ギャリック・オールソン(Garrick Ohlsson 1948~)
1948年、ニューヨーク州ホワイト・プレインズで生まれ、8歳よりピアノを学び始め、13歳でジュリアード音楽院に入学。サーシャ・ゴロドニツキ、ロジーナ・レヴィーンほか多くの名ピアニストに師事した。1966年、18歳でブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝、1968年にはモントリオール国際ピアノコンクール、さらに1970年には、アメリカ人ピアニストとして初めてショパン国際ピアノコンクールで優勝し、国際的な名声を確立する。
豊かな才能を誠実に磨き続け、その完璧なテクニックと幅広いレパートリーには定評がある。ショパンのピアノ作品全集、ベートーヴェンのピアノソナタ全集、80曲以上のピアノ協奏曲など、録音、演奏会ともに常に高い評価を得て、現代における最も傑出したヴィルトゥオーゾの巨匠のひとりとして活躍している。
どのようにピアノを学び始めたのでしょうか?
私はニューヨーク州のホワイト・プレインズで生まれ、8歳からウェストチェスター音楽院のトム・リーシュマンのもとでピアノを習い始めました。彼は子どもを教えるのが上手く、特別な才能を持った子どもをどのように導いたらよいかがわかっている優れた教師で、彼と出会えたことは幸運でした。
13歳になったとき、両親が私により専門的な教育を与えるべきだと考え、ジュリアード音楽院のサーシャ・ゴロドニツキに演奏を聴いてもらい、受け入れてもらえることになりました。しかし、私の年齢ではまだジュリアード音楽院に入学できないので、予科(プレカレッジ)に籍を置き、月曜日から金曜日は普通の中学校に通い、土曜日にジュリアード音楽院でゴロドニツキのレッスンを受け、楽理、和声学、対位法、室内楽なども学ぶようになりました。
ゴロドニツキは、どのような教師だったのでしょう?
彼の教え方は、とにかく模範を示し、楽曲について詳しく明晰に解説し、しっかりとしたテクニックを身につけさせることに特徴があったと思います。そして、彼が弾くピアノの音色は、あぁ、その美しさは言葉では言い表せません! 彼はヨゼフ・レヴィーンの生徒で、昔日のロシア楽派の黄金のような音色を持っていました。あまり公の場では演奏しませんでしたが、類まれなピアニストでした。
彼は素晴らしい教師でしたが、5年ほど師事していると問題が生じました。私の指が硬直し、脱力できなくなったのです。私は18歳の頃、ホロヴィッツのような演奏を目指していたのですが、あるときレッスン中に、弾けば弾くほど指が動かなくなり、とくに左手は痛くてどうしようもなく、医務室に行き、問題の深刻さに気づきました。当時は、こうした問題についての医学的な研究もなく、途方に暮れました。ゴロドニツキに助けを求めましたが、彼はただリラックスして柔軟運動をするようにと言うだけでした。
あなたは、その問題をどのように解決したのですか?
幸運な出会いがありました。ある日、近所に住んでいたオルガ・バラビーニという女性から突然電話がありました。彼女は、古きよき時代のヨーロッパの富裕層の出身で、家には多くの名画が飾られ、5、6カ国語を話し、年老いても美しく、異国情緒を湛えた高貴な雰囲気を持った人でした。
彼女は、「こんな電話をすべきではないと思ったけれど、あなたはジュリアード音楽院で学んでいて、筋肉の硬直の問題を抱えているのでしょう?」と言ったのです。そして、彼女が語った「それほど多くの代価を払って、有名になることを求める必要はありません」という言葉が深く心に響きました。
そのとき、彼女が何を言いたいのかよくわかりませんでしたが、私たちは出会い、それは4時間のレッスンとなりました。
彼女に何を聴いてもらったのですか?
ラヴェルの《スカルボ》です。最初の3つの音を弾いた瞬間に、彼女は私に尋ねました。「あなたはどのように音色をコントロールし、この3つの音を繋げようとしているの? あなたの指使いの考え方は? 腕の置き方は? どのようにバランスを取っているの? 」。私は彼女の質問に何も答えることができず、彼女の頭がおかしいのではないかと思いました。しかし、その4時間の間に、私たちは《スカルボ》の最初の3ページのテクニックの問題について語り合い、彼女は、関節や筋肉の動きについて説明し、自然な重力をどのように使うべきか、手をどのように動かし、鍵盤の上で移動させるべきかなど、驚くべき奥義を教えてくれたのです! それまで、誰も教えてくれなかったことを! つまり、ピアニストが最小限の力で、最大限の効果が得られる方法を! 彼女はまた、音楽について語り、フレージング、音色のつくり方についても教えてくれました。音楽はテクニックと分けて考えることはできないことも……。
彼女は誰に師事したのですか?
彼女はカーティス音楽院でヨゼフ・ホフマンに師事した後、クラウディオ・アラウに師事したようです。彼女のピアニズムは、アラウから受け継いだドイツ楽派の影響が強かったと思います。
ピアノの打弦装置が重くなるにつれて、ドイツ楽派のピアニストたちは、指だけで弾く奏法に限界を感じ、全身の力の使い方を考え直さなければなりませんでした。それについて、ロシア楽派には素晴らしい見解がありました。ヨゼフ・レヴィーンはその著書で、自然な重力を活かして腕や全身をどのように使うべきかを論じています。ドイツ楽派もロシア楽派も、同様の問題に直面し、それぞれ別のアプローチで同じ目的地に辿り着いたのだと思います。
私はバラビーニの指導を受けることができた幸運に感謝し、彼女のレッスンを受け続けたいと思いました。でも、私はジュリアード音楽院の学生です。どうしたらよいだろうと悩みました。バラビーニは、私の非凡な才能を認め、プライドを捨てて現実を受け入れ、私がジュリアード音楽院に留まることを認めてくれました。ただし、彼女が教えた作品をゴロドニツキのレッスンに持って行かないようにと言いました。それは、トラブルや葛藤を避けるためでした。
私はゴロドニツキに7年間師事しましたが、最後の2年間、実際はバラビーニに習っていたと言っていいでしょう。その2年間で、音色、テクニック、フレージングなど、あらゆる面で私は目覚ましく成長しました。ゴロドニツキはとても驚いていましたが、彼にはその理由がわかりませんでした。
なぜ彼に本当のことを言わなかったのですか?
当時、生徒がほかの教師に個人的にレッスンを受けることは、師事している教師にとって屈辱的なことでした。ジュリアード音楽院には、さらに特殊な事情がありました。ジュリアード音楽院のピアノ科の教師たちは、自分たちが世界一だと自負していたからです。もしかすると、モスクワ音楽院が、それに匹敵したかもしれませんが……。ジュリアード音楽院には、世界最高峰の教授陣がいるわけですから、彼らの生徒がほかの教師のレッスンを受けることなど、できるわけがなかったのです。
それで、あなたはゴロドニツキのクラスに留まって学ぶしかなかったのですね。
はい。でも、最後の2年間はだんだん辛くなっていました。ゴロドニツキの名声は高かったのですが、私を真に助けてくれたのはバラビーニでした。私を陰で支え続けている彼女のことを秘密にすることに耐えられなくなっていました。
もうひとつ、ゴロドニツキの音楽解釈には柔軟性がありませんでした。彼は厳しい教師ではありませんでしたが、いつもひとつの方法しか示してくれませんでした。もちろん、彼がその方法で弾く演奏はきわめて美しかったのですが、私は彼ではありません。彼の解釈は間違っていませんでしたが、ほかの可能性もあると思ったのです。
私は悩みましたが、ベトナム戦争のため、ジュリアード音楽院を離れることはできませんでした。当時、アメリカ政府は、誕生日の抽選で徴兵する若者を決めていて、私の誕生日は早い方にリストアップされていたので、私が大学に在籍しなければ、ベトナムに行かなければならなかったのです。私は人を殺したくありませんし、まして殺されたくはありません。ですから、ジュリアード音楽院に留まるしかなかったのです。しかし、そろそろゴロドニツキから離れる時期だと感じていました。すでに7年間師事したので、先生を換える時期が来ていたのです。
でも、教師を換えることは、ゴロドニツキを傷つけることになりませんでしたか?
そうなんです! 当時のジュリアード音楽院の状況について、まず話さなければなりません。ピアノ科の教授の名簿の最高位に置かれていたのは、ロジーナ・レヴィーンです。彼女は、ジュリアード音楽院の教師として有名なだけでなく、世界中で最も有名なピアノ教師でした。彼女は、ヨゼフ・レヴィーンの妻で、優れたピアニストでした。ヴァン・クライバーンがチャイコフスキー国際コンクールで優勝する前から、彼女はすでに有名でしたが、クライバーンの優勝後、彼女の名声はさらに高まり、揺るぎないものとなりました。そのため、ほかの教師たちは、二番手の地位を争うしかありませんでした。当時、最も激しい競争を繰り広げていたのは、ゴロドニツキとアデーレ・マーカスでした。マーカスは、自分がレヴィーンのライバルであることを、はっきりと表明していました。その後、学校がロンドンから有名なピアニスト、イローナ・カボスを招いたことで、競争はさらに熾烈なものに発展しました。しかし、人間の予測は、神のそれには及びませんでした。カボスはレヴィーンより早く亡くなり、最初に戦列から退却し、ゴロドニツキとマーカスは、まさかレヴィーンが96歳の長寿を全うするとは思っていませんでした。彼女が亡くなったとき、ゴロドニツキとマーカスは、すでに年老いていて、ジュリアード音楽院の最高位の教師の座を争うエネルギーも体力も残されていませんでした。
それで、あなたはロジーナ・レヴィーンに師事することになったのですね。天下第一の教師のところに行くのならば、ゴロドニツキの面子を汚すことにはなりませんよね。
そうなんです! それに彼女には多くの助手がいて、彼らの教え方は彼女とは違いました。ですから、彼女の解釈は自由で開放的だろうと考え、私がバラビーニのレッスンを受けていることも許してもらえると思ったのです。
私は1966年にブゾーニ国際ピアノコンクール、1968年にモントリオール国際ピアノコンクールで優勝し、ゴロドニツキも私の教師として称えられたので、よい機会だと思い、モントリオール国際ピアノコンクールで優勝した後の秋に、ロジーナ・レヴィーンのもとに行くことになりました。
彼女は当時90歳で、ほとんど外出もせず、私の演奏を聴いたことがありませんでしたが、私がジュリアード音楽院の学生のスター的な存在であることは知っていました。彼女の家を訪ねたとき、ロシア訛りのチャーミングな英語で、「あなたがまた賞を獲ったことを知っているわ。私のところで学びたいと言ってくれて、とても光栄よ」と言ってくれました。彼女はとても礼儀正しい先達でした。私が彼女にショパン《舟歌》を聴かせたところ、彼女は喜んで拍手をしながら褒め称えてくれました。「あなたは、本当にショパンのスタイル、音色、ルバートの妙がわかっているわ! 素晴らしい! 」と言ってくれて、さらに私はショパン、モーツァルト、ベートーヴェンの作品を弾き、彼女はとても気に入ってくれたので、バラビーニに習っていることを打ち明けました。
それで、どうなったのですか?
彼女は、「私はバラビーニがどういう人なのか知りませんが、あなたの今の状況はとても複雑で、学校側も好ましく思わないでしょう。でも、私はあなたがバラビーニに習うことを認めます。ただし、同じ曲を同時に2人に習わないでください。私はバラビーニに会ってみたいです」と言いました。
さすがに大物ですね。温かく気品にあふれた人柄を感じます。
彼女は本当に聡明で、慈愛に満ちた人でした。でも、バラビーニは、ロジーナ・レヴィーンには会いたくないと言いました。とにかく、これが彼女に師事するようになった経緯です。
彼女の教え方は、どのようだったのですか?
彼女はゴロドニツキよりも柔軟で、知的なレッスンをしてくれました。また年齢を感じさせないほど、耳も頭脳も鋭敏でした。私がベートーヴェンのソナタを弾いたときのことです。彼女は、「あなたに自分のアイディアがあるのはわかるわ。でも、ベートーヴェンはこう指示しているでしょ。あなたはそう弾かなかった。あなたはベートーヴェンより自分の方が正しいと思っているの?」と言いました。私は彼女の言うことはもっともだと思いましたが、それでもいろいろ自分の考えを語りました。すると、彼女はこう言いました。「いいでしょう。あなたは創造力豊かで、自分で考えて演奏できる。でも、あなた自身のアイディアが熟す前に、自分が本当にベートーヴェンの意図を汲んで演奏しているかどうかを考えてほしいの」。このように、彼女はいつも巧みな言葉と方法で私を導いてくれました。
彼女は高齢だったので、毎回すべてのレッスンがよかったわけではありませんが、私はすでに自立していましたし、バラビーニにも習っていたので、問題はありませんでした。ロジーナ・レヴィーンに師事して2年経ったときに、私はショパンコンクールに参加し、優勝しました。それをきっかけに演奏活動が軌道に乗ったので、ジュリアード音楽院を去りました。
(バラビーニのレッスンを受ける若き日のギャリック・オールソン)
1970年には、チャイコフスキーコンクールもありましたが、ロジーナ・レヴィーンが、あなたにショパンコンクールに参加することを勧めたのですか?
いいえ、まったく反対です。彼女は、ロシア楽派は壮大な響きと演奏スタイルを好むと考えていて、それはまさに私の演奏でした。それに反して、ワルシャワのショパンコンクールは、抑制の効いたフランス的な演奏を好み、さらにポーランドの人々は国家の威信をかけて、このコンクールを重視していました。私がショパンコンクールに参加しても、審査員たちは、私をテキサスのカウボーイだと思うだろうと彼女は心配しました。
それでも、私は彼女の意見に逆らって参加することにしたのです。私自身がピアニストとして成長するために、このコンクールに参加すべきだと思ったのです。
チャイコフスキーコンクールの課題曲は、ほかのコンクールとほぼ同じで、第1次予選でバッハを素晴らしく弾いたからといって優勝できるわけではありません。それに比べて、ショパンコンクールは、それぞれのラウンドで細かく採点され、どの曲もおろそかにすることはできません。ノクターンを上手く弾けなかったために、次のラウンドに進めない場合もあります。
もしも私がまだコンクールに参加するのであれば、ショパンコンクールに参加して、自身の腕を試したいと思いました。もちろん、私がショパンを熱愛していたということもあります。
1970年のチャイコフスキーコンクールの優勝者は、ウラディミール・クライネフですが、あの年はレーニンの生誕100周年で、国家の威容を示すため、ソ連当局は、すべての部門の優勝者をロシア人にしたかったようですね。ショパンコンクールに参加したソ連のピアニストは精彩を欠いたようですが、あなたはどのように感じましたか?
あのコンクールに、ソ連は1年前から3人のピアニストを選抜して訓練し、多くの演奏会を開催して腕を磨かせていました。彼らはワルシャワに着いた後も、監視下に置かれ、閉じ込められて練習していました。彼らの演奏は素晴らしかったですが、疲れや緊張、恐怖が感じられました。西側の参加者にとっては、今回入賞できなくても次のコンクールがありますが、彼らにとっては、入賞できるかどうかは生死にかかわる問題であり、国家の威信にかかわる問題でした。彼らはプレッシャーに打ちのめされ、次々とステージから消えていきました。
ソ連はかえって裏目に出たようですね。
それはメンタルな問題だと思うのです。私は生徒に、「コンクールに参加するとき、勝とうと思ってはいけない」と言っています。優勝しようと思ってコンクールに参加し、優勝できることはほとんどありません。
それは意外な言葉ですね。あなたは3つの大きなコンクールで優勝しているのに!
正直に言いますが、優勝できなかったコンクールもあるのです。プロフィールに書いていないだけです。コンクールでは、何が起きるかわかりません。その土地の水に慣れず体調を崩すかもしれませんし、母親が亡くなったというニュースが飛び込んでくるかもしれません。そのような状況で、誰が上手く演奏できるでしょう? すべてをコントロールすることはできませんし、誰がライバルになるかもわかりません。
ショパンコンクールに参加する前、私はとても緊張していました。なぜなら、出場者リストにソ連のエフゲニー・モギレフスキーの名前を見つけたからです。彼は、1964年に19歳の若さでエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝しました。彼のラフマニノフ《ピアノ協奏曲第3番》の録音を聴き、その素晴らしさに圧倒されました。彼のように優秀で、演奏経験の豊富なピアニストが参加するなんて、これは大変なことになったと思いました。しかし、私がワルシャワに着いても、彼は現れませんでした。公式には病気ということになっていましたが、おそらく政治的な理由だったのだろうと思います。彼が政治的に「ふさわしくない」存在になったので、ソ連は彼を派遣しなかったのでしょう。もしも彼が参加していたら、興味深い状況になったでしょう。私は優勝できなかったかもしれません。
あなたは謙虚過ぎます。たしかにモギレフスキーは傑出したピアニストですが、あなたも18歳でラフマニノフ《ピアノ協奏曲第3番》を弾いて、ブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝したではありませんか。
あの曲は、15歳のときに、夏休みの宿題としてゴロドニツキから与えられました。彼は、「今この曲を学んでおけば、一生忘れることはないし、演奏することに恐れを抱くこともないだろう」と言いました。たしかにその通りでした。恐ろしく難しい作品ですが、私は今でも恐れることなく演奏し、この協奏曲を心から愛しています。
ショパンコンクールに話を戻しますが、あなたはロジーナ・レヴィーンの意見に影響されたのでしょうか?
正直に言って、少しは影響があったと思います。バラビーニには、マズルカを勉強する上で、とても助けられました。彼女はユダヤ系ポーランド人のピアニスト、マリラ・ヨナスのマズルカの録音を持っていて、そこからマズルカの弾き方について整理してくれました。また、図書館で舞曲についての本を探して、ポロネーズ、マズルカ、ワルツの演奏の本質を分析してくれました。彼女はもともとショパンを得意としていました。なにしろ、あの偉大なショパン弾きのヨゼフ・ホフマンの弟子だったのですから。
私は、ポーランドの人々が私のような壮大なスタイルの演奏を好まないのではないかと心配しましたが、それは杞憂で、彼らは私の演奏を高く評価し、私の解釈についても異議を唱える人はいませんでした。私は今でもよくポーランドに招かれて演奏しています。
(ショパンコンクールで優勝したときのギャリック・オールソンと両親)
(1970年第8回ショパンコンクール優勝のギャリック・オールソンと第2位の内田光子)
(続く)





