マニラ行きの帰りのバスで、ちょっと感傷的な気分と
なり、2日間過ごしたバタンガスの思い出に浸たりな
がら。サンディとマニラに向かいしました。途中バス
が他のバスと競争し、運転が荒くなる場面も…。車内
から一斉にブーイングの嵐。運転手ようやく落ち着き
を戻す。このカーッと頭に血が上るところがフィリピ
ン人と付き合う上で注意が必要な部分でしょうかね。
フィリピンの田舎で少し過ごしてみて思うことは、人
との競争とか比較をすることが似合ってない民族では
と思います。
それよりもなんでもシェアしたり、なんでもジョーク
にして笑い飛ばす、明るい生活が似合っているのだと
思うのです。だからフィリピンの女の子に聞くと、関
東よりも関西に行きたいとう声は、やはり関東はどこ
か気取った雰囲気、どこか冷たい雰囲気があるのかも
…汗。
昔、第13代フィリピン大統領エストラダの頃、シン
ガポールの首相が来比されフィリピンの現状を憂いこ
う言いました。「もし私にフィリピンを任せもらえれ
ば、15年でシンガポールのような国に変えて見せる」
と言うと。それを受け、フィリピン・エストラダ大統
領は、「私にシンガポールを任せてもらえれば、1年
でフィリピンのようにしてみせる」って、ジョークで
返しフィリピン国民から喝采を浴びた話は有名。
自虐的なお笑いと言う意味では、関西風なのかも。
1956年、日比賠償協定調印し日比国交回復し、東
京オリンピックが始まる頃、65年フィリピンはマル
コスが大統領に就任し、日本の高度成長と共に日本人
の通商活動が承認され、1976年まで日本の戦後賠
償が続く。
日本商社とくに丸紅とマルコスの関係は深くなり、い
や深くなりすぎたのかも。
マルコスの懐には巨万の富が入った。フィリピンで活
躍する商社マンから、フィリピン女性の噂が広がり、
1979年にはカシ○計算機の招待客売春ツアーが問
題になった。
この事件がきっかけで、金で女を買うセックス・アニ
マルな日本人と世界から揶揄されることになった。
しかしフィリピンでは日本人の金払いのよさからか、
日本人向けのクラブが乱立する。
80年代に入ると、フィリピン女性が日本にダンサー
として日本の飲み屋で働くことが流行り、そんなフィ
リピン女性をジャパユキさんと呼び、フィリピンパブ
が日本で大流行する。
日本のおやじが家庭で粗大ごみとか、産業廃棄物とか
亭主元気で留守がいいなんていわれ始めた頃でしょう
か、サラリーマンおやじにとって唯一、フィリピンパ
ブにいくとako奥さんいてもikawの傍に置いて、なんて
言われて、しかもダイレクトに「あなたカッコいいな
あいしている。」なんて言われるもんだから、擬似恋
愛が進行するのでした。ここで個人的なODAを送金
した日本男児は多かったと思います…汗。
話に聞くとこれは日本だけの話じゃなく、フィリピン
は世界中にこうした話で世界へ出向き稼いでいる。
そんな中でも日本はお人よしで金払いがいいことから
人気があるようだ。(笑)←今でも…汗。
こんな話を隣の席で座っているサンディから話を聞くと
彼女も店を辞めるちょっと前に、ヨーロッパのキプロス
という国に出稼ぎに行ったそうな。しかし、そこは変態
が多く、その仕事をすることが出来ず、1週間で帰って
きたそうな。だから借金だけが残ったそうで、その支払
をある日本人が出してくれたそうな。その日本人に感謝
しているとも。
なぜかこんな話になって、自分が知っているフィリピン
近代史とサンディが経験した事などを踏まえ、フィリピ
ンという国を少しでも理解できるのか?バスの中で考え
た。
で、マニラに到着し、サンディの家で私の荷物を受け取
って、ケソンのインペリアルホテルにチェックインしま
した。部屋に入ると早速日本からのメールがドサドサ。
あぁ~現代に生きているんだ…実感。
さて、そろそろ帰国の準備かな。