京都選考第一日目
こんにちは、田中 豪 です。
これから、京都選考が始まります。
今日の12時過ぎからです。
神馬くんの e-mobile を使って更新中です。
京都は雨が降っています・・・。
しかも、結構寒いです。
ということは、明日か明後日くらいに、
東京も雨が降るということでしょうか・・・?
と書いていたら、隣に来た松尾くんが
「東京は、今日晴れらしいよ!」
と呟いて去っていきました。
最近、更新が滞りがちですが、
実行委員一同、元気にしております(笑)
次回の更新に乞うご期待!
これから、京都選考が始まります。
今日の12時過ぎからです。
神馬くんの e-mobile を使って更新中です。
京都は雨が降っています・・・。
しかも、結構寒いです。
ということは、明日か明後日くらいに、
東京も雨が降るということでしょうか・・・?
と書いていたら、隣に来た松尾くんが
「東京は、今日晴れらしいよ!」
と呟いて去っていきました。
最近、更新が滞りがちですが、
実行委員一同、元気にしております(笑)
次回の更新に乞うご期待!
村上春樹のスピーチ原稿を読んで
こんにちは。田中 豪 です。
試験も終わり、やっと春休みーーー(^-^)
と思いきや・・・
毎年、春休みは僕にとって、苦しみでしかありません・・・。
なぜなら・・・花粉症・・・。
眼を取り出したいくらい、かゆいです(笑)
そんなこんなの毎日で、今日の夜のバスで京都に行き、
週末の京都選考の準備に励みます♪
最近、しばらく更新していなかったので、久しぶりの投稿を。
題材として、村上春樹のスピーチをとりあげようと思います。
日本語の翻訳版
英語版
エルサレム文学賞の受賞スピーチです。
この賞を受賞することは、パレスチナでのイスラエル軍の蛮行を擁護することにつながるのでは、という意見から、受賞辞退を促す人も多かったと彼は述べています。
では、彼は、なぜ行ったのか。そして、果たして行くべきだったのか。
答えから言えば、僕は、行って正解だったと思います。
それは、彼の行動を僕が評価するかどうか、という善悪の判断基準とは別に、彼のやりたいことは、彼が行くことによって、彼のスピーチによって、より高い次元で達成されたのではないかと客観的に思います。
そして、作家として、文学者として、
しっかりとしたメッセージを発している彼の姿は、
個人的にすごく立派だと思います。
(もちろん、彼の意見に全面的に賛成できるわけではないのですが。)
スピーチの中で、彼は人間の魂 soul と体制 System を比較し・・・
という、本文の説明は、リンク先の記事を読んでもらえればすむので、
ここでは、以下、僕が思ったことを書こうと思います。
彼は、卵と壁の例を持ち出し、壁の代表例としてSystemを挙げました。
実際、スピーチの中で以下のように述べています。
“壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。”
このシステムに書かれた部分を読んで、僕がまず思い出したのは、
花田達朗氏の文章でした。
花田達朗氏の言う、制度という言葉は、村上春樹氏の語るシステムと
置き換えて読むことができるような気がします。
(花田達朗『制度としてのメディア』より)
では、制度(institution)とは何だろうか。・・・・・・制度とは、人間社会がその集合的な必要性に応じて歴史的に作り上げられてきた人為的な仕組みであるとしておこう。・・・・・・
再び、制度とはそもそもどうして生まれたのだろうか。たとえば学校制度を考えてみよう。子供に読み書きそろばんを教えるのはもともと親の務めだった。しかし、親にもそれが得意な人と苦手な人がいる。得意な人が近所の子供たちを集めて教えたほうが効率的であり、高度なことを教えることができる。そこで寺子屋が生まれ、学校へと発展する。そのとき親たちは自分の子どもを自分で教えなくてもよいという条件を手に入れる。
つまり、親たちは教育するという負担を免除されたのである。制度とは、諸個人に対して負担免除の機能を持っているのであり、諸制度は社会が複雑性を増し、高度化していく中で、それゆえに作り出されてくるものなのである。そのようにして学校という制度は受け入れられ、社会に定着していく。しかし、それを国家が管理するようになると、親たちは学校制度によって一方では負担免除されていて楽であるけれども、他方ではわが子の教育の仕方について口が挟めなくなっている現実に気付かされる。親たちはわが子の教育に対する自由というものを喪失し、学校制度を運用する国家・政府・自治体の官僚的な政策に逆らうことができないという現実に直面するのである。そのとき学校制度は親にとっても子どもにとっても檻として立ち現れてくる。それは、いわば制度の疎外状況といえよう。
制度の機能として、諸個人に対する負担免除がここでは述べられています。
便利な機能を持つ制度が、いずれ檻となる・・・それはよく聞く話です。
そもそも、人間は有機体 organism であり、動的 dynamic な存在です。
それに対し、制度とは、静的 static な存在です。
つまり、人間が制度を自らの変化に合わせて変えていかないかぎり、
いつか乖離が生じます。
それが、(村上氏の言葉を借りれば)本来、私たちを守る存在であったシステムが、壁となる瞬間なのかもしれません。
もちろん、村上氏がここで語っているシステムが、負担免除の機能を持つ制度とは違う、という反論もあるかもしれません。しかし、いずれにせよ、彼のスピーチは、僕たちに議論を促してくれる素材となりそうです。
日米学生会議では、分科会のトピックだけでなく、こういう話題についても、
興味のある学生同士で話し合ったりします。
とくに結論のない投稿になってしまいましたが、
とりあえず、こんな感じで。
参考
2009年エルサレム文学賞受賞スピーチ
受賞者 村上春樹
毎日新聞ホームページ
『社会情報学ハンドブック』
編 吉見俊哉/花田達朗
出版 東京大学出版会
発行 2004年3月19日
より、「制度としてのメディア」(花田達朗)
試験も終わり、やっと春休みーーー(^-^)
と思いきや・・・
毎年、春休みは僕にとって、苦しみでしかありません・・・。
なぜなら・・・花粉症・・・。
眼を取り出したいくらい、かゆいです(笑)
そんなこんなの毎日で、今日の夜のバスで京都に行き、
週末の京都選考の準備に励みます♪
最近、しばらく更新していなかったので、久しぶりの投稿を。
題材として、村上春樹のスピーチをとりあげようと思います。
日本語の翻訳版
英語版
エルサレム文学賞の受賞スピーチです。
この賞を受賞することは、パレスチナでのイスラエル軍の蛮行を擁護することにつながるのでは、という意見から、受賞辞退を促す人も多かったと彼は述べています。
では、彼は、なぜ行ったのか。そして、果たして行くべきだったのか。
答えから言えば、僕は、行って正解だったと思います。
それは、彼の行動を僕が評価するかどうか、という善悪の判断基準とは別に、彼のやりたいことは、彼が行くことによって、彼のスピーチによって、より高い次元で達成されたのではないかと客観的に思います。
そして、作家として、文学者として、
しっかりとしたメッセージを発している彼の姿は、
個人的にすごく立派だと思います。
(もちろん、彼の意見に全面的に賛成できるわけではないのですが。)
スピーチの中で、彼は人間の魂 soul と体制 System を比較し・・・
という、本文の説明は、リンク先の記事を読んでもらえればすむので、
ここでは、以下、僕が思ったことを書こうと思います。
彼は、卵と壁の例を持ち出し、壁の代表例としてSystemを挙げました。
実際、スピーチの中で以下のように述べています。
“壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。”
このシステムに書かれた部分を読んで、僕がまず思い出したのは、
花田達朗氏の文章でした。
花田達朗氏の言う、制度という言葉は、村上春樹氏の語るシステムと
置き換えて読むことができるような気がします。
(花田達朗『制度としてのメディア』より)
では、制度(institution)とは何だろうか。・・・・・・制度とは、人間社会がその集合的な必要性に応じて歴史的に作り上げられてきた人為的な仕組みであるとしておこう。・・・・・・
再び、制度とはそもそもどうして生まれたのだろうか。たとえば学校制度を考えてみよう。子供に読み書きそろばんを教えるのはもともと親の務めだった。しかし、親にもそれが得意な人と苦手な人がいる。得意な人が近所の子供たちを集めて教えたほうが効率的であり、高度なことを教えることができる。そこで寺子屋が生まれ、学校へと発展する。そのとき親たちは自分の子どもを自分で教えなくてもよいという条件を手に入れる。
つまり、親たちは教育するという負担を免除されたのである。制度とは、諸個人に対して負担免除の機能を持っているのであり、諸制度は社会が複雑性を増し、高度化していく中で、それゆえに作り出されてくるものなのである。そのようにして学校という制度は受け入れられ、社会に定着していく。しかし、それを国家が管理するようになると、親たちは学校制度によって一方では負担免除されていて楽であるけれども、他方ではわが子の教育の仕方について口が挟めなくなっている現実に気付かされる。親たちはわが子の教育に対する自由というものを喪失し、学校制度を運用する国家・政府・自治体の官僚的な政策に逆らうことができないという現実に直面するのである。そのとき学校制度は親にとっても子どもにとっても檻として立ち現れてくる。それは、いわば制度の疎外状況といえよう。
制度の機能として、諸個人に対する負担免除がここでは述べられています。
便利な機能を持つ制度が、いずれ檻となる・・・それはよく聞く話です。
そもそも、人間は有機体 organism であり、動的 dynamic な存在です。
それに対し、制度とは、静的 static な存在です。
つまり、人間が制度を自らの変化に合わせて変えていかないかぎり、
いつか乖離が生じます。
それが、(村上氏の言葉を借りれば)本来、私たちを守る存在であったシステムが、壁となる瞬間なのかもしれません。
もちろん、村上氏がここで語っているシステムが、負担免除の機能を持つ制度とは違う、という反論もあるかもしれません。しかし、いずれにせよ、彼のスピーチは、僕たちに議論を促してくれる素材となりそうです。
日米学生会議では、分科会のトピックだけでなく、こういう話題についても、
興味のある学生同士で話し合ったりします。
とくに結論のない投稿になってしまいましたが、
とりあえず、こんな感じで。
参考
2009年エルサレム文学賞受賞スピーチ
受賞者 村上春樹
毎日新聞ホームページ
『社会情報学ハンドブック』
編 吉見俊哉/花田達朗
出版 東京大学出版会
発行 2004年3月19日
より、「制度としてのメディア」(花田達朗)


