《おぼきさん》 

 午前一時を少し過ぎていた。

 銀座四丁目の交差点を抜けたところで、ひとりの女が手を上げた。

 渡辺は車を寄せた。

 女は後部座席に乗り込むと、行き先を告げた。

「麻布まで」

「はい」

 ドアが閉まる。

 銀座の夜が、車内から切り離された。

 女は四十代半ばくらいだろうか。黒いコートを脱ぎ、隣の座席に置いた。香水の匂いが、暖房の風に混じって流れてくる。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 晴海通りを進み、赤信号で止まったときだった。

「運転手さん」

「はい」

「ちょっと変なこと聞いてもいい?」

「どうぞ」

「仏壇に、ご飯を供えるでしょう?」

「はい」

「あの、ご飯を盛る小さい器。あれ、何て言うんですか?」

 渡辺はバックミラーを見た。

 女は窓の外を眺めながら訊いている。

「仏飯器……ですかね」

「そう、それ。それから仏器とも言うらしいんだけど」

「そうですね」

「うちの母は、違う名前で呼んでたんです」

「へえ」

「なんだったかなあ……」

 女は眉間に皺を寄せた。

 渡辺は前を向いたまま、しばらく考えた。

 すると、ひとつの言葉が、何十年ぶりかで口から出た。

「おぼきさん」

「え?」

「母は、おぼきさんって言ってました」

「おぼきさん?」

「はい」

 自分で言って、渡辺は少し笑った。

「だから、自分もおぼきさんって言いますよ」

「……かわいい名前」

 女も笑った。

 だが、渡辺は笑いながら、胸の奥で何かが動くのを感じていた。

 おぼきさん。

 そうだった。

 母は、そう言っていた。

 朝だった。

 まだ外が薄暗い。

 台所から、米の炊ける匂いがしていた。

 渡辺が子どもの頃、母は毎朝、炊きたての飯を小さな器に盛った。

 しゃもじで飯をすくい、器に押し込む。

 少し多めに盛って、こんもりと丸くする。

 湯気が立っている。

 母はその器を両手で持つと、仏壇の前まで行った。

「おぼきさん、あげてくるからね」

 そう言っていた。

 誰に話しかけていたのか、渡辺には分からない。

 仏様にだったのか。

 亡くなった祖父にだったのか。

 それとも、ただの独り言だったのか。

 けれど、その声だけは覚えている。

 おぼきさん。

 子どもの渡辺には、それが何を意味する言葉なのかも分からなかった。

 仏飯器という言葉も知らなかった。

 仏器という言葉も知らなかった。

 ただ、

 おぼきさん。

 母がそう呼ぶもの。

 それだけだった。

「運転手さん」

「はい」

 女の声で、渡辺は現実に戻った。

「お母さま、亡くなられたんですか?」

「ええ」

「そうですか」

 女はそれ以上、訊かなかった。

 車内に沈黙が戻った。

 赤信号。

 渡辺はブレーキを踏んだ。

 前方の信号機が、夜の道路を赤く照らしている。

 ふと、渡辺は思った。

 母が最後に「おぼきさん」と言ったのは、いつだっただろう。

 思い出せない。

 葬式の日のことは覚えている。

 母の顔も覚えている。

 棺の蓋が閉じられたときのことも覚えている。

 なのに、最後の「おぼきさん」が思い出せない。

 それが少し、悔しかった。

「私の母もね」

 女が言った。

「はい」

「朝になると、仏壇にご飯をあげてたんです」

「そうですか」

「私、子どもの頃は嫌だったんですよ。朝ご飯の前に、仏壇の前で手を合わせなさいって言われるの」

「分かります」

「でも、母が亡くなってから、あの光景を思い出すんです」

 渡辺は黙って聞いていた。

「不思議ですね」

「何がです?」

「生きているときは、何でもないことだったのにね」

「……そうですね」

 女は窓の外を見た。

 銀座の灯りは、もう遠くなっていた。

「運転手さん」

「はい」

「おぼきさんって、どんな字を書くんでしょう?」

「さあ……」

 渡辺は笑った。

「母から聞いただけだから、字は知りません」

「そうなんだ」

「でも、いいんじゃないですか」

「何が?」

「字は知らなくても」

 渡辺は前を見た。

「母がそう言ってた。それだけで」

 女は黙った。

 やがて小さな声で、

「そうですね」

 と言った。

 麻布に入る。

 目的地が近づいた。

 女が料金を払い、ドアを開けた。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

 女は車を降りた。

 ドアが閉まる。

 渡辺はバックミラーを見た。

 女は少し歩いてから、振り返った。

 そして、軽く頭を下げた。

 渡辺も頭を下げた。

 車を出す。

 ひとりになった車内で、渡辺は小さく呟いた。

「おぼきさん……か」

 誰に言うでもなく、もう一度。

 すると、あの朝の台所が、また浮かんだ。

 炊きたての飯。

 白い湯気。

 小さな器。

 仏壇の前に座る母の背中。

 そして、

「おぼきさん、あげてくるからね」

 という声。

 渡辺は、少しだけアクセルを緩めた。

 深夜の東京を、タクシーが静かに走っていく。

 母が残したものは、写真でも、形見でもなかった。

 何十年経っても、ふいに口から出てくる。

 たったひとつの、

 「おぼきさん」

 という言葉だった。