
振替休日の月曜日、家から歩いて城南宮へ行きました。歩数にして往復12000歩。
城南宮への途中、「安楽寿院」というお寺に立ち寄りました。
私が説明するよりも、立て札(5枚目の写真)を読んだ方が、手っ取り早いですね。
ここに安楽寿院を詳しく解説しているサイトがありました。
城南宮への途中、「安楽寿院」というお寺に立ち寄りました。
私が説明するよりも、立て札(5枚目の写真)を読んだ方が、手っ取り早いですね。
ここに安楽寿院を詳しく解説しているサイトがありました。
↓鳥羽離宮跡の説明

読みずらいので、下に写します。
読みずらいので、下に写します。
鳥羽離宮は、平安時代後期に白川上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。
その範囲は、東西1.5Km、南北1Kmにもおよび、当時の日記に「都遷りがごとし」といわれるほどであった。この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐに南に下がった場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。
造営は、応徳3年(1086)にはじまり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、船で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂(仏像を安置)が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。
このうち現在の安楽寿院を含む東殿には、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなど、ほかの殿とは異なった様相を呈していた。そしてこれらの塔には、白河法皇(成菩薩院稜)や鳥羽法皇(安楽寿院稜)、近衛天皇(安楽寿院南稜、再建多宝塔が現存)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。
このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。
院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、冬至の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった。
この鳥羽離宮跡の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。以降1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡、田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果を上げている。
これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに当初からてがけてこられたのが杉山信三博士(1906~1997)である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図は、博士の長年の調査結果を集大成されたもので、鳥羽離宮跡顕彰の石杖として、阿弥陀如来坐像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くことにした。
1998年12月
その範囲は、東西1.5Km、南北1Kmにもおよび、当時の日記に「都遷りがごとし」といわれるほどであった。この地は、平安京の朱雀大路からまっすぐに南に下がった場所にあたり、現在とちがって鴨川は東から南に流れ、西には桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形であった。
造営は、応徳3年(1086)にはじまり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などがあいついで完成した。これらの殿舎は、右にかかげた広大な池に接して造られ、船で行き来していた。各々の殿には寝殿を中心に殿舎や御堂(仏像を安置)が建ち並び、次の鳥羽上皇の時代に入って、東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた。
このうち現在の安楽寿院を含む東殿には、三重塔3基、多宝塔1基が築かれるなど、ほかの殿とは異なった様相を呈していた。そしてこれらの塔には、白河法皇(成菩薩院稜)や鳥羽法皇(安楽寿院稜)、近衛天皇(安楽寿院南稜、再建多宝塔が現存)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られた。
このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かる。
院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、冬至の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった。
この鳥羽離宮跡の発掘調査が開始されたのは、1959年の田中殿跡の調査からである。以降1984年までには100次をこえる調査が実施され、南殿の殿舎や苑池跡、北殿経蔵や苑池跡、田中殿金剛心院跡、東殿苑池跡の発見など大きな成果を上げている。
これらの調査を自ら始められ、地元の方々や多くの調査関係者らとともに当初からてがけてこられたのが杉山信三博士(1906~1997)である。ここに示された鳥羽離宮復元鳥瞰図は、博士の長年の調査結果を集大成されたもので、鳥羽離宮跡顕彰の石杖として、阿弥陀如来坐像や石製五輪塔(いずれも重文指定)など、往時の文化財を今に伝える安楽寿院境内に置くことにした。
1998年12月