十代の頃好きだった「グルグル映畫館」のギター、ボーカルの天野鳶丸さん(故人)の口癖は「行間を読め!」でした。
彼の書く詞がかなり哲学的かつ分かりづらいメッセージを込めたもの(特に初期の作品)でしたので、インタビュー等で細かい部分にくどくど説明を求められるのにうんざりしていたのかな、と今では思います。

私の父も昭和20年代生まれの日本男子らしく、「必要なこと以外口にしない」事が潔い、と思っていたところがあり、幼い頃はそれを寂しく思った事もありました。



ただ、この「行間を読め」はある意味受けとる側の知的、精神的水準を試す様な、ちょっと不遜な態度にも見ることができます。

言わなくても察して欲しい。

それくらい分かるだろう。


日常生活でもコミュニケーションを取る中でそういう事がよくあります。

逆に細かい部分を長々と話されて、「もうわかったからいいよ」という場面もあります。


短歌はその点で みそひともじ しかないわけですから、その中でどんな世界を展開するか、伝えるかは相当に言葉を取捨選択しなければなりません。
仲間同士の歌会ならば、この人はこういう人、こんな人生を送っている、という事がある程度分かっています。有名な歌人の歌もこの時期の作者にはこういった背景があった、と伝えられています。

もちろん自由に、思いのままに詠むことも大切でそれも短歌の楽しみではあるのですが、できることなら普遍的な、少なくとも同じ時代を生きる人なら誰しもが理解でき、作者の人物像(心ばえも含めて)が浮かぶような短歌が詠みたいものです。
そこに分かってくれるだろう、と甘えることはできないし、かといって伝わらないことを前提に和歌を詠んでもただの独りよがりで終わってしまいます。


表現すること。
言葉を選んで、紡いでいくこと。
限りない可能性と難しさを感じているところです。



因みに前述の天野鳶丸さんの歌詞。
あれから二十年近くなって、こういう意味だったのかな、こういう気持ちなのか、と気づかされる事があります。
作詞当時彼は20代。
早熟な、それ故に寂しい方だったのかもしれない、と彼が亡くなった今しみじみと感じています。