を唱えて「鎮めよう」としたり…。
一見、善意からの行動のように見えますが、
実はとてもデリケートで、慎重さが求められる行為なのです。
「勝手な供養」は、かえって怒りを買うことも
霊的な存在のなかには、こんなふうに感じる者もいるかもしれません。
「なんで、あんたに供養されなきゃいけないんだ」
「私の何がわかるの? 偉そうに説教しないでよ」
…たしかに。
生きている人間でも、勝手に「あなたのためにやってあげてる」と言われたら、
反発したくなる気持ち、ありますよね。
お経の中には「教えを説く」要素もあるので、
相手の心を逆撫でする場合もあるかもしれません。
だからこそ、「余計なことはしない」という姿勢が基本だと私は思っています。
どうしても関わりたくなったら、話しかけてみる
それでもどうしても、心を向けたくなる存在に出会ったときは
「話しかける」という形をとるのが、いちばん自然かもしれません。
こんなふうに:
「きっと、すごく悔しい思いをしたんだろうね」
「私には想像もできないような苦しみだったと思う」
「でも、そろそろここに居続けるのも飽きてきたんじゃない?」
「生まれ変わって、今度は幸せをいっぱい感じてね」
これは、命令でも説教でもありません。
ただ、ひとりの存在として、対等なまなざしで語りかけるだけ。
もちろん、すべての存在がこれに応じてくれるわけではありません。
中には、話を聞く気のない者や、善意を利用するような者もいるかもしれません。
だからやっぱり、無理に関わらない方が安全なのです。
神仏もまた、私たちと同じ「意識ある存在」
私は神社仏閣に行くと、
神さまや仏さまにそっと話しかけるようにしています。
「プーちゃん、元気?」
「今日はちょっと気分が沈んでるけど、また来たよ」
「ねぇ、神さまってさ、ずっと人間のお願いばかり聞いてて疲れないの?」
そうです。私は神仏のことを「プーちゃん」と呼んでいるんです(笑)
もちろん、心の中で手を合わせて、敬意は忘れません。
でも、崇拝して壁をつくるより、対話をするような気持ちでいた方が
神仏との距離がぐっと近くなって、心が軽くなる気がします。
彼らも、私たちも、同じ「意識あるエネルギー体」。
上も下もなく、善も悪もなく。
ただ、ここに「在る」だけの仲間的な存在なのです。
最後に:供養とは、思いやりの形のひとつ
供養とは、本来「心を向けること」。
立派な形式や特別な力がなければできないものではありません。
でも、そこに自我や優越感が入り込むと、たちまち歪んでしまいます。
「わたしが救ってあげる」
そんな思いよりも、
「あなたの存在を忘れないよ」
「ここにいてくれて、ありがとう」
そんな小さな気持ちを持つだけで、
供養はもう始まっているのかもしれません。
Sealed with gratitude & LOVE❤️