私の翻訳シリーズ『ピアニストが語る!』の著者、チャオ・ユアンプー(焦元溥)さんがFace Bookに発表したフー・ツォンへの追悼文を翻訳しました。

 

フー・ツォンの音楽と人を偲ぶ

 

                         チャオ・ユアンプー(焦元溥)

 

 フー・ツォンの多くの録音の中で、ドビュッシー《版画》と《映像》が収録されている音盤は、特別な味わいを持っている。「版画」の最初の曲が始まる前と「映像」の最後の曲が終わった後に、9秒か10秒くらいの空白の時間がある。それはまるで、中国の絵画の「留白(余白)」、静寂の中から音楽が生まれ、静寂の中に消えていくように感じられる。

 

 私もそれに倣って、薄墨色から暗闇の中に消えていくように、この文章を書き終えたいと思う。

 

 とにかく書き始めてみよう。書き始めなければ、書き終えることはできない。

 

 どう書いたらよいのかわからないのだが……。

 

 フー・ツォンの1955年のショパン国際ピアノコンクールでの驚異的な演奏については、今日に至るまでさまざまな人々に語り継がれている。同じコンクールに参加したハンガリーの名ピアニスト、タマーシュ・ヴァーシャーリ(Tamás Vásáry, 1933-)は、私のインタビューに応えて、「今でもあのときのフー・ツォンの演奏をはっきりと覚えています。あれは私が聴いたもっとも美しいショパンのマズルカで、その輝くような芸術性はすべての参加者のなかで際立っていました。当時、私は家族に宛てた手紙の20枚の便箋の19枚に、フー・ツォンの演奏について書いています。ですから、音楽に国境や楽派の区別などあるでしょうか? 私が聴いたもっとも素晴らしいポーランド音楽は、ひとりの中国人ピアニストによって奏でられたのですから」と語っている。

2005年のショパン国際ピアノ国際コンクールの優勝者、ラファウ・ブレハッチ(Rafał Blechacz, 1985-)は、ショパンの民族的な作品の解釈について、先輩ピアニスト、フー・ツォンを例に挙げ、このように語っている。「ポーランド人のピアニストでなくても、たとえばフー・ツォンのようにマズルカやポロネーズの真髄を掌握している人もいます。ですから、大切なのは鋭敏な感性なのだと思います。それさえあれば、作品の論理や作曲家の心情に近づき、新たな視野でそれを自身の音楽として再構築することができるでしょう」。

 

 晩年は国際的な演奏活動が少なくなっていたため、クラシック音楽ファンの間で彼の存在はあまり知られなくなっていた。しかし、この伝説的なピアニストを崇拝する人々は多く、ショパン国際ピアノコンクールやエリザベート王妃国際音楽コンクールは、度々彼を審査員に招いた。自らが審査委員長として主催するコンクールを持たず(いわゆる「コンクールの経営者」ではなく)、コンクールの政治にも関わらず、長年に渡って招聘され、独自の地位を築いていたことは驚くべきだと思う。彼はまた、固定した教育機関で教職に就くことはなかったが、多くの若いピアニストが彼の指導を受けることを願い、音楽について深い思索を巡らす個性的な後輩たちを育てた。

 

 コンスタンチン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz, 1976-)は、「夢が叶った」と、フー・ツォンのレッスンを受けたときの喜びを語った。ドイツ・オーストリア作品の優れた演奏者として知られるフランスのピアニスト、フランソワ=フレデリック・ギィ(François-Frédéric Guy, 1969-)、ポーランド/ハンガリーのピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキ(Piotr Anderszeeski, 1969-)も、フー・ツォンの教えを受け、ギィは「彼は私の音楽の父」と深く慕っている。

 

 フー・ツォンは毎日多くの時間を自身の練習に費やしていたが、後進の指導にも情熱を燃やし、彼の家にはいつも世界各地から生徒たちが訪れていた。才能あふれるアメリカのピアニスト、アンドリュー・タイソン(Andrew Tyson, 1986-)は、カーティス音楽院で学んでいたころ、フー・ツォンのマスタークラスを受けて深い感銘を受けたと語っている。

 

 フー・ツォンの演奏を語るとき、まず最初に挙げたいことは、その清潔な美しさである。ショパン国際ピアノコンクールでの演奏、初期のレコードやライヴ録音を聴くと、彼が若いころから稀有なセンスを持つ音楽家であったことに驚嘆させられる。これは天性の才能だとしか言いようがない。もちろん彼が知的な家庭環境で育ち、幼いころから文学や芸術に親しんでいたことはたしかだが、それだけで彼の音楽の秀逸さや優雅さを説明することはできない。同じような環境で育っても、彼とはまったく違うタイプの演奏家もいるからだ。

 フー・ツォンの演奏スタイルは年齢とともに変化し、音楽の構想はより大きく、情感はより深く豊かになっていった。彼のフレージングにはいつも味わいがあり、もっとも小さな装飾音にすら自然で洗練された風格を感じさせた。

 

 天賦の才能がすべてではないし、時間の経過とともに失われるものもあるだろう。フー・ツォンが偉大な音楽家となった所以は、たゆまぬ学びの賜物だ。彼の演奏にはいつも壮大な構成感があるが、それは理にかなった和声の分析に基づいている。鋭敏な聴覚を持っていたことはたしかだが、それより重要なのは精密な解釈だと思う。

 たとえばショパンのノクターンだが、旋律を歌うことばかりを考えていると、全体の楽想はどうしても矮小化されてしまう。ショパンは数小節にわたって同じ和声を使ったり、二、三小節のなかで頻繁に和声を変化させたりしながら、伸縮自在に和声を操り、波しぶきの下の流れ、さらにその下に潜む海流を感じさせる。それがまさにフー・ツォンの演奏だ。彼のテンポ・ルバートの不思議について語る人は多い。それは天賦の才能以外に、深い道理を感じさせるからだ。和声について、フー・ツォンは大きな脈絡を把握した上で、細部を表現していた。

 転調による「同音異名」(たとえば、嬰イ音と変ロ音は鍵盤上では同じだが、作曲家は「接木をする」ような巧妙な設計で、和声変化の妙を探求している)、音色の変化、グラデーション、軽重の暗示など、フー・ツォンは実に巧みにそれを表現している。聴く側が「聴き慣れている」あるいは「理解している」解釈とは限らないが(これについて、私は子どものころよく困惑したものだ)、彼の演奏には絶対的な道理があり、それは作品そのものに根ざした道理だった。

 

 この道理には、国籍や人種にかかわりなく、ヘンデル、バッハ、ブルックナー、マーラーに至るまでのドイツ・オーストリア音楽の伝統に深く貫かれた堅固な根拠がある。ショパンはポーランド出身の作曲家だが、作曲技法という意味では、この系統に属する。

 フー・ツォンのレパートリーは、この系譜の上に構築されていた。そのようなピアニストは少なくないが、フー・ツォンが特別なのは、音楽のスケールが大きいだけでなく、それが広大な天地を開き、宇宙にまでつながっているように感じさせることだ。和声を解釈の出発点とし、そこから壮大な視野で音楽をつくり上げた音楽家に、指揮の巨匠、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886-1954)がいる。フー・ツォンがもっとも輝かしい才能を発揮した演奏を聴くと、その表現や境地はフルトヴェングラーと並び称せられると感じる。

 たとえば、ショパン《バラード第4番》で、ロマン主義の核心にまっすぐに迫り、聴く人を恐れ慄かせたかと思えば、《船歌》では、銀河を駆け巡るように悠々と一大叙事詩を描き出している。

 「映画音楽として知られている」モーツァルト《ピアノ協奏曲第21番》の第2楽章も、フー・ツォンの手にかかると、青い空と大地が清々しく描き出される。各声部を繊細に弾き分けるだけでなく、指揮も担当し、オーケストラの和声に隠された言葉に耳を傾け、豊かな解釈で驚くべき立体的な音楽を構築している。

 同じような印象を私に与えたピアニストは、ラドゥ・ルプー(Radu Lupu, 1945-)である。彼の演奏活動の最後の時期の演奏は、スケールが大きく、楽想も豊かで、楽曲の最初のフレーズを弾いた瞬間に最後に至るまでの道筋が導き出され、「弾き終わる」という感覚がないまま自然に終わっていくように感じられた。

 

 そのような全体を包括するスケールの大きな演奏は、すべての楽曲に「適応」すべきなのだろうか? もしフー・ツォンにそう尋ねたら、「すべての楽曲は、そのように演奏されるべきだ。人々は楽曲を矮小化している」と答えるだろう。結果的にフー・ツォンの解釈は、作品の様式に逆らうことなく、過度な解釈は一切ない。彼の解釈は和声から出発しているが、これはふたつの特質によるものだと思う。ひとつは、古典の精神。彼は生まれながらにこの演奏スタイルを掌握し、その後も研鑽を重ね、古典派とロマン派のバランスを絶妙に取りながら演奏活動を繰り広げた。いわゆる「モーツァルトをショパンのように、ショパンをモーツァルトのように」とは、まさに彼の演奏に貫かれた法則だ。だからこそ、フー・ツォンのモーツァルトとショパンの演奏が傑出した輝きを放ち、「レジェンド」と称されるのだろう。

 それに加えて、彼が晩年取り組んだ作曲家はハイドン。彼のハイドンの鍵盤作品の演奏は、それまでに誰もが到達できなかった興趣、美しさ、深み、詩情にあふれている。ハイドン、モーツァルト、ショパンへと脈々と受け継がれた音楽を真摯に探究したピアニストは彼だけだったのではないだろうか。

 彼が2009年に録音したハイドン作品のアルバムの緩徐楽章はいずれも抒情あふれるインスピレーションに満ち、速い楽章はウィットに富み、凛とした若々しさを感じさせる。

 彼の1950年代、1960年代の演奏と比べて聴くと、エレガントなフレージングは、たしかに彼だと感じさせるのだが、ハイドン《アンダンテと変奏曲へ短調》で繰り広げられる精神的な深さと細部へのこだわりは、以前の彼を遥かに凌駕している。

 

 ふたつ目の特質を挙げるなら、彼が楽譜を詳細に研究し、比較して考えていたことだ。スケールの大きな芸術家は、しばしば「細部にこだわらない」傾向があるが、彼はそうではなかった。作品に向き合うとき、彼は永遠に学生であり、関係する書籍や作曲家の著作を読み、楽譜の細部を読み解いていた。作曲家直筆の楽譜やさまざまな版を比較しながら……。

 2010年のショパン国際ピアノコンクールで優勝したユリアンナ・アヴデーエワ(Yulianna Avdeeva, 1985-)は、ショパンのマズルカについて、「フー・ツォンは、“マズルカは心で理解しなければ弾けない”と言っていました。つまり、言葉では教えることができないと……。彼のマズルカはまさに絶品で、誰も到達できない世界です。彼がマズルカに取り組む姿勢から多くのことを学びました。ひとつひとつの音を繰り返し吟味し、ショパンがそこに込めた想いを探究し続けていました。彼から受けた影響は大きく、さまざまなインスピレーションを得ることができました。まだうまく表現できないマズルカがたくさんありますが、フー・ツォンの演奏を思い出しながら努力し続ければ、いつか弾けるようになるかもしれないと思っています」と語っている。

 フー・ツォンとショパン作品について語り合った若輩者として、私も彼がさまざまな版の楽譜を詳細に読み込み、すべての音符、スラー、スタッカートなどのアーティキュレーション記号、ペダルの指示を掌握し、さらにショパンの自筆譜や文献を研究していたことを知っている。細部への飽くなき思索により、自身の解釈を常に修正しながら、一貫して適切な時代スタイルを崩すことはなかった。

 彼が情熱を傾けて取り組んだ作曲家はショパンだけではない。また、彼が深く探究した作曲家や作品は、必ずしもピアノ作品だけではなかった。たとえば、彼が生涯愛し続けたベルリオーズ。交響曲、オペラの楽譜の細部に至るまで把握し、オーケストレーションについても詳しく語っていた。ベルリオーズはピアノの独奏作品を書いていないが、フー・ツォンが心を通い合わせた作曲家だ。

 

 では、どのような作品が彼の心を捉えたのだろうか? 私の考えでは、彼の魂に語りかけたのは、天と人、人と自然を調和させる力を持った創作だったと思う。それは彼の主観的な感じ方によるものだが……。たとえばハイドンの作品から、そのような特質を引き出したのは彼が初めてのピアニストではないだろうか。

 もう一方で、作曲家の音楽的な構想や作曲手法も関係している。彼は緻密に組み立てられた構造を持つ創作を好んだ。しかし、それが「有機的に発展する」手法で書かれていなければ、彼の心をつかむことはできなかった。モーツァルトとショパンがそのよい例である。とくにショパンの作品は、まるで樹木の枝葉が伸びていくように展開されている。そこには厳格な思考が潜んでいるが、まさに「有機的に」発展している。バッハ、ベートーヴェンのように広く愛され、ショパンよりも度量が大きく感じられる作品が、フー・ツォンのレパートリーにあまり入っていないのは、そのためだろう。バッハ、ベートーヴェンの作品の構造は、まるで大聖堂のような巨大な建造物に似ていて、数学的な計算に基づいて構築されている。フー・ツォンが残したわずかなバッハとベートーヴェンの録音を聴くと、このふたりの作曲家の比較的「有機的」で、インスピレーションに満ちた作品が多いことに気づく。

 また、バッハやベートーヴェンに比べて構造があまり厳密ではないヘンデル、スカルラッティ、ハイドン、シューベルトの作品で、彼は生き生きと自身の言葉を音楽にして語っている。欧米で教育を受けたピアニストは、フー・ツォンのスカルラッティに違和感を感じるかもしれない。ホロヴィッツ以降、スカルラッティのソナタは演奏家が技巧をひけらかす道具のようになってしまった。しかしフー・ツォンのスカルラッティは、まったく別天地を繰り広げている。学究的でもなく、宮廷の貴族音楽でもなく、産業革命以前の人間と自然との調和、それらが互いに影響し合う世界がみずみずしく描き出されている。

 

 そのような意味で、フー・ツォンはどのように東西の文明を融合させていたのだろうか。彼は表面的にひとつの文明でほかの文明を類推するのではなく、真心を込めて互いに通じ合うものを模索し、それを音楽で自然に表現していたのだと思う。だからこそ、ドイツ・オーストリアの伝統を深く理解し、さらにそれにとらわれることなく、自由な精神でドビュッシーの作品に向き合うことができたのだ。彼はドビュッシーの作品で、有形と無形の間、東洋と西洋の間を追求し、言葉では言い表せない世界を描き出し、卓越した音色と響きで天地万物を表現していた。それは、時間と空間を巧みに操った偉大な芸術だ。

 

 フー・ツォンの演奏芸術について、最後に語らなければならないのは「技巧」についてだ。フー・ツォン自身が謙虚だったことと、超絶技巧をひけらかすタイプのピアニストではなかったため、彼がテクニック的に劣っていたと言う人もいるが、それは間違いだ。

「技巧」というものを、「複雑で難しい作品をどんな速さや音量でも弾くことができる。すべての音がクリアに聴こえるように精密にコントロールできる。さらに細部に至るまで優美な音色と色彩感で表現できる」と定義するなら、たしかにフー・ツォンにはそのような能力はなかった。しかし、そのレベルに達している演奏家は、けっして多くはない。

 もしも「技巧」を「自身の解釈を実現することのできる演奏技能」と定義するなら、フー・ツォンの技巧は卓越していたと思う。ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第31番》の録音を聴くと、第3楽章ではフーガの主題の旋律をくっきりと浮かび上がらせながら、三つの声部の明暗をグラデーション豊かに描き分けている。

 彼は自身のテクニックは今の若いピアニストの足元にも及ばないといつも言っていたが、ショパン《エチュード》全曲集の録音を聴くと、輝くようなテクニックを発揮し、第1曲(op.10-1)のハ長調のアルペジオの練習曲から、大ピアニストの風格を感じさせる。テクニックと音楽の調和という意味で、忘れ難い印象を残す録音だ。短く精巧な作品とみなされる『黒鍵』(op.10-5)を、彼はダイナミックな演奏でみずみずしく表現している。もちろん『革命』(op.10-12)や『大洋』(op.25-12)のスケールの大きさは、聴く人を驚愕させる。とくに『革命』は、私にとって忘れることのできない演奏だ。『別れの歌』(op.10-3)は、楽譜に忠実な珍しい演奏だと思う。譜面に書かれた「Lento, ma non troppo」(遅く、ただしあまり極端ではなく)という指示を守り、演奏時間は3分22秒。現在多くの演奏家が4分以上かけて演奏しているのに……。しかもその解釈には説得力があり、ショパンがこの曲に込めた意味を考えさせてくれる。

 ここまで書いて、パウル・バドゥラ=スコダ(Paul Badura-Skoda, 1927-2019)を思い出した。彼が校訂したショパン《エチュード》の楽譜は、もっとも推奨されるべき版だが、この曲について深く考察した彼の名演もすばらしい。彼もけっして超絶技巧派のピアニストではなかったが……。

 

 この文章の最初に触れた1990年に録音されたドビュッシー《版画》と《映像》のアルバムは、生き生きと描写される楽想が絶妙で、洗練された音色と響きに魅せられる。速いパッセージのサウンドはクリアで、もっとも完成度の高いドビュッシーの録音のひとつではないだろうか。これまで聴いたすべてのピアノ作品の録音のなかでも、これは秀逸な録音だと思う。

 

 1990年代は、私にとってフー・ツォンの演奏芸術を真に理解するようになった時期だ。私が17歳のとき(1995年)、彼は台湾に来てリサイタルを開いた。ショパン《24の前奏曲》を含むその日の演奏は実にすばらしく、今でも忘れることができない。無限に広がる音楽、鮮やかなテクニック、透明感のある明るい音色……、彼のどの録音よりも優れていると感じた。ショパン《24の前奏曲》には、かなり技巧的に難しい曲が含まれているが、もっとも難しい第16番、第24番も余裕たっぷりに驚異的な演奏を繰り広げた。

 しかし、その後の10年間、彼は手を傷めて苦しみ、演奏会でもピアノと格闘するような場面がよく見られた。2004年、ボストンでリサイタルを聴いたとき、このように「ピアノと戦い、力比べをするような」状態を続けていたら、これ以上弾き続けられないのではないかと思った。しかし、その数年後、フー・ツォンはピアノと協調する道を探し出した。2014年の台北のリサイタルで、80歳のフー・ツォンの指は、70歳のときより自在に動いていた。その日の夜、彼が奏でたドビュッシー《前奏曲第2集第10曲「カノープ」》、モーツァルト《ロンド イ短調》、ショパン《バラード第4曲》の演奏は、一生忘れることができないだろう。

 

 最後に、私が実際に触れたフー・ツォンについて語ろう。

 

 私はフー・ツォンのインタビューを『遊藝黒白』に収めたが、正式に彼にインタビューしたことはない。

 

 え? と思う人も多いだろう。 彼はあまり形式的なことを好まなかった。インタビューというものは、彼にとってそういうものだった。しかし、彼の気が向けば、たくさん「おしゃべり」してくれた。拙著『遊藝黒白』のフー・ツォンのインタビューは、そうした何回かの「おしゃべり」で構成したものである。

 

 フー・ツォンという人物に距離感を感じた人は多いだろう。私もそうだった。しかし、彼を知れば知るほど、その距離感は華人社会に特有なものなのではないかと思った。

 

 その理由はよくわからない。華人社会のなかで、フー・ツォンは大音楽家、大ピアニストだっただけでなく、フー・レイ(傅雷)の息子であり、『フー・レイ家書』を受け取った人物だった。そのような意味で、彼には音楽とは関係のないさまざまなレッテルが貼られたことはたしかだ。

 

 しかし、彼はただ音楽家でありたかった。

 

 私はそのような如何ともしがたい彼の立場を理解することができる。彼が何回か台湾に来たときの座談会の後、聴衆から『フー・レイ家書』について尋ねられると、苦笑しながら「私はもう70歳なんですよ」と答えていた。

 

 彼と音楽について「おしゃべり」するとき、フー・ツォンはいつも子どものように無邪気に語り、好奇心に満ちあふれていた。まさにそれが「赤子の心」だ。赤子には何ももったいぶったり、構えるところはない。 あるとき、彼と語り合っていたとき、「そう言えばこのテーマについて、記事を書いたことがあるのですが、お見せしなくて申し訳ありませんでした」と言ったら、フー・ツォンは「やめてください! 私は皆が言っているような気難しい人間ではありませんよ!」と言った。その後、その記事を彼に送った。彼がそれをどのように思ったのかはわからない。

 

 ほとんどの人がフー・ツォンの「機嫌をそこねた」ことはないと思う。彼は正直な人物で、いつも率直に語っていたが、それによって関係者を傷つけることには配慮し、うっかり誰かを傷つけるような発言をしたときは、罪悪感を感じていた。

 

彼は終生、作曲家に忠実に奉仕する偉大な芸術家だったと思う。

 

中国のピアニストのチェン・サ(陳薩)にインタビューしたとき、フー・ツォンのレッスンを受けたことのある彼女と、このような会話を交わした。

 

チェン・サ : ラフマニノフの協奏曲は、ピアニストにとって絶対に必要なレパートリーで、誰もが弾きたいと思いますよね……。

 

焦元溥 : フー・ツォン以外はね。

 

チェン・サ : アハハ、フー・ツォンはラフマニノフの音楽は砂糖水のように甘くて俗っぽいと言ったでしょ?

 

焦元溥 :  2010年に彼のロンドンの自宅を訪ね、ショパンについて語り合った後、いくつかのコンクールで審査員を務めたときの話になり、コンクールのファイナルがつまらなくなっていることを嘆いていた。コンテスタントたちは技巧をひけらかす作品を選ぶ。とくに「砂糖水」のようなラフマニノフばかり弾くと……。

 その後、話題が変わって「ところで君はなぜロンドンにいるの? 台湾から私とおしゃべりするために来たのではないよね?」と尋ねられ、「私は2007年からロンドンのキングス・カレッジの博士課程で学んでいます。申し訳ありません。もっと早くご挨拶に伺うべきでした」と答えた。「へぇ、それで君は何を研究しているの?」と尋ねられ、「ラフマニノフについてです」と答えた。

 

チェン・サ : え~!!! それで、フー・ツォンは何と言ったの?

 

焦元溥 : 彼はしばらく黙って、「あ、ラフマニノフは……、偉大なピアニストだ」と答えた。

 

チェン・サ : ハハハ! 彼も人に合わせることができる人だったのね!

 

焦元溥 : そう! それは私たちふたりの私的な会話だったが、40歳以上年少の私に対して、彼はこれ以上ラフマニノフについて批判することは、私に自分の人生が無駄だったと感じさせるのではないかと心配し、何かラフマニノフについてよいことを話そうと一生懸命考えてくれた。彼のそのような態度に、私は今でも大きな感動を覚える。

 

チェン・サ : それがまさにフー・ツォン。80歳を過ぎても、誠実で熱い心を持ち続けた愛すべき人物。心から尊敬します。

 

焦元溥 : 私にとってもそうです。

 

 この文章は書き始めるのも大変だったが、どのような言葉で締め括るべきかわからない。「言葉が終わったところから音楽が始まる」とよく言われるように、人間には言葉では表現できない感情が多過ぎて、言葉にした途端に意味を失ってしまうように感じられる。だからこそ、私たちには音楽が必要であり、芸術が必要なのだ。

 

 フー・ツォンは自身が見たもの、聴いたもの、考えたことのすべてを音楽にしていた。彼の音楽に耳を傾ければ、真の彼の姿を知ることができるだろう。

 

 豊かで美しく深遠な音楽的遺産を残してくれたフー・ツォンに心から感謝するとともに、もっとたくさん残してほしかった、少なすぎる! と思ってしまう私がいる。彼について、まだまだ語りたいことはあるが、ここで筆を置き、留白(余白)を残すことにしよう。