水木先生が天国に召されました。
 
私は。先生の独特の世界に魅了され、これまでずっと先生の作品を読み続けてきました。
また、先生は私の父と同じ年にお生まれになったこともありとても近しい存在のように感じていました。
 
はじめて読んだ先生の作品は、別冊少年マガジンに掲載された「テレビくん」です。しばらくして朝日ソノラマの新書版シリーズの最初期に刊行された「猫又」「日本奇人伝」を読みました。それまで読んでいた作品に比べてなんとも独特で、ストーリーも「怖いような」、「楽しいような」、「のんびりしたような」、「悲しいような」いろいろな要素が絡み合った、珍味でした。そして、「ゲゲケの鬼太郎」からは、漫画界のトップランナーの一人として大活躍されました。
 
先生は、妖怪達のように漫画界の「ヌシ」として、いつまでも密かにひっそりと存在されているように感じておりましたが、今度は本当にどこかに行かれてしまったのですね。。。
本当にありがとうございました。
 
 
 
 
このブログで何回か採り上げましたが、モーニング(講談社)にて連載されていた「ピアノの森」(作:一色まこと)が完結しました。
 
私の中では、海がショパンコンクールで1位になったところで物語は終わってしまっているので、その後の話はエピローグのように感じていました。作品自体の雰囲気、空気も少し変わったような気がします。なんか、ほっとしたような感じでしょうか?もしかして作者の気持ちもそうだったのでしょうか?
 
阿字野壮介が復活し、最後に海と共演するところでフィナーレというストーリーは、私の予想と同じでした。海が医学書を読んでいたというエピソードで、ピンときてしまいました。ただ、海がショパンコンクールで1位になるかどうかは、予想できずドキドキしながら読んでいました。
連載開始が1998年ですから、約18年間続いたということになります。その間掲載誌が変わったり、連載が中断したりといろいろありましたが、とにかく、フィナーレまで読めて幸せでした。
今日、松本零士先生の講演会に行ってきました。大田区産業プラザで開催された「おおた工業フェア」の特別講演で、題目は「宇宙開発の夢・技術」でした。
 
大田区にはたくさんの町工場が多くあり、日本のものづくりを支えています。宇宙技術にも多く関連していて、直木賞受賞作「下町ロケット」(作:池井戸潤)の舞台にもなっています。そこで宇宙関係の講演を、松本先生に依頼したようです。松本先生は、宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999、キャプテンハーロックのように宇宙を舞台とした作品を多く発表されていて、また、日本宇宙少年団の理事長もされておりまさに適役ですね。
 
聴講者の多くは、大田区の工場関係者だったと思いますが、松本先生のファンの方もたくさん参加されていました。お話は、松本先生の子供の頃のことから始まりました。特に太平洋戦争前後の経験を繰り返し話されていました。その後、アフリカでライオンを仕留めそこなった事。アマゾンでワニを食べた事などをお話しされました。どの話も興味深く、何といっても松本先生のお話を聴けるだけで感激の時間でした。
 
ところで、主題の宇宙の話はなかなか出てきません。時間はもう1時間経過しており、そろそろまとめに入る時間帯になってきました。しばらくして、ようやく地球の環境保全を切り口に宇宙に関係する話になってきました。「金星にも建造物遺産があるようで、かつては知的生物がいたようだが、環境変化により生物が存在できない星となった。」という松本先生の確信を元に、地球もそのようにならないように、人類は宇宙に進出するべきで、急いで技術開発を進めるべきだというのが、話の骨子だったかと思います。宇宙から地球を見たいというのが、先生の念願だそうです。
 
結局、1時間40分お話しされました。このような講演会では長い方だったと思いますが、それでも、さらにいくらでも話しができそうでした。手塚先生、石森先生、松本先生の3人でアニメの研究をされていた事。アトムの編集をするために、手塚先生が松本先生から映写機を借りられた事など、手塚先生の話も少しだけありました。
 
実は、生松本先生を見たのは、これが2回目です。たぶん34年くらい前になりますが、私が住んでいた町のデパートで収録するラジオ番組のゲストとして、手塚先生と松本先生が招待され、私は朝早くから様子を見に行ったのです。今考えると、手塚先生はブラックジャック、三つ目がとおる。松本先生は銀河鉄道999、キャプテンハーロックなどの人気作品を抱え大変忙しかった時期だったので、よく両先生が揃って出演されたものだと思います。
 
今年松本先生は77才になられたとのことです。貴重なお話しを聞く事ができて、とても幸運だったと思います。
現在の日時は、2月3日0時30分です。また、私の中学受験トラウマ話を書かせてください。
 
2月1日に入学試験を行った学校の中には昨日(2月2日)に合格発表をしたところもあり、もう受験が終わったお宅もあることでしょう。
 
昨年、我が家では、2月1日、2月2日に受験した学校の合格発表が2月3日のほぼ同じ時間にあり、それぞれの学校がある場所が地理的に離れているため、私と妻子とが二手に別れて合格発表を見に行く事になりました。私が行く学校の方が少しだけ先に発表があるので、結果は携帯電話で連絡することにしました。
 
2月1日の試験は息子の調子がイマイチだったようで、その日の夜、我が家は少し重い雰囲気になっていました。でも、次の日も試験があるので。いつまでも、クヨクヨしていても仕方がありません。まずは、塾でもらったプリントに目を通させようとしましたが、なんと友達に貸したままだというのです。私は珍しく息子を怒鳴りつけ、夜でしたが、取りに行かせることにしました。ここで、「まあいいか。。」などと妥協したらとても悔いが残ると思ったのです。私もがらになく神経質になっていたようです。
 
こんな時はいつもゴネるのですが、息子は素直に同意し、友達の家に電話しました。今日の試験がぼろぼろで、明日受ける学校の対策を再度やりたい旨をきちんと説明し、友達の家まで出かけて行きました。意外に息子が冷静なので少しほっとしました。プリントを持って戻ってきた時、息子は元気になったように思いました。別な学校を受けた、仲の良い友達に会ったことも良かったのかもしれません。
 
プリントを見直し、お風呂に入り、次の日も朝早く家を出なければならないので早めに寝ることにしましたが、なんとなく、息子の雰囲気が少し違う気がしました。いつもは、もっとやかましいのです。ここで、私は、息子がすっきりとした気持ちで二日目の受験をしてもらうために何かしなければと考えました。いよいよ親父の出番です。今思うと何考えてるの?なのですが、息子と私とで大きな声で歌い家の中をぐるりと徘徊しながら裸踊りをしたんです。妻はあきれていましたが、少なくとも笑顔で楽しい雰囲気のまま寝床に入り、明るく次の日を迎えることができました。このおかげか、次の日の試験はうまくいったようで、試験後の息子の表情が前日とまったく違いとても元気でした。(息子は、大好きな塾の先生が激励に来てくれたからと言ってますが。)
 
そして、2月3日の合格発表の日。私は、2月2日に受けた学校に向かいましたが、2月5日に試験がある学校の願書を持参していました。今日の合格発表が二つともだめだった時、すぐに入学試験の手続きをするためです。 すでに、2月4日の志望校へは願書を提出してありましたが、その学校の発表が2月5日なので最悪のケースに備えるためです。そして、もし2月4日もだめなら、2月6日に受ける学校も決めていました。すでに前半の受験でへとへとになっていたので、その日発表がある学校のどちらかに合格して、早く受験が終わって欲しいと切に思いました。
 
一人だけで志望校に向かう電車に揺られながら、私はずっと手を組んで良い結果になるよう 祈っていました。受験票に貼られている息子の写真を見ると、本当に泣きそうになりました。学校に着いたのは、発表予定時刻の20分位前でしたが、すでにたくさんの人が集まっていました。みな心配そうに押し黙ってシーンとしています。この20分の事は一生忘れないと思います。とても長く感じました。
 
そして、発表の予定時刻となりました。人々は合格者の受験番号が書かれている掲示板まで向かっています。なんとも言えないどよめきが起こっています。すでに掲示板がオープンとなったようです。私も重い足をゆっくり進めて掲示板に向かいました。とても緊張していましたが、息子がはじめて自分だけでがんばった結果をしっかり見てあげるのも親父の務めですよね。。すでに結果を見終わった人と交差しながら歩を進め、とうとう掲示板の番号が見えるところまできました。そして。。もうひとつの志望校に向かっている妻と息子へ良い知らせを連絡することができました。
 
その後。。
息子の様子を見ると、どうせ最初の学校はだめだろうから妻子もこちらに発表を見に来る事になるだろうと思い、私は蕎麦屋で一人で祝杯をあげていたところ、携帯電話が鳴り、息子からもう一つの学校も良い結果だったとの知らせがきました。第一希望だったので、急遽ほろ酔い状態で私がそちらへ行くことになり、志望校で息子の塾友のお父さん、お母さんに挨拶した時は恥ずかしかったです。
 
 
 
 
 
現在の日時は、2015年2月1日の午前2時です。どうしても昨年の息子の中学受験を思い出してしまいます。どうも、息子の中学受験は私にとってトラウマになっているようです。
 
2月1日から東京都、神奈川県の多くの私立中学の入学試験が実施されます。第一希望、第二希望、すべり止めなど、多くの子どもたちは複数の学校を受験します。合格発表は、試験の次の日か二日後に行われるので、まず2月1日から3日に受験して、そこで希望する学校に合格したらそこで受験が終わりますが、そうならない場合は、引き続き2月4日以降まで受験が続きます。このため、2月1日から3日が前半で、4日以降は後半という感じになります。
 
2月4日以降に入試を行う学校の多くは、前日または当日まで願書を受け付けるので、受験料節約も兼ねてその学校を受ける場合、前半に受けた学校の結果が出てから願書を出す人も多いと思います。前半に偏差値が高い学校を受けた子供達が、後半の高偏差値の学校に集中するため、それらの学校の合格倍率はとても高くなり、結果的に偏差値も高くなります。どうしても試験は運不運がつきまといますので、本人や親にとってはとても心配になります。できるだけ前半で受験を終えたいというのが、多くの受験者、その家族の希望です。このため、受験初日の2月1日は特に重要な日と考えられています。最初が肝心というわけです。
 
当日雪が降らないか、電車が止まらないか、子供がインフルエンザにかからないかなど、親にとっても大変心配です。試験日の大分前から学校を休ませる家もあるそうです。受験を考えていなかった頃は、学校を休むなんていかがなものか?と思っていましたが、それまで何年間も頑張ってきたのに当日体調を崩して万全の態勢で受験できなかったら大変残念で、大げさかもしれませんが一生の悔いとなってしまうかもしれないのです。
私の家でも、子供にインフルエンザにかかりにくい効果があるというヨーグルトを食べさせたりしていました。どの家でも同じ考えのようで、そのヨーグルトは品薄でした。また、私自身生まれて初めてインフルエンザの予防注射をしました。
 
昨年の試験前日、私は落ち着かないので会社を早めに退社して帰宅しましたが、会社の通用門を過ぎた時、どういうわけか私の腕につけていた腕時計がガッチャーンと落ちたのです。ドキーっとしました。やはり「落ちる」のは縁起が悪いと感じてしまいますよね。この話は、受験が終わるまで家族には話しませんでした。
 
2月1日の早朝、私も息子が受験する学校まで付き添いました。もちろん子供も緊張していますが、親の緊張も尋常ではありません。休日だったこともあり朝早くすいている電車には同じような親子がたくさん乗っていましたが、みな緊張に耐えながら押し黙り、車内には重い空気が漂っていました。無事最寄駅に着いてから、受験する学校に行くまでの道も、たくさんの人が歩いていますが、あまりしゃべっている人はいません。
 
学校の門には、自分の塾の生徒を激励する先生の列があり、そこだけは静寂を破ってにぎやかでした。先生達も真剣で、一生懸命大きな声を出しながら子供達と握手をしています。私の息子も塾の先生と握手をして少しだけリラックスしたように見えました。学校では、すでに受験生の入室が始まっていて、あっというまに息子も中に入って行きました。あっけないものです。ここからは、親の手を離れて子供が自分だけでがんばるのです。
 
残された親達の多くは控室に残り子供の試験が終わるまで待っています。中には、手を組んで一生懸命祈っている人もいます。 あの時の何ともいえない気持ちは忘れられません。今思い出しても、少しうるうる、してしまいます。私自身も高校受験、大学受験を経験しましたが、子供の受験の方がずっと精神的には重い負担を強いられたように思います。
 
今日試験を受ける子供達は、まだ眠っていると思いますが、「みんな、がんばれ!」