大好評



このブログを書くのはオーストラリア ビクトリア州の森の中で、ホリスティックセラピーやそれに関連する商品を扱うCosmic Light社の取締役であるMAYUMIです。






今に至るまでの経緯


幼少時代

MAYUMIは神奈川県生まれ、神奈川県育ち。

幼少期から場面緘黙、学習障害、感覚過敏などの生きにくさを抱え、5歳で既に「死にたい」という思いを強く持ちます。後にこの感覚過敏は「シナスタジア」と言う五感が全て繋がった特性だと言われます。文字や数字に色があり、音楽に匂いや形があります。その感覚が強過ぎる為に、人が話していることが理解できず、毎日、生存することだけにいっぱいいっぱいの日々を過ごします。イマジネーションだけは豊かで、一人でいることが大好き。ピアノで音楽を創ったり、物語を創ったり、色だけで遊んでいるのが好きで、外では野草を詰んで魔法の薬を作って遊びました。父との関係に悩み育ちました。父には人格障害があり、父と私の関係は精神的虐待の結果であったと精神科医に言われ、大人になってからは、しばらく父と会うことも禁止されていました。


小学校時代

空腹というものが何だかよく分からず、感覚過敏も邪魔をして、食べ物の匂い、食感、食器の音や人の声などが工事現場やゴミ焼却所にいるように大きく強調され、お昼の時間になると気分が悪くなり、毎日給食の時間の後も、外に出て遊ぶことはありませんでした。 場面緘黙の私が、先生の質問に答えるまでクラス全員が私に注目して待つという圧力などに耐えられなくなり、登校拒否気味に。そこでお弁当を持って行ける小さな学校に転校。少しずつ、生きた心地がするようになってきます。小学校高学年に、周りで自殺や殺人事件など人の死を目の当たりにすることが続き、精神的に不安定で喘息が酷くなります。





学生時代

ティーネージャーになると、外国に興味を持ち始めます。日本のドラマやテレビ番組は好きではなくて、むしろ苦痛でしたが、人の話についていくために頑張って見ようとします。この頃から自分の興味は皆と違うということに気付き始めます。

特にフランス語の音や英語の音が好きで、一人でフランス映画を見に映画館に行ったり、邦訳された仏文学などにはまります。日本のアイドルなどに興味を持たず、フランス人の渋めの俳優などが好きでした。学生時代に大好きだったのは、シモーヌ ド ボーヴォワール。不安な時はフランソワーズ サガンを読んで、その情景に落ち着きを覚えました。

英語も次第に得意になってきます。相変わらず、生きにくさはあり、精神的不安定さから17歳で原因不明の目眩に倒れ、初めて精神安定剤を飲みます。




大学時代

大学では英文学と仏語を勉強します。ひと握りの友達はいましたが、特に心を許せるわけではなく、どこにも属していない感覚が常にありました。飲み会やサークルなどに嫌悪感を感じ、参加することは一度もありませんでした。子供の頃から馴染みがあった海。早朝からひとりサーフィンをする生活。海の波の呼吸のような動きが初めて自分の心を静寂にしてくれることを知ります。そして、波の音を聴きながら本を読んだり、ぼーっとすることが好きな自分に気付きます。

そしてバイトをしては毎年のように冬はハワイに通うようになります。当時付き合っていた13歳年上の彼に

「お前は日本にいても力は発揮できない」という謎のひと押しをもらい、別れて留学を決めます。


留学時代前半

海外旅行はある程度慣れていても、本当に一人で海外に住むのは初めて。留学先に選んだのは、オーストラリア。当時のビザの取りやすさと、サーフィンが静かに出来る環境から選びました。日本人が少なそうな小さい町です。ビーチから徒歩5分。日本でもしていたように、朝、学校に行く前にサーフィン。富士山が見える黒砂のビーチとは違う、白砂のビーチ。早朝にはイルカの群れやフェアリーペンギンなどに会い、イルカの群れと私一人。というラッキーな状況を何度も体験します。ポンコツの車を買い、サーフィン仲間と何百キロもサーフトリップをしたりして、自由を満喫します。フランス語圏の友達が多く、留学先で出来た最初の彼氏はベルギー人でした。ですが、運命の人と出会います。元夫の存在でした。




留学時代後半

その人は韓国人でした。それまで、フランス人やヨーロッパ系の人達との関わりが多かったため、韓国人はまるで私にとっては宇宙人でした。ハングルの文字の丸さが私には宇宙語のようにすら見えました。韓国語の音がその時好きではなく、匂いに敏感な私は韓国人の匂いも苦手でした。正直、嫌いで、気になる。「嫌い 嫌いも好きなうち」を強要したような感じでした。

ヨーロッパ系の人達のドライな感じとは違い、お金がなく、質素な食事をしていた私に、美味しい韓国料理をつくってくれる彼に、自分の中に欠けていた「父」のような安心感を覚えます。そうして、持ちつ持たれつ、程よい距離を保とうとしながら付き合うことになります。ルックスも趣味も何もかも合わない。なのに、何故かこの人と一緒にいなくてはいけないという気持ちになります。

大学院に進学し、シドニーに引越し。住む土地柄、サーフィンをやめます。

毎日、大学の図書館か研究室で殆どの時間を過ごすようになります。日本人は一人。そんな中、英語での学会での発表。論文の締切。教授たちとのアクティブなディスカッション。元場面緘黙の私が強制的にそれを乗り越えました。ストレスから胃痙攣や胃潰瘍などにかかり、そんな中でも私が大学院での研究を極める為に支えてくれたのは、この韓国人の彼でした。博士課程前期を終了する頃、日本人としては初めての最短トップスコアで卒業します。




暗黒時代

ストレス窮まり始めます。博士課程後期に進むにはお金がかかります。既に推薦はもらっていましたが、国から奨学金が出る対象ではない学問分野だった為、一旦諦めざるを得ない中、ビザが切れると日本に帰るしかありませんでした。日本に住むことに酷いストレスを感じました。そこで、その韓国人の彼と結婚することに決めます。考えは甘すぎました。両親に強制的に日本に帰国するように言われ、博士課程前半の私の功績などなかったかのように卒業式にも、出席することはなく、日本に帰ります。ゾンビのように方向を失い、生きる目標もない私は、正常ではない判断の中で韓国に逃亡します。韓国に行くと、既に語学教授の資格を持っていた為、すぐに雇ってくれるところは見つかりました。労働ビザも降りました。ですが、両親とのいざこざで肉体的にも精神的にもズタボロで、再び強制的に日本に帰国を余儀なくされます。

一旦プライドを捨て、日本にある英会話スクールで講師として働きます。同僚は英語圏の人達だったので、日本独特の会社社会を経験する必要はなく、思ったよりは楽でしたが、精神的には乱れていたので、生活が酷く荒れていました。絶対に日本に住み続けたら自分はダメになると思いながら月日が過ぎ、結局、韓国で結婚することを強行突破します。


韓国時代

大手銀行の役職の息子であった彼との結婚で

結婚式は派手でした。一流ホテルでの豪華挙式。

芸能人のようにチヤホヤされる日本人の嫁。それは一過性のものに過ぎませんでした。とはいえ、日本で働いていた時の貯金があったので、江南(カンナム)の高いマンションに住居を構え、輸入品の揃うスーパーで買い物をし、週末はワインバーで飲み明かす。そんな暮らしをしました。当時は今のように日本人もいなくて、韓流ブーム前だったので、そんな暮らしはあまり普通ではありませんでした。韓国語は独学で、韓国語の学校に行くことを拒みました。どこかにこの文化に染まりたくないと思っている自分を強く持ち続けました。

仕事もせず、家に毎日こもり、ひたすらスピリチュアルやエソテリックなことを勉強します。インターネットが今のように普及していなかったので、手に入る情報は限られていました。

スピリチュアルなことを学んでいるはずなのに、精神的にどんどん不安定になります。全く地に足が着いていませんでした。オーストラリアに帰りたくて、それしか目標もない中、オーストラリアの永住ビザを申請することにしますが、先はまだまだ長く、パニック障害で外に出れなくなり、うつ病が悪化し、英語の分かる精神科医に通いますが、死ぬことを毎日考え始めた為、日本の病院に入院することになります。

そして激しい記憶喪失になりました。


日本帰国<闘病生活>

この期間の記憶はあまりありません。

病院に持っていったのはイルカの写真集だったのを覚えています。発作を起こす度に筋肉注射で眠らされ、私の五感は死んだようでした。

他の入院患者は作業療法に出掛けるために病棟を出ることが出来ても、私には許されませんでした。一度だけ、看護師さんにお願いして、作業療法に参加させてもらいました。絵を描いたり、ヨーガをしたりしました。楽しかったのですが、その後はまた何故か許可が出ず、何の希望もなく今度は摂食障害が悪化して、体重は33キロくらいまで減りました。そんな中、私が本気で感動したのはルドルフ・シュタイナーとの出会いでした。

病室にたくさんの本が並び始めます。研究者魂がそこにはまだ生きていました。

それなのに、発作で私は自殺未遂をしてしまいます。わたしが死んだ方が皆に迷惑がかからない。と本気で毎日思った結果が発作で強くなったのでした。大量の薬を飲み、胃が焼け、身体が燃えるように熱くて痛くて、なんて苦しい死に方を選択したのかと後悔しました。薬をこれだけ大量に飲めば簡単に死ねると思ったのは間違いでした。

苦しみの中でふと身体が楽になりました。そして光に包まれ、光の手術室のような場で胃が洗浄され、痛みと熱さが引いていきました。

その時に「ここに、ずっといたい。帰りたくない」と懇願しました。光に懐かしさを感じました。ところが目が覚めた時、病院のベッドでした。号泣しました。死ぬことさえ許されない私に何の自由もなく、病気であることも許されないのだと、知りました。体重も減り、体力がなくなっていたので、何ヶ月も歩く事もできなくなっていた私は、諦めの境地で少しずつ杖を使って歩き始めました。そして歩けるようになると、退院しました。

退院しても、劇的に回復することはなく、まだまだ日本では当時珍しかったフラワーエッセンスなども摂りますが、薬漬けの私には効果は感じられませんでした。


実家に戻り、静かな暮らしが始まります。時々発作がやってきて、健忘が酷く、さらに自宅から何百キロも離れたところで発見されたりする私の異様な体験は解離性同一性障害と診断されます。

落ち着いている時は、スピリチュアルなことについて勉強しました。そこで、大学院時代に研究していた象徴学やメタファー、音楽、薬草や中世の文化などにもう一度出会います。ところが、仏語や古英語で書いたことが自分で理解できなくなっていることに気付きます。自分の文字なのに。何が書いてあるのか、さっぱり分かりません。語学を忘れるという精神科医にとっては興味深い特徴を持っていたため、ケーススタディに使われるようになりました。ゆっくりと勉強したり、絵を描いたり、その頃初めてブログというものを書いたりしました。




この期間、当時の夫は韓国で仕事をしていました。時々来日していましたが、彼と過ごした時間を私は記憶していません。


ところが、ある2月の日、

「お腹に赤ちゃんがいる」と思ったのです。

3ヶ月は誰にも会っていなかったわたしがそんなことを言い出すので、また頭がおかしくなったかと思われました。精神科医の診察があり、訪れた時も、やれやれ、今度は想像妊娠かと思ったに違いないのです。現に「投薬で排卵もしていないので、恐らくそれは妄想でしょう」と言われました。でも、なぜか確信がありました。妊娠検査薬で確認したら、陰性でした。それでも確信がありました。3回目で陽性が出ました。

雪の降る日、産婦人科で診察を受けると、まだまだ超音波では確認できませんでした。

翌週、妊娠が確定しましたが、受精したと思われる日付近に、私は誰にも接触していないのです。

そんな、奇跡を誰が信じるでしょう。




親に報告すると大反対を受けました。

精神科医にも産むことを大反対されました。

まず、ひとつに、薬を飲んでいるから、障害がある子が生まれるということ。

それから、精神的虐待を父から受けた私は、同じことを子供に繰り返すだろうということ。


それまでだったら、人になにか言われたら、諦めてきた私に、生まれて初めての強さがありました。この子は私が産んで私が育てる!例え障害があっても、この子は私に生きる希望と強さをプレゼントしてくれた!


そして私は親に「二度と日本の地を踏むな!帰ってくるな!」と追い出されました。仕方ありません。


この子を守る為ならと、断薬しました。医者にはそれは危険だと止められましたが、私は聞きませんでした。


と同時にオーストラリアの永住ビザの申請が受理され、ビザ発行まで10ヶ月という報告が来ました。お腹の赤ちゃんからのもうひとつの素晴らしいプレゼントでした。


元夫と、私は飼い犬のチワワ、そして、膨らみ始めたお腹と共に梅の花が満開の3月。再び韓国に渡りました。



妊娠 出産 移住

韓国では夫の両親と同居しました。その当時のことを私はブログで書いていました。面白おかしく、韓国の文化について書きました。とても人気のブログになりました。

一方で、ヒーリングやエソテリックなことを読み漁り、そして相変わらず絵を描いて過ごしました。快適とは言えない妊娠生活。それでも近所に初めて日本人の友達が出来たりして、恐る恐る、韓国でも、車の運転をするようになったのです。

月は満ち、韓国で第一子を無事出産。低体重、帝王切開でした。生まれた後にアレルギーなど色々あったものの、元気に育ち、早くも2ヶ月で人見知り。私以外の人では泣くようになりました。そして、ついに待ちに待った永住ビザが降りたのです。


生後半年。ついにオーストラリアに戻ることが出来ました。




育児そして離婚

移住後も一筋縄にはいきませんでしたが、世界で検疫がいちばん厳しい国、オーストラリアにチワワまで連れていきました。この土地では、もう私たちに口出しする人はいません。その代わり、何があっても助けてくれる人もいません。

繊細で敏感な我が子。そして、仕事、仕事の元夫。孤独ではありましたが、周りに日本人のママ友なども出来て、忙しく過ごしました。

書くことが好きでこの間に2本のエッセイを出版します。

そのうち第二子も誕生します。

第一子は頭の良い子ですが、私と同じで場面緘黙があることが分かります。不安も多く、幼稚園にあがる頃、分離不安が酷くなります。そのうち、激しさを増し、小児精神科を受診するように言われてしまいます。そこで、社会不安障害という診断を受け、小さな我が子は抗鬱剤を飲むように言われます。

私の目が覚めた瞬間でした。

絶対に自分と同じ道は歩ませない!この子が安心できる環境を私は与える。と決心し、シュタイナー教育しかないと決めます。

頭に過ぎったのは、州を越える引越し。田舎暮らし。

それを思った瞬間、目の前の空に大きな虹がかかっていました。それ以上明確な答えはありません。慣れた土地を離れ、誰一人知り合いのいないところへ引っ越しました。




田舎暮らし。私は徹底的に手作りにこだわりました。小さな畑をつくって野菜を育て、足りない分はオーガニック食品のお店で買う。スピリチュアル、ホリスティックな道にますますハマり、ビーガン生活。子供の服も、おやつも手作り。シュタイナー教員になる勉強もし、ママ友関係で、ヒーラーやセラピストと交流し、同じような意識を持ったお母さんたちとの交流も楽しみました。シュタイナー学校で手仕事の授業を教えるようになりました。

ふと気付けば、夫との距離は広がり、彼は都会の華やかな暮らしに憧れ頑張っていたけれど、私はどっぷりとホリスティックな田舎暮らしにハマっていました。すれ違い、差し障りのないルーティンだけが彼との間に残りました。会う時間すら殆どなくなりました。




そして私は今のパートナーに出会うのです。

スターシード系のグループで出会った彼にやっと会えた。。。という妙な感覚を持ったのです。

でも、私はフェアでありたいと思い、全てを正直に夫に話しました。

そこから離婚話はあっという間に進み、

夫は、予てから夢見ていた世界中の色々な所に行って仕事をする。という現実を引き寄せたのです。元夫は、そして海外に一人で旅立っていきました。私はスピリチュアルに静かな暮らしを理想のパートナーと子供たちとする。という夢を叶えたのです。


現パートナーのニコラスがコスミックライトセラピーの創始者です。2人が一緒になってからコスミックライトセラピーは自然に成長しました。全ての準備がそれまでに整っていたのです。

今現在は、コスミックライトセラピーをニコラスの手に預け、私はそこからコスミックライト社を設立。彼とはビジネスパートナーとして、そして人生のパートナーとして、親友として、これからも成長していきます。



情けない貧困生活や、犯罪級の出来事に巻き込まれたり、色々ありましたけど、今回は割愛。

身近な人達は断片しか知らない私の半生。

ここで流れを語ってみました。

どんな人にも知らない人生のストーリーがある。

その人のたったひとつの一面だけを見て

ジャッジしないように、

その人という存在を宇宙の一部として見れるようにしていきたいですね。





五感が捉える現象に
苦しみを感じるのなら、
自分の反応を変えていくアプローチを。


生きにくさを
生きやすさに変える。
惑星とクリスタルと音と植物
地球のギフトを使って
真にスピリチュアルな生き方への
移行を促します。
次の開講は、
9月です。



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自分の内での反応が外の世界や未来を創る。

 

内なる世界は外の世界に反映し、

外の世界は自分の内を反映するのだから、

住居環境

身に着けるものや

身の回りに置くもの

自分が使うもの

 

ってとっても大事。

自分の消費が世界を傷付けていれば、

「自分を傷付ける原因」をつくっていることになる。

 

労働者に正当な賃金が支払われ、

地球環境を傷付けていないこと。

 

私たちCosmic Light™オフィシャルショップは

ここに最大のフォーカスを置いています。

美しい行いが美しい未来を創ります

 

 
 


 

 
 
 


 

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