《鯉は恋なのか》
ある蒸し暑い夜だった。
銀座というところは不思議な街である。昼間は会社員の財布と胃袋を相手にしているくせに、夜になると急に人間の寂しさまで商売にしているような顔をする。
私は四十歳。銀座の夜を流しているタクシー運転手である。別に銀座の夜景に詳しいわけではない。詳しいのは、どこの角を曲がれば信号に引っかからないか、どこの店から出てくる人はだいたい酔っているか、その程度である。
三越前で手を上げた女性を乗せた。
五十代くらいだろうか。中年という言葉は少し失礼だが、ご本人もたぶん気にしていない顔をしていた。頬はほんのり赤く、目は楽しそうである。酒というものは、飲む量によって人を変える。少量なら人を素直にし、大量なら人を哲学者か迷惑な詩人にする。
「笹塚までお願い」
そう言って、女性は座席にもたれた。
しばらく走ると、突然こう言った。
「ねえ、運転手さん」
「はい」
「鯉って、なぜ鯉なのかしら」
私は一瞬、料金メーターの故障かと思った。
「……魚の鯉ですか?」
「そうよ。池にいる、あの口をぱくぱくさせているやつ」
「はあ」
私は運転手であって、国語の先生でも魚類学者でもない。しかし、お客さんの問いにはそれらしく答えなければならない職業である。
「昔の人が、何か思うところがあって名付けたんじゃないでしょうか」
我ながら、実に無責任な回答である。
女性は笑った。
「私はね、鯉は恋だと思うの、恋愛の恋よ」
「恋、ですか」
「だって一途じゃない。好きな場所へ、黙って泳いでいくでしょう」
なるほど。私はハンドルを握りながら少し考えた。
ただ、私の知っている鯉は、池の中で餌をもらう時だけ猛烈に寄ってくる。あれを恋と言っていいのか少し疑問である。人間にも似たような人がいるから、あまり魚の悪口も言えない。
「昔ね、好きだった人が鯉を飼っていたの」
女性は窓の外を見ながら言った。
「その人、鯉を見ながら言ったのよ。『鯉はいいなあ。言葉がなくても気持ちが伝わる』って」
「それは、なかなか風流な方ですね」
「でもね」
女性は少し間を置いた。
「その人、私の気持ちは最後まで分からなかったの」
私は危うく「鯉以下ですね」と言いそうになった。もちろん、運転手には守秘義務と沈黙という美徳がある。
笹塚に着いた。
女性は料金を払い、降りる前に振り返った。
「運転手さん。鯉と恋はね、字は違うけど似ていると思わない?」
私は少し考えて答えた。
「どちらも、捕まえようとすると逃げますね」
女性は大笑いした。
「まあ、上手いこと言うじゃない」
ドアが閉まり、私はまた銀座の夜へ戻った。
その夜から、池の鯉を見る目が少し変わった。
ただし、餌を持って近づいてきた鯉だけは別である。
あいつらは恋より先に、食欲で動いている。
人間も魚も、案外そんなものなのかもしれない。