まあ、話の前に
コーヒーでも飲みながら
この1曲をどうぞ。
GHQの占領(1945年 - 1952年)が終わった
その3年後に私は神戸市長田区で生まれた。
昭和時代は非常に興味深い時代だったと
振り返ってみて、そう思う。
当時は長屋に住んでいました。
玄関を出ると道路があって
ひっきりなしに車が走っていました。
ゴムの材料を運ぶ車、
鉄鋼材を運ぶ車。
そう、ゴム工場と鉄工所だらけ
そして、長屋だらけ。
どこの家庭も夫婦共稼ぎ
農業を営む義父(家内の父)が健在だった頃に聞いた話。
「飛行機に乗って肥料まいて農業やるようなアメリカと
日本が戦争して勝てるわけないわ。」
ちなみに義父はシベリア抑留を経験していた。
この時代は国中が一丸となって何かに向かって
エネルギー全開で動いていた感がありました。
つまり、当時は「何故戦争に負けた」に対して
一つの見解を持っていたのです。
それは、
生産力。
生産力、物量、技術力で負けたと
誰もが、そう考えた。
鉄は国家なり。
もともと資源の乏しい日本は
加工貿易立国を目指していったのです。
神戸製鋼所、鉄鉱石の輸入と鋼材の生産。
川崎造船、三菱造船などの造船事業。
神戸港の整備事業。
国鉄による交通インフラ整備事業。
市電、市バスなどの交通網、路線の整備
物流、商業などなど
すべてエネルギー全開。
その結果
国民総生産(GNP)は世界で2位を達成したのです。
ここで、私の父の話をしようと思います。
当時の父は某大手企業(製造業)に勤務しながら
夜は、パルモア学院(*)に通って課程として
商業英語を習っていました。
* パルモア学院
アメリカ人教師による英語の学校。
その父は、英語を習った後に
何をしたか?
切削技術の洋書を翻訳しました。
「鉄はどうやって削るのだろうか?」
私は32歳だった頃に
その洋書を見ました。
確かに英語で書かれていましたが
それらの本の著者はドイツ人(ドイツ系?)だったと記憶しています。
当時の父は学歴が無いからこそ
やれるところから自己投資していたのです。
私が小学生だった頃には
父は家に居ないことが多かったです。
何していたか?
発電所建設の技師として
台湾に出かけていました。何年も。
台湾から帰ってきてからだね。
それまでの長屋から引き払って
家を建てたのは。
その後も、国内での出張続き。
そしてオーストラリア出張の話が持ち上がった。
母と私と弟を置いたままでの海外での長期出張は
さすがに断念して断った。
でも国内出張は続いた。
とにかく家に居ない。
帰ってきては、またどこかに出かける。
豊かになれば、幸せになれる。
いかなる業種も問わず
誰もが、そう考えて
がむしゃらに動いた時代。
それを後押しするかのように
1,池田勇人総理の所得倍増計画(実現されました)
2,東京オリンピック
ところが、不思議なことに
当時の父の口癖は、いつも
「腹が減った」
私は飢えていたか?
いや、
当時で10円か15円で
紙袋いっぱいの
パンの耳やらパンくずを砂糖をまぶして
油で炒めた「ラスク」を
食べていました。
当時の子供のごちそうは
「コロッケ」でした。
肉といえば、クジラのステーキでした。
いかに裕福と言えないまでの食生活であっても
クジラのステーキは食べられました。
ここで、少し余談。
神戸で昭和を偲ぶことができる店、
ぱっと、即座に頭に浮かぶのは
やってるかな? どうだろう?
元町の台湾料理店 丸玉食堂。
兵庫区荒田町の支那そば屋さん。
同じく兵庫区新開地の 豚まん 春陽軒。
板宿の中華料理店 明華園.
あの、勘違いしないでいただきたい。
私は昭和時代を賛美したり讃えたりしているのでは
ありません。
当時、子供だった私の目に見えた原風景を
お話しているのです。
さて、現代は如何でしょうか?
自分たちの暮らしのために
子供に託す未来のために
何か、大きな課題と目標
国にありますか?
政策を語る前に
国民を突き動かす原動力となり得るもの
何かありますか?
岸田内閣が言う、新しい資本主義
そして所得倍増
実現されたらいいですね。
本当にできるんですか?
さて、皆様は
昭和時代と現在をご覧になって
どのようにお感じでしょうか?
どのようにお考えでしょうか?
今回は、私がいまでも好きな曲を
お送りします。
たっぷりと昭和・・
こまどり姉妹 - 浮草三味線