昨夜は、憲法という法は国家権力を制限し、国民の人権を保障することを目的としているという話をしました。

 

言い換えると憲法は、

 

国家権力に対して国民の人権を侵害するな、むしろ国民の人権を守りなさいと命令している法

 

であるということです。

 

例えば、検閲をすることによって国民の表現の自由を侵害してはならない、という趣旨の条文が実際にあります。

 

しかし、六法で憲法の条文を細かく見てみるとどうでしょう?

 

76条は以下のように規定しています。

 

すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

 

この条文が何を言っているのかわかる方は高校までの勉強を熱心にやっていらっしゃったんでしょう。

本当に頭が下がります。

 

76条は、司法権という裁判を主宰する権限を、最高裁と下級裁判所に授けますよ、という条文です。

これを専門用語で授権規範と言います。

 

結果として、最高裁と下級裁判所という国家機関は司法権を行使することができます。

 

こうして、憲法は権力に人権を侵害するなと命令するだけでなく、権力がすることができることもまた規定しているのです。

 

では、権力ができないこと(=人権侵害)と権力ができることの2つを、1つの法(=憲法)に定めた理由はどこにあるのでしょうか。

 

それは、権力が人権侵害をできないようにすることによって実現される人権の保障を目的とし(=人権規範)、権力は人権の保障をする手段としてその権限を行使する、というところにあります。

 

例えば、国民には裁判を受ける権利が保障されています。

交通事故で怪我をさせられたら、裁判で相手に慰謝料を請求する権利が認められていますよね。

ただ、裁判で請求すると言っても、裁判所に裁判をする権限が認められていなければ、国民の裁判を受ける権利は絵に描いた餅になってしまいます。

 

裁判所に司法権があることによって、国民の裁判を受ける権利が保障されるということは、授権規範を手段として人権規範の達成を目的とするということです。

 

人権規範と授権規範は目的と手段の関係にあると言えます。

 

明日は休日ですし、もう少し語りたいことがあったのですが、とりあえずここで止めておきます。

今夜また記事を上げます。