■このブログは次の「週報 夢二と台湾2023」(2021.8~2023.8)の後継版です。

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★MENU★

1 ご挨拶  2 夢二と美麗島  3 夢二の素顔  4 夢二のカワイイ 5 夢二に逢える場所(夢二展一覧) 

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【ご挨拶】

 1月9日(火)に横浜に行きました。仕事始めの日とあって賑わいはいまいちでしたが、この日は休翌日とあって博物館はお休み。横浜税関と氷川丸の博物館ももちろんお休み。

 ところで、このふたつの博物館、夢二の米欧外遊や訪台を考える上でよい資料でもあるんです。

 まず横浜税関ですが、夢二が訪台したのが1933年(昭和8)ですが、ここは1923(大正12)の関東大震災で既存庁舎が倒壊焼失したため、1934年、つまり、夢二の訪台の翌年に復興事業の一環として再建されました。結核の症状がひどくなって1933年11月18日に神戸に帰港し、翌年9月に天国へ旅立った夢二はさすがにこれを見てはいないでしょうが、この建物は当時横浜で最も高く、イスラム風の塔や連続アーチなどの優雅なたたずまいから「クイーンの塔」の愛称で親しまれていたようです。その後、建物・設備の老朽化や執務スペースの不足の解消のため、2003年に改修・増築を行いましたが、改修にあたっては、都市景観への配慮から街路に面する建物の3方はそのまま保存・活用し、外観の改変を最小限にとどめているとのことでした。

実は、基隆港で大切に修復・保存されている海港大楼 (基隆港務局/基隆税関合同庁舎)も、実は1934年、つまり、横浜税関と同じ年に「基隆港合同庁舎」として竣工しているんですね。同い年の税関の建物、両方とも大事にされて90年前の様子を伝えています。基隆では、竣工近いこの建物を夢二は必ず目にしたはずです。昨年基隆を訪ねた際もしみじみと見てきました。

▼横浜税関

▼海港大楼 (基隆港務局/基隆税関合同庁舎)

    

 一方氷川丸は、1933年(昭和8年)9月18日に夢二が米欧の旅から帰国した時にナポリから神戸まで乗船した靖国丸と同じ1930年(昭和5年)に建造された貨客船です。しかも、総トン数が11000トン台とこれも同じ。姉妹船ではありませんが、産み出したのが同じ三菱造船ということでどこか雰囲気は似ているのでしょうか。

以前、夢二の帰国時の気持を少しでも体感できないかと氷川丸を長時間見学したことがありますが、これもなかなか興味深いものでした。私は1980年に「青年の船」に参加したことがあり、「にっぽん丸」(旧型1万トン)に2か月乗船して、数か国に寄港しながらクゥエイトまで往復しましたが、その時の経験もあって疑似体験でが来たように思います。

▼氷川丸

▼靖国丸

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【夢二と美麗島】第17回「台湾の印象(2)」

 夢二の台湾訪問については、今のところ、昭和8年(1933)11月14日に「台湾日日新報」に掲載されたエッセイのみが彼自身の言葉として唯一きちんと残っているものだと思われます。その文面は前号でご紹介しましたが、これにより、夢二が台湾を去るにあたって何を考え、何を訴えようとしたのかを分析するのは非常に興味深いことです。

 台湾に至る前の夢二の半生をみると、1907年(明治40)に結婚し2年後に協議離婚した他万喜との離婚後続いたあいまいな関係を清算し、その後最愛の女性となった笠井彦乃に1920年(大正9)に先立たれ、その後同棲したお葉が1935年(大正14)に夢二の許を去るという一連の華やかな女性関係が収まった後、群馬との縁が出来ました。そして、1931年(昭和6年)に「榛名山美術研究所」の設立を宣言してアトリエを建設して新たな生き方を示す一方、同年から2年以上にわたり夢に見た米欧の旅に旅立ちます。しかし、夢二の海外旅行はお世辞にも順調なものとは言えず、困窮の旅となり、しかも最後の訪問地ドイツではヒトラーの台頭によって、1933年(昭和8)9月に帰国。その後1か月余りで今度は台湾に旅立ちます。

 台湾に滞在した21日間のうち展覧会等の行事はほんの数日でした。少なくとも10日以上は自由な時間があったはずですが、資料が展示品の売れ残りと共に所在不明となっていることから、行事等で期日がはっきりしている以外の日にどのような行動をしていたのがわかりません。しかし、誰も知人もいないような台湾に一人で時間を過ごしていたわけですから、特にヨーロッパで送った孤独な生活状況を参考にすると様々なことを想像することはできます。しかも、長期にわたる外遊の後ですから、それまで歩んできた48年間の人生について何も考えなかったとは到底思えませんし、榛名山に戻ってからのことなど将来についても考えたのではないかと思われます。

 というわけで、ここからは、このエッセイの文章をたどりながら、背景の説明や疑問点などを提示しながら、数少ない事実を頼りに想像の枠を広げていきたいと思います。

<記事1>(新聞掲載されたエッセイ「臺灣の印象ーグロな女学生服」)

「二十五年シボレイは呼吸をきらし切らし四十哩を出したが、基隆の裏山まできてへたばって終わった。四時八分前!わが乗るべき扶桑丸はもう八分を待たずして出帆するのである。吾々の自動車は「もうどうにも走れない」といふのである。丘の上までゆけば扶桑丸の煙が見えるであらうといふ。

私は、この小高き丘の上で、友人に挨拶する間もなく倉皇と立ってまた台北の方を望み、また遺憾なる煙を上げてゆく扶桑丸を眺めやる。しかし私は山の形や岬の方は見ない事にする。そこはやかましい要塞地帯で、私が絵かきだから、制服を着た人間に心配掛けないためである。

(編者注:倉皇と:あわてふためいて、制服を着た人間:警察官、軍人)

<解説1>

・状況:昭和8年(1933)11月11日、夢二は予定通りホテルを出て、1925年式のシボレーに乗って基隆港に向かい、途中の丘で自動車がエンコしてしまいます。夢二は出航する船が見えると言われ、丘の上まで登り、警備に気を使いながら、乗るはずだった扶桑丸が港を後にするのを見送ります。警備に気をつけていたのは、当時は丘の上に立つと、沿岸にも市内にもはっきりと大砲等の軍の施設が見えたはずで、夢二はスナップ写真を撮るように普段スケッチの早描きをしていたということですから、強い自意識が働いて山や岬の方をあえて見ないようにしていたと思われます。

<キーワード>

・二十五年シボレイ:1925年式のシボレー。1925年に登場した「シボレー・スペリア シリーズK」。シボレーはこの車により、エセックスに次いで箱型ボディーを大衆車に導入。シリーズKは大成功を収め、1927年には生産台数で「T型フォード」を抜いたことから、T型を下取りに出してK型シボレーに乗り換えるユーザーが急激に増えていきました。1927年、T型が生産中止となり、1932年のシボレーは同時代のキャデラックをスケールダウンしたようなスタイルに下窄まりのラジエターグリルとボンネットサイドの4本の縦スリットのものでした。1930年代初頭、アメリカでは既に一般家庭に自動車が普及し1家に2台の時代にも突入。日本では一般大衆が自動車を持つことなど夢のまた夢だった時代でs。そんな日米の国力の差も全く顧みずに大日本帝国海軍はこの広告から9年余り後の1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃を仕掛けたのでした。夢二の乗った25年式のシボレーは8年落ちですが、この頃の8年落ちの車は最新型とは相当能力に差が出ていたと思われます。

哩:1マイル=約1.6km。40マイルは時速64キロになります。当時64キロで飛ばせる車は優秀だったのでしょうが、年式の古さは技術向上のスピードを超えられなかったようです。哩(マイ)の由来はラテン語の「mille」(千)。古代ローマ時代の人間の歩幅の2歩分「パッスス」”passus”という 単位のマイル(千倍)がマイルと定義されていました。ローマ人がヨーロッパ中に新設したすべての道路には、ローマを起点として、1マイルごとに標を設置され、これをマイルストーンと呼んだようです。

▼25年式シボレー

・基隆港:ここは、17世紀に既に外国人の足跡がありました。スペイン人が台湾の一部を占領していた頃、基隆港の調査が進められ、部分的に建設も行われました。清朝統治時代後期になると、西洋列強の東方進出に伴って基隆港も次第に発展を遂げ、1886年、基隆港は正式に貿易港として開放されました。当時の台湾巡撫(1885年の清朝の台湾省設置後の最高地方統治官)である劉銘伝は基隆港の建港計画を進めていましたが、その後劉銘伝が職を離れてしまい実行されませんでした。日本統治時代になると、基隆港の大規模な建設が開始され、1899年から1935年まで4期の築港工事(当初は5期計画であったが、太平洋戦争のために中止)が行われました。この工事によって、港湾区域内部にあった暗礁が取り除かれ、大型造船所と軍港区域、漁港区域が建設され、埠頭倉庫から港湾区域までの線路が整備された。この4期にわたる築港工事の結果として、その後の基隆港発展の基礎が固められたばかりではなく、1970年代に基隆港を台湾トップの港湾にすることにつながったのです。1933年、夢二が訪台した時はちょうど第四期に当たっていたようで、接岸したふ頭は現在よりも湾口に近い所だったようです。(映画「KANO」での船舶の接岸シーンは1931年の設定なので、このふ頭を復元したものと思われます。)

砲台:砲台は古くから数多く建造されており、現在は大砲はなく砲座の跡や建物が残っており、「基隆五大砲台」(二沙湾砲台、大武崙砲台、槓仔寮砲台、獅球嶺砲台、白米甕砲台)が観光地として公開されています。

・基隆市:夢二は滞在していないと思われますが、基隆市の最初の都市計画は1900年に立てられています。基隆は日本の統治下に入った頃には、すでに北部でも指折りの賑わいを誇っていたようですが、総督府は行政主導の都市整備を計画して町作りを始めました。この時、道路は港湾に並行するか、もしくは垂直に交わるように整備されました。港湾を中心として碁盤の目状の町並みが形成され、その美しさは台湾随一とも言われたようです。

さらに都市計画が進められ、港湾とともに大いに発展し、1924年には高雄とともに市制が施行されています。(つづく)

▼日本統治時代の基隆港と現在の基隆港

▼丘の上から見た現在の基隆港(2019年撮影)

▼基隆港側から見た丘にあるトンネル(2018年撮影)

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【素顔の素顔】夢二の素顔を関係者や研究者の文章から読み解いていきます。

■「晩年の夢二と語る」(鎌原正巳著、『白鳥』第1巻第5号(1947.8)より)

 東京の郊外、世田谷区松原に竹久夢二を訪ねたのは、一九三三年の晩秋のある晴れた日の午後であった。

郊外電車の駅に下車して五分ほど歩くと低い丘が続き、その一画がクヌギとアカシアの倭林にかこまれている。その林のなかの小径は、黄色や褐色の落ち葉におおわれ、歩くとバサ、バサと乾いた音がする。秋の足音である。

 丘の下からは見えなかった赤レンガ建の家が、林の間から見えてくる。オニツタのからんだ家、相当古びたその家は、ポーの『アッシャー家の没落』を思わせる。

 玄関わきの呼び鈴をツタの葉の間に探し、ボタンを押す。室内のどこかでベルの音が響き、やがて老婆が顔を出す。家政婦らしい。

 玄関にはいる。うすぐらい光の中に、土間の片すみに据えられた橋の欄干様の装飾が目にとまる。近づいてよく見ると、擬宝珠のついている本物の欄干で、「天文四年、大坂農人橋」という文字が刻まれている。

 やがて通された応接間で、わたしはしばらくの間主人公の現れるのを待っていた。

 夢二といえば、いまの若い人たちには余り親しみのない人間かも知れない。しかしその年譜を見ると、明治・大正時代の抒情画家としての足跡は大きい。生まれたのは明治十七年(一八八四)岡山県の片田舎においてである。明治三十四年上京、早稲田大学の商科に学んだが間もなく退学し、絵画に専心し、抒情画を試み、全国の青年子女を魅了した。明治四十年以降約十五年間にわたり、声明を得たのである。

 のち新聞、雑誌の挿画に筆を染め、また大正三年九月、東京日本橋に自作錦絵、婦人装身染織品などの店「港屋」を開いて装飾美術に対する才能を示し、さらに商業美術への進出を志し、同十二年にドンタク図案社を設立した。昭和五年から三ヵ年にわたり欧米を漫遊帰朝後、宿痾の肺患のため西洋の日々を送っていた。

 わたしの訪れたのは、そのような「旅路の果て」にある夢二のもとであった。(つづく)

※鎌原正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 1976年3月15日)は、日本の作家。長野県埴科郡松代町(現:長野市)に生まれ、松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。(wikipediaより)

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【夢二のカワイイ】「世界の“かわいい文化”は日本生れ!」

*『竹久夢二 かわいい手帖 大正ロマンの乙女ワールド』(石川桂子編、河出書房新社)より

<第1章>「かわいい×デザイン」

3 楽譜表紙イラストレーション 時代のメロディーと“かわいい”の関係

(2)  童謡楽譜

 大正中期には、真に芸術的な近代童謡を創造するために<童謡運動>が発生しました。国定音楽教科書に収録された文部省唱歌が、子どもの感情からかけ離れた形式的な歌であることへの批判が背景となり、詩人の北原白秋・西條八十・野口雨情、作曲家の中山晋平・弘田龍太郎・成田為三・本居長世を中心に、<童謡運動>は大規模に展開され、関連の雑誌や楽譜が多数出版されるようになりました。

 夢二は大正後期から昭和初期にかけて、同様の楽譜装幀にも力を注ぎます。表紙のほか、扉やカットまで細やかに心を配り、子どもの目線で楽譜デザインを手がけました。

▼「竹久夢二 かわいい手帖」(石川桂子著)より

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【夢二に逢える場所(夢二展一覧)】

■竹久夢二美術館(東京都文京区)

 「夢二の旅路 画家の夢・旅人のまなざし」(2024年1月5日(金)~3月14日(日)) 

 https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/outline.html

■弥生美術館(東京都文京区)

「デビュー50周年記念 槇村さとる展 ー「愛のアランフェス」から「おいしい関係」「モーメント」までー」(2024年1月5日(金)~3月14日(日)) 

 https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yumeji/outline.html

■金沢湯涌夢二館(石川県金沢市)

 展示替えおよび館内工事のため休館(2023年12月25日(月)~2024年1月19日(金) )

<予告>「夢二の新聞小説『秘薬紫雪』」(2024年1月20日(土)~4月21日(日)

 https://kanazawa-museum.jp

■竹久夢二伊香保記念館(群馬県渋川市)

 企画展はHP参照

 https://yumeji.or.jp

■夢二郷土美術館(岡山県岡山市)

・本館

 『松田基コレクションⅩⅢ:夢二名品展/特別公開 美しき女性たち』(2023年12月5日~2024年3月10日)

・夢二生家記念館・少年山荘

 2023年冬の企画展「夢二生家 ふるさとの冬」(2023年12月12日(火)~2024年2月25日)

 https://yumeji-art-museum.com/

■高崎市美術館「生誕140年 竹久夢二展のすべて」(2023年11月11日~2024年1月14日)

 https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2014011000353/

■佐野美術館「ときめき 美人―培広庵コレクション名品展」(2024年1月7日~2月18日)

 https://artexhibition.jp/exhibitions/20231209-AEJ1741387/

【展覧会以外】

●竹久夢二(1884~1934年)と千葉の関わりを紹介した冊子「竹久夢二と房総」を、八街市の日本文学風土学会員・市原善衛さん(73)が自費出版。(東京新聞より)

 https://www.tokyo-np.co.jp/article/288094

●「岐路に立つ「金沢の奥座敷」 伝統の湯守りつつ新たな取り組みも(湯涌温泉)」(朝日新聞デジタル)

 https://www.asahi.com/articles/ASRBX6SG4RBRPISC01B.html

●『女の世界』大正という時代(尾形明子著、藤原書店)が発売中!

 百年前、こんな面白い雑誌があった!

 https://www.fujiwara-shoten-store.jp/SHOP/9784865783926.html

●『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』(越懸澤麻衣著、小鳥遊出版社)が発売中!

 https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

●最新の夢二書『異国の夢二』(ひろたまさき著、講談社選書メチエ)が発売中!

 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784065323465

●越懸澤麻衣著『大正時代の音楽文化とセノオ楽譜』が発売中!

 https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784867800096

●夢二の雰囲気に包まれてオリジナル懐石を楽しめる!――神楽坂「夢二」

 https://www.kagurazaka-yumeji.com/