小学生の時に、1匹の野良犬と過ごした思い出がある。
捨てられたのか、迷い犬なのかは分からない。
その犬が道を足早に歩いているところへ、私が「どうしたん?」と声を掛けたのが切っ掛けだった。
振り向いた犬は笑ったような顔になり、私の方へ駆け寄って来た。
一緒にいた幼なじみのアッちゃんは怖がったけれど、私が頭や首をワシャワシャしてやると犬は尾を振ってくれた。
それがロボとの
出会いだった。
『シートン動物記』が好きで、全ての作品を読んでいた私は、その犬が『狼王ロボ』の挿し絵にそっくりだと思い名付けたのだ。
ワンともクンクンとも、全く声を出さないロボは、その風貌も狼王のような貫禄があった。
怖がっていたアッちゃんも、私がロボと仲良く遊ぶのを見て、安心したのか撫でるようになった。
私達は、アッちゃんのアパートの駐車場で、ロボを寝泊まりさせて餌を与えた。
楽しい毎日だった。
犬が飼える住宅に住んでいなかったので、ロボと過ごす日々は私にとって宝物だったのである。
アッちゃんの家は少し遠くて学区も違うし、私とは2つ歳が離れていたので、お互いの学校生活のことは何も知らない。
ロボがアッちゃんの学校へついて行き、アッちゃんを送り届けた後、また下校時間に迎えに来て一緒に帰っていると聞いた時は嫉妬したものだ。
私の方が犬を好きなのに·····
アッちゃんは虚言癖があったので、ロボの送り迎えも真実かは分からない。
普段から私に羨ましがらせようと、アッちゃんに色々と嘘を言われても反応しなかったが、ロボのこととなると話は別だった。
初めてアッちゃんに嫉妬するほど、私はロボを愛していたのだ。
そんなある日、事件が起こった。
いつものように、ロボを連れてアッちゃんと公園で遊んでいた時のこと。
2歳くらいの男の子が、「わんわ、わんわ」と言いながらロボに近寄って来たのだ。
ロボは喜んで、尻尾を振りながら男の子と遊ぼうとした。
噛み付こうとしたり、押し倒したりした訳ではない。
ロボがはしゃいで後ろ足で立った瞬間に、仰け反った男の子がバランスを崩して尻もちをついたのだ。
そして男の子は大泣きした。
私とアッちゃんは一部始終を見ていた。
男の子の泣き声に気付いた母親が、我が子の目の前に大きな犬がいるのを見て絶叫した。
「ぎゃー!やめてー!」
そう叫びながら、その辺の石を手に取りロボに投げ付ける。
幾つかの石がロボに当たったが、ロボは逃げようとしない。
私は「ロボは何もしてない!その子が自分で転けただけや!」
そう訴えたが、半狂乱になっている母親は聞く耳を持たない。
その内に、公園にいつもいる知的障害者のフグも便乗して一緒に石を投げて来た。
フグは体が大きいので力も強い。
思い切り石を投げて来るので危険だった。
私とアッちゃんは、急いでロボを連れてアパートの駐車場まで逃げて隠れた。
ガレージのシャッターから覗いていたが、フグと男の子の母親は暫くロボを探していた。
保健所に連絡すると言っているのも聞こえた。
もうロボと公園で遊ぶことが出来ない·····
このままロボを駐車場に閉じ込めておく訳にも行かないだろう。
そんな最中に、アッちゃんのお母さんからお叱りを受けた。
私達が駐車場で犬を飼っていることが、住人から家主に、そしてアッちゃんのお母さんへと苦情が来たらしい。
「今すぐ捨てて来なさい!」
ついにそう言われてしまう。
そして私とアッちゃんは、自転車で大阪城まで行った。
最後にロボと思い切り走り回りたかったから。
落ちていた枝を拾って、それを投げてロボと遊んだ。
何も教えてないのに、ロボは枝をくわえて持って来る。
何度か繰り返した後、私は思い切り遠くへ枝を放り投げた。
勢いよくロボが走って行く。
それと同時に私とアッちゃんも走り出した。
ロボとは反対方向に·····
少し走って生垣に隠れた。
するとロボは異変に気付き、枝を拾わずに引き返して来た。
ワンッ!
初めて聞いたロボの鳴き声だった。
私達が隠れている生垣の前まで来て、ロボは辺りをキョロキョロと見回していた。
私は声を殺して泣いた。
別の場所へ探しに行ったところで、私達はその場を後にした。
私は泣きながら帰った。
アッちゃんは面倒くさいと言って先に帰ったが、私はロボに帰って来てほしくて、自分の匂いを残そうと徒歩で大阪城から戻ったのだ。
帰宅した時には夜になっていた。
その日、私は悲しくて眠れなかった。
翌日、学校から帰るとアッちゃんから電話が掛かって来た。
ロボが帰って来たと言うのだ!
私は急いでアッちゃんのアパートへ行った。
ロボは激しく尻尾を振りながら、私に飛び付き顔を舐めて来た。
ロボと一緒にいたい!
ロボと離れたくない!
私がロボを飼いたい!
この時ほど、早く大人になりたいと思ったことはないだろう。
大人になれば、不幸な動物達を引き取ることが出来るから。
ロボと暮らすことが出来るから·····
ロボが遠くから帰って来たことを知ると、アッちゃんのお母さんは、飼い主が見付かるまでという条件付きでロボの世話をしていいと言ってくれた。
アパートの管理人さんにも承諾を得てくれたのだ。
色々とあったけれど、これでまた暫くはロボと過ごせると思い嬉しかった。
私が独り立ちするまで、飼い主が見付からなければいいのになと、子ども独特の夢を描いていた。
あちこち届け出はしていたが、それでもロボの飼い主は見付からなかった。
やはり捨てられた犬だったのだろうか。
そうすると、今度は里親を探さなければならない。
小学生の私がロボに、どこまでしてあげられるんだろう。
ロボを愛するが故に、別れることを前提とした里親探しは、私にとって辛いものになるに違いない。
私の愛犬ではないけれど·····
それでもロボを連れて散歩している時は幸せだった。
ある日、ロボに会いたいと言う2人のクラスメイトを連れて、私はロボを散歩に連れ出した。
友達とお喋りしながら歩く私の隣に、ロボはピッタリついて来る。
しかしある通りに来た時、ロボは足を止めてそちらに顔を向けた。
そして私から離れて、その通りに向かって歩き出したのだ。
友達が「何処に行くん?」と言ったが、私は「大丈夫。いつものことやから。ちゃんと後で帰って来るねん」と応えた。
トコトコと歩いて行くロボ。
その後ろ姿を横目で見ながら私は帰って行った。
それが最後に見るロボの姿になるとは、その時の私には知る由もなかった·····
ロボは、もう二度と
帰って来なかったのだ。
それから私は後悔する毎日だった。
あの時、引き止めていたら
あの時、一緒に行ってたら
後悔してもしても、し切れないほど悔しかった。
いつも真っ直ぐに愛を与えてくれたロボ。
私は半分も返せてなかったよね·····
狼王ロボ
利口で気高く、何事も恐れない。
険しいその目の中に、私は優しい光を感じていた。
私の姿を移す瞳を見つめるのが好きだった。
ロボは私だけを見てるんだと思って。
今、ロボはその目に誰を·····何を移しているの?
最後に別れたあの道は、何処へ続いていたんだろう。
ロボの元の飼い主に繋がる、ロボの記憶の中にある道だったのかな。
捕獲されてしまったり、事故に遭ったりしても、私たちに知らせが来ることはない。
無力だった子どもの私には、ロボが飼い主に再会して、その後は幸せに暮らしていてほしいと祈ることしか出来なかった。
今でも、思いに更ければ子どもに戻る。
今でも、目を閉じればロボの姿が浮かぶ。
今でも、耳を澄ませばロボの声が聴こえる。
私を呼んだ
最初で最後のあの声が
いつまでも脳内を
駆け巡っているのだ。