ある時、責めるということの非生産性にスコーンと気がついた時がある。
本当に腹に落ちるという感覚で理解した瞬間だった。

不思議なことに、何か責めるということについて考える機会があった訳ではなく、ある朝、朝食の後の皿洗いをしていたら、ふと考えが降ってきたのだ。

「人を責めてもなんの利もない」



他人を責める
自分を責める

どちらも非生産的であることはみんな頭では理解出来ていることなのだと思う。
だって、責めたって、覆水盆に返らずなんだもの。
起こってしまったことが元に戻る訳では無い。
「同じ失敗を繰り返さないように言うのよ」っていうのは、建前だと思う。


じゃあなんで責めるかっていうと、

本当のところは、人を責めることで、「あなたはこんな酷いことをしたのよ」「あなたのお陰で私はこんなに傷ついている」ということを訴えたいからだと思う。

自分を責めるのは、「ほら、やっぱり私はダメなんだ」と自分に思わせるため。


そして、どちらの場合にも必要なのは「許し」。


だって、そこから前に進んでいくには、いずれは許すしかないんだったら、相手や自分が自分責めして猛省するのを待つよりも、さっさと許したほうが早くない?って事なのだ。

怒ってもいいし、悲しんでもいい。
それを相手に伝えて、自分でもしっかり感じるのも大事。
でも責めるのは、スキップしてもいいんじゃないかなと思ったのだ。

だって、どんなに気をつけていたって、やっぱり人生には不慮の事故や考え不足のことってある。
そして、学びの機会はそれぞれで、責められたからって、学ぶとは限らない。

そして、日本語には美しい表現がある。

「仕方ない」




ほんとうに、なんでこんな考えに至ったのか、さっぱり分からない。

でも、ある朝、まるで天使が突然やってきて、洗い終わったばかりの木のスプーンでスコーンと私の頭を打ったように、責めるという考えが、私から抜け落ちたのだ。