今年も東大寺の修二会(いわゆるお水取り)に行ってきました。1200年以上続いている行事は相変わらず淡々と執り行われていました。私は、3/5、3/6に行きましたが、3/5はお水取り前半のキー行事である、実忠忌、過去帳読み上げが行われる日で、さらに走りの行法の初日という盛りだくさんの日で、練行僧たちの儀式は、午前3時まで続けられました。

修二会のことを少し知っている人だけしか、何の事がわからないでしょうが、今年の過去帳(3/5)は特に静かに読み上げる部分の声が聞き取りにくく、例の「青衣の女人」のところもわかりにくかったです。ちょっと残念でした。感情入れすぎだったかな?

また、若い童子さんが多かったせいが、お松明の振り方がおとなしく火の粉が少なかったようです。松明のかけらを拾う人はがっかりでした。後半になれてくるともう少し派手になるかもしれませんが。

相変わらず、お松明を見に来る人はたくさんいましたが、ちょっと気になる事がありました。

午後7時にお松明が始まりますが、そのちょっと前の時間には、二月堂の下の広場はたくさんの観客で埋まります。ところが、たぶんその人たちの大半ははじめて来た人たちで、お松明とはどのように上がってくるかはもちろん、そこで何をしたらいいかなど知っている人はほとんどいません。すなわち、そこにいる千人を軽く超す人たちは、ただただそこに立ち尽くしているだけなのです。

その日は、天気が悪かったせいか比較的観衆が少なかったので、二月堂に近い場所でもたくさん空間が空いていました。そこでわたしは、一緒に行った同僚たちとどんどん上の方に移動し、とてもいい場所でお松明を見る事がてきました。それはいいのですが、私たちが人たちの間をすり抜けて移動している時、たぶん私たちをいまいましく思われた人がいたのでしょう。「あんなにずうずうしい人のまねはできない」などとつぶやく声が聞こえたりしました。その人は、どうしていいかわからないけど、後から来た私たちに先に行かれるのが悔しかったのかもしれません。

もっと驚いたのですが、途中で「すいません」といいながら空いているところを抜けようとする際、「順番に並んでいるのですよ」という人がいました。いったい数千人の人がバラバラでいるところで、何を得るために順番に並んでいるというのでしょう?

このエピソードは、今の日本人の典型的な気質を象徴的に浮かび上がらせていると感じざるをえません。それは簡単に表現すると、「家畜の群れ現象」です。自分の置かれた状況がわからず、ただただ指示を待ち、待てば得られると思っている従属的気質です。


もうひとつ気になったのは、警備員がお松明が終わったら今いる場所から後ろにUターンして順番に帰って下さいと、ハンドマイクで呼びかけていたことです。確かに、その方が警備上は安全かもしれません。あれだけいた群集は、お松明が終わると、ものの20分もたたないうちにあっというまにいなくなり、後はほんの少しの参拝客とお水取りファンだけが残りました。しかし、少なくとも宗教行事である修二会の一部を見に来たのですから、ちょっとくらい二月堂にお参りする気持ちもあった方がいいのに、中にはお参りしたい人もいるだろうに、と戻っていく人たちを気の毒に思ってしまいました。

でも、このようなことは今の日本のあちこちで感じることが多くなりました。家畜の末路を考えると、なぜか、ぞーっとしてしまいました。