昨年末、私が評伝を書いた中国の伝説的なピアニスト、フー・ツォンが新型コロナウィルスによって亡くなりました。

 

 

 何か書かなくてはと思いながら、気持ちがまとまらないまま日々が過ぎてしまいました。

 

 その間、ある新聞社の取材に応えて、資料などを提供し、いろいろお話したのですが、真意とはまったく違う記事が掲載されてショックを受け、立ち直れない気分でいました。

 

 私にできることは? と考え、とりあえず、フー・ツォンと私との関わり、彼の人となりについて、これまでに書いたものなどからご紹介したいと思います。

 

 まず最初は2008年、南京で開催されたフー・ツォンの父、フランス文学者のフー・レイの生誕100年周年を記念するシンポジウムに参加したときに発表した講演の原稿です。

 

 日本語と中国語の原稿を掲載します。

 

《フー・レイ、フー・ツォン親子の芸術と人生、読者の反応》

 

 傅雷(フー・レイ)先生の生誕100年を記念する国際学術研討会に参加することを大変光栄に思います。私は傅雷先生の翻訳作品の研究者ではありませんので、この会に参加する資格があるかどうかわからないのですが、昨年偉大なピアニスト傅聡(フー・ツォン)先生についての本を日本で上梓し、その中で傅雷先生の芸術観や息子への教育、困難な状況の中で真摯に芸術を追求し続けた傅雷、傅聡親子の生き方を日本の読者に紹介しました。私はここで、この本を書くことになった経緯や読者の反応や感想についてお話したいと思います。

 私が傅聡先生の演奏に触れたのは、1999年11月、日本の大分県別府で開催されたアルゲリッチ(阿格里奇)音楽祭でのことでした。傅聡先生は、この20年近く日本での演奏会が途絶えていて、CDなどの録音も店頭で見かけなくなっているのですが、長年の友人の世界的なピアニスト、マルタ・アルゲリッチ(瑪爾塔・阿格里奇)が開催している音楽祭にはときどき招かれ、演奏会やマスタークラスをしています。

 音楽雑誌の記者としてその音楽祭を取材した際に、私は初めて傅聡先生のショパンの演奏を聴き大きな衝撃を受けました。傅聡先生の演奏は、ほかのどのピアニストとも違い、内に秘めた激しい情熱と繊細な情緒を感じさせるもので、こんなショパンを弾くピアニストがいたのかと驚きました。また、私がさらに驚いたのは公開マスタークラスでした。日本の若い学生たちに、熱く音楽を語り、予定の時間が過ぎるのも忘れて髪を振り乱しながらエネルギッシュに指導する姿に圧倒されたのです。楽譜に書かれた音符の大切さ、ピアニストは作曲家への敬意を忘れてはならないことを懸命に語る傅聡先生の一言一言に深い感銘を受けました。厳しい表情でレッスンをしながら、時折ユーモラスなたとえ話をするときの温かい笑顔にも強い魅力を感じました。

 その後、このピアニストのことをもっと知りたい、またあの演奏やマスタークラスを聴きたいと思い続けましたが、傅聡先生の来日の機会はなく、私の願いはなかなか実現しませんでした。

 それから数年経った2003年の夏、私は上海を訪れ、偶然書店で三聯書店から出版されている傅雷先生の『与傅聡談音楽』を見つけ、その中に収められた傅雷先生が1956年に書いた『傅聡の成長』という文章を読んで、傅聡先生がどのような教育を受けてピアニストになったのかを知り、この親子への強い興味が湧きました。その後さらに『傅雷家書』を入手し、異郷の地で暮らす息子に宛てた手紙に綴られた音楽や芸術に対する深い考察、政治的に困難な状況の中で苦悩しながら高い理想を持ち続けた崇高な精神に感動しました。傅雷先生、傅聡先生のことを日本に紹介したいと思ったのはこのときです。

 私は、1974年から1976年という文化大革命の末期に北京に留学した経験があります。その後中国は大きく変わり、私も文化大革命中に北京で学んだことを忘れかけていましたが、文化大革命が中国の知識人や音楽家にどれほど大きな影響を与え、深い傷跡を残したかをもう一度考えてみたいと思いました。

 私のそのような気持ちを別府アルゲリッチ音楽祭の事務局に伝えたところ、傅聡先生のロンドンのご自宅の住所を教えてくださったので、早速手紙を書きました。数日後、思いがけず傅聡先生の奥様の卓一龍女史からE-mailでお返事が届き、傅聡先生は上海音楽学院でマスタークラスを開講しているのでそちらに連絡するようにと電話番号を知らせてくれました。恐る恐る電話をしてみたところ、「Thank you for your beautiful letter!」という傅聡先生の優しい言葉が返ってきました。そして、上海のマスタークラスを聴きにくるようにと言ってくださったのです。

 飛び立つような思いで上海に赴いた私は、2003年11月から12月にかけて上海音楽学院で一カ月余り、傅聡先生のマスタークラスを聴講しました。傅聡先生は、「私が若い学生を指導するのは、作曲家が残した楽譜から作曲家が意図した世界を一緒に考えたいからです」と、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンなどの作曲家の音楽を熱く語り、学生たちを啓発し、先輩の音楽家として彼らを励ましていました。それは、名誉も利益もコンクールも何も関係ない音楽、音楽、音楽ただそれだけの世界。その世界を私も享受できたことは、この上もない幸せでした。

傅聡先生は、「昔から弾いている曲でも楽譜と向き合うたびにまた新しい発見があります。真に偉大な作品は、どのように偉大な演奏家よりも偉大です。演奏家は、常に作曲家への尊敬と楽譜の大切さを忘れてはなりません」と学生たちにいつも語っています。そうした真摯な姿勢は、傅雷先生の翻訳にも一貫して貫かれているものだと思います。

 傅雷先生は『傅聡の成長』の中で傅聡先生のショパンコンクールのマズルカ賞受賞について、「自己の民族の優秀な伝統精神を理解し、自己の民族の魂を持ってこそ、異なる民族の優秀な伝統を徹底的に理解し、その精神に深く入ることができるのです」と語っています。また、『家書』の中で、東洋の人間がヨーロッパの音楽、芸術を極めることの意味を繰り返し傅聡先生に問いかけています。それは、傅雷先生自身がヨーロッパで学び、文学者、翻訳家として生きる中で、分野は違っても常に意識し、取り組んできた課題だったからでしょう。そして、中国人であるからこそ可能な表現、到達できる世界について独自の見解を展開しています。これは、今日クラシック音楽の世界でアジア人が活躍していることを考えるとき、きわめて大切な問題を提起しています。

 中国文明の究極の境地は古代ギリシア文化に通じていると論じ、東西の文明はその最も高いところで相通じる普遍性を持っているという傅雷先生の考え方は、単なる西洋崇拝でもなく、また狭隘な民族主義や中華思想でもなく、深い哲学的な思索に裏付けられています。

 傅雷先生が傅聡先生に贈った言葉「最初に人であれ」、そして「東西の文化は、その最も高いところで相通じているものです」という考え方は、日本で音楽や芸術を志す若者たちに是非知ってほしいと思い、私は本を書きました。

 私が衝撃を受けた傅聡先生の演奏の魅力は、一音一音に刻む強固な意志、情熱あふれる抒情、楽曲への深い理解の上に立った知的な解釈、西洋人とは違った感性の新鮮さにあると思います。それは、傅雷先生から受けた教育で培われた中国の伝統文化や思想が、傅聡先生の中で息づいているからなのでしょう。

 傅聡先生は、傅雷先生から受けた教育によって得た最も大きなものは「自分の頭で考えること(独立思考)」だと語っています。そして、中国の古典を学んだことが彼に自信を与えたと言います。そして、学生たちに自分の頭で考えること、楽譜に真摯に向き合うことを教えています。個性がなければ芸術にはならないが、楽譜から作曲家が意図した音楽を真に理解してこそはじめて創造性や個性が生まれるのだと語り、それは一朝一夕にできることではなく、一生をかけて追求し続ける学問なのだと。それは、まさに傅雷先生の翻訳をするときの一貫した姿勢であり、だからこそ傅雷先生の翻訳作品を単なる外国の名著の翻訳ではなく、芸術作品の域に到達させたのだと思います。

 

 同じ東洋人として、傅雷先生、傅聡先生の芸術に対する姿勢、考え方を日本人に紹介したいと考えて書いた私の本に、さまざまな感想が寄せられました。

 息子への愛情と芸術への希求が書き綴られた「家書」の内容に感動した、中国の文化大革命中に知識人や音楽家がこれほど困難な状況にあったとは知らなかった、親子の愛情や教育の意味について考えさせられた、などの感想のほかに、ピアニストの方たちからは、東西の文化の狭間で悩みながら勉強してきたが、自国の文化に誇りを持って常に自己を磨きながら真の芸術家を目指す傅雷、傅聡親子の生き方に励まされ、勇気を与えられたという感想もいただきました。

 私のささやかな本が、傅雷先生の翻訳作品に貫かれた芸術の精神をピアニスト傅聡先生の半生を通して日本の方たちに紹介できたことを大変嬉しく思っています。今後も機会があれば、傅雷先生の残した音楽関係の著述を日本で音楽を志す人たちに紹介していきたいと思います。

 

《关于傅雷先生与傅聪先生父子的艺术人生及读者的反应》

 

 

    这次我能前来南京大学参加傅雷诞辰百年纪念暨“傅雷与翻译”国际学术研讨会,我感到非常荣幸。我并不是从事傅雷先生翻译作品的研究者,因此我不知道是否有资格前来参加今天的研讨会。去年关于伟大的钢琴演奏家傅聪先生的生平我在日本出版了一本书,在这本书里我向日本的读者介绍了傅雷先生对于艺术的独到观点和对自己儿子的教育过程,并且在非常艰难的环境下如何持续不断地追求艺术的真理,保持人生的价值。今天我在此向各位贵宾将编写这本书时的来龙去脉和日本读者的反应及感想做一些报告。

    我第一次接触到傅聪先生的演奏是在1999年11月于日本大分县别府市举办的一个叫阿格里奇(Argerich)音乐节的活动上。傅聪先生有将近20年的时间没有在日本开过音乐会,他的CD或者录音也很难在日本买到。就在此时傅聪先生长久以来的好友,世界知名的钢琴家玛尔塔·阿格里奇(Marth Argerich)在日本召开音乐节时,邀请傅聪先生前来参加音乐会以及开办大师班(也就是音乐指导班)。

   我作为一个音乐杂志的记者采访这个音乐节的时候,第一次听到傅聪先生所演奏的萧邦乐曲而受到了很大的冲激。傅聪先生的演奏和其它的演奏家不同,在他的演奏里面隐藏着激烈的热情和细腻的情感。他的演奏让我既吃惊又钦佩;我没有想到有人能够像他这样优雅自然地弹奏萧邦的乐曲。另外更让我感到吃惊的是第二天的大师班。他对日本的年轻学生们热情洋溢地谈论音乐的真髓,虽已超过了下课的时间,也仍然若无其事地充满活力地给学生们上课。这样的指导情景让我感到非常佩服。上课的时候,他常常提到在乐谱上所写的每一个音符的重要性;他还常常强调作为一个钢琴演奏家不能忘记尊敬作曲家的基本态度。对于傅聪先生的每一句话、我都受到了深深的感动。在他严肃的表情当中有时也露出了幽默温馨的笑容,让我再次感受到他所拥有的强烈的魅力。

    1999年11月的音乐节结束以后,我想更详细地了解这一位钢琴演奏家,很想再一次侧耳聆听他的演奏和大师班的授课。但是此后傅聪先生几乎没有前来日本的机会,我的愿望也最终难以实现。

    几年过去了,在2003年的夏天我前往上海,在一次偶然的机会中,我在书店里看到了一本由三联书店出版的《与傅聪谈音乐》。在这本书里有傅雷先生在1956年所写的《傅聪的成长》,读了这篇文章我了解到傅聪先生是怎样接受家庭教育当了钢琴家的。我想更进一步地了解傅雷、傅聪父子。之后我又买到了《傅雷家书》,这是一本写给在异国他乡生活的儿子傅聪的家书,里面探讨了有关于音乐和艺术的深远哲理。在当时那种非常困难的政治环境下,他还能保持着高度的理想和崇高的精神,这使我非常感动。从这个时候开始,我萌生了撰写一本介绍给日本读者朋友的书:傅雷、傅聪父子是怎么追求艺术的。

    我从1974年到1976年在文化大革命末期曾经到北京留过学,有一年半的留学经验。文革以后中国产生了巨大的变化,我几乎就要忘记文革时在北京所学的一些经验的时候,正好有这样的机会让我再次重新地认识文革对知识分子和音乐家所带来的影响和伤害。利用这个机会,我想再一次探讨文革时期的知识分子和音乐家的一些问题。

    我把我的想法和心情告诉了日本别府市的阿格里奇音乐节的办公室后,他们给了我傅聪先生在伦敦的地址。我很快地就给傅聪先生写了一封信。几天以后让我感到惊喜的是傅聪先生的夫人卓一龙女士给我发了一封电子邮件。她说傅聪先生正在上海音乐学院的大师班授课,让我跟傅聪先生直接联系,她给了我傅聪先生的电话号码。我抱着非常惶恐的心情给傅聪先生打了电话,在电话的那头他以非常亲切的口吻对我说“Thank you for your beautiful letter”,而且他允许我到上海音乐学院去听他的大师班。

    我抱着兴奋的心情前往上海,从2003年11月到12月,一共用了一个多月的时间旁听了傅聪先生的大师班。傅聪先生说:“我给这些年轻的学生们上课,并不是我要教他们什么,而是我只想跟他们一起研究伟大的作曲家们所留给我们的乐谱,追求作曲家所描绘的音乐世界”。上课的时候,他非常热情地讲述莫扎特,贝多芬,萧邦等作曲家的音乐,启发年轻的学生们;作为一个音乐家的前辈,他对这些后进的学生给予了勉励也给予了厚望。那是一个和名誉、利益或音乐比赛完全没有关系的世界,音乐,音乐,音乐,只有音乐的世界而已。我能跟他们一起享受到这样的世界,真可说是无比的幸福。

    傅聪先生还说:“我长期以来弹奏的曲子再重新弹奏时或再重看乐谱时仍然会有新的发现。真正伟大的作品比任何伟大的演奏家来得更加伟大。作为一个演奏家一定要抱着一股对作曲家尊敬的心情以及爱惜乐谱的精神”。傅聪先生这样真挚诚恳的姿态也一贯地表现在他父亲傅雷先生的翻译作品当中。

    傅雷先生在《傅聪的成长》一书里写了“只有真正了解自己民族的优秀传统精神,具备自己的民族灵魂,才能彻底了解别的民族的优秀传统,渗透他们的灵魂”。这一语道破了傅聪先生在萧邦比赛中获得‘吗祖卡’奖的奥秘。傅雷先生还在《家书》里对傅聪先生不断地提问,作为一个东方人彻底理解欧洲音乐和艺术的真髓具有什么样的意义。这个提问也就是傅雷先生本身曾经到欧洲去学习,作为一个文学家,翻译家,对自己提问过好几次,这也是他一直在寻找答案的课题。他还展开了关于只有中国人才能表现出的音乐境界的自己独特的见解。看来今天这么多亚洲人钻研欧洲古典音乐并得到了很大的成就,傅雷先生所提出的观点和他所思考的问题有很大的关键性。

    在傅雷先生的思惟里,中华文明的最高境界和古代希腊文明是相通的,东西文明最高境界具有共同的普遍性。他的想法并不是单纯的西洋文明的崇拜,也不是狭隘的民族主义或中华思想,而是它有很深奥的哲学理论作为依据。

    傅雷先生送给傅聪先生的一句话:“第一是做人”,再则“东西方文化的最高境界是相通的”。我希望把这些观点介绍给在日本学习音乐和艺术的年轻朋友们。所以我写了这本书。

    让我深受感动的傅聪先生的演奏魅力是在他每一个键盘上的声音里所表现出的坚强意志,充满着热情及抒情的曲调以及对于乐曲的深入了解和有内涵的解释;并且拥有着和西方人截然不同的新鲜的感受性。这是因为他从小接受他父亲傅雷先生的中国传统文化和思想的教育。这些教育一直都深深地活在傅聪先生的身上。

    傅聪先生说从傅雷先生的教育里所得到的最宝贵的东西是“独立思考”。他从小跟父亲学学习中国古典文学,这些也给了他很大的自信心。所以他常常对学生说:“你们要用自己的头脑来思考,用真挚诚恳的心情去面对乐谱”。他还说:“如果没有个性,就没有艺术。但是不能自己随便创造,必须要了解作曲家原来描绘的音乐世界,应认真地研究乐谱。有了真正的了解,才能够创造出自己的个性。这不是一朝一夕所能够达成的,而是要用一生的时间来追求的学问”。这好像是和他父亲傅雷先生在翻译工作上,那种贯彻到底的态度不谋而合。因此我们可以说傅雷先生所翻译的文学作品并不只是单纯翻译外国的名著而已,他的翻译作品已经达到了艺术的领域。

    我同样作为一个东方人,想要把傅雷先生和傅聪先生父子对艺术的这种姿态以及思惟方式介绍给日本的朋友,因此写了一本书在日本出版。有很多读者给我提了一些宝贵的意见和想法。

    有的读者说“《家书》里所描写的父子之爱和对艺术的追求使我很感动”。还有的读者说:“我不知道中国的文革时期,知识分子以及音乐家渡过了这么艰难的情况”、“这本书让我重新地思考父子之爱和家庭教育的意义”等等。还有一些钢琴家说:“我们一直站在东西文化的缝隙之间,抱着烦恼一边学习音乐。傅雷、傅聪父子抱着对本国文化的骄傲并不断地钻研磨练自己,以成为真正的艺术家为自己的目标认真追求艺术,他们对艺术的态度给了我们很大的勇气及鼓励”。

    以上是有些读者的感想。我出版的这本微不足道的书能够把傅聪先生的半生和傅雷先生从事翻译工作的高贵艺术精神介绍给日本的朋友们,使我感到非常高兴。以后有机会,我希望还能把傅雷先生留下的一些音乐方面的著作介绍给在日本学习音乐的有关人士。