今やSNS全盛の時代と言われていますが、ヘビーユーザーの中には理由はともあれ暇を持て余した人や、そもそも精神的に疾患を抱えた人が多いといわれています。どこからどこまでが精神疾患なのか判定することは困難ですが、少なくとも人生が上手くいかず、不平や不満を他人や社会のせいにして、匿名性を良いことに無責任な批判、悪口、うっ憤晴らしをしているだけの人が多い実感はします。
彼らは“正義”のつもりで主張しているようですが、その内容ややり取りを見る限り、国際金融勢力の日本拠点である電通に支配された新聞、テレビなどのマスメディアの報道内容を鵜呑みにして、見事なまでに印象操作の餌食となっていることに気が付いていないようです。
戦後GHQは、いわゆる“3S(さんエス)政策”、すなわち、「Screen(ハリウッド映画)」、「Sport(熱狂的なプロスポーツ)」「Sex(過度な性描写や夜の産業)」を用いて大衆を思考停止にさせ、政治や社会に関わる意思決定はマスメディアが一方的に流す情報に依存させる“愚民政策”を実行してきましたが、それが奏功した格好です。
SNSの普及は、このようなマスメディア一極体制に一石を投じるものと期待されてきましたが、実情を見る限り大衆は情緒、感情の虜となっており、当人たちの思惑とは裏腹に、結果的に情報産業(情報機関)による新しい支配体制を完成させるものと言っても過言ではないでしょう。
このような情報産業による支配体制の核心は「多数決原理」にあります。すなわち、民主主義下における“劇場政治”はもちろん、大量販売、大量消費を推進するビジネス・マーケティングの世界においても、「トレンドに乗り遅れるな」とのムードを盛り上げ、“市場(大衆)の声”に従わせることが勝利のカギとなります。
とりあえず、企業の目的が「利益をあげること」とするビジネスの世界はさておき、ここでは政治の世界における民主主義の大原則たる「多数決原理」が果たして正しい真理なのかについて考えてみます。
まず、「多数」ならば「正しい」のか、についてですが、「多数」を「正当」とする論拠は見い出せません。「多数」を「常識」と言い換えて考えてみると、「常識」などというものは「その時代、その地域のトレンド」という相対多数の共通認識でしかないことが分かります。
この相対多数の共通認識をもって真実とする考え方を「間主観主義」といいますが、絶対的な根拠があるわけではないので、地域によって、あるいは時代によってひっくり返ることもありますが、その典型例が天動説から地動説への「コペルニクス的転回」です。
地動説へ転換するまでの西洋社会は、神を啓示をもたらす普遍的な存在とする原始キリスト教などの「啓示神学」と、神を人間理性の延長線上でとらえるプラトン、アリストテレスらの「理神論」を融合したトマス・アクイナスの「中世キリスト教スコラ哲学」を権威的背景に、「神の子である人間こそが宇宙の中心」とした上で、「人間が住む地球を取り巻く天の方が回っている」とする天動説が絶対的でしたが、ガリレオ・ガリレイなどによって否定されたことは周知のとおりです。
一方、近世に入りジョン・ロックやホッブス、モンテスキューらの啓蒙思想家が「天賦人権説(自由主義)」や「社会契約説(民主主義)」を唱えましたが、その根拠を探ると「神を信じる者には恩寵としての自由が与えられる」など、アウグスティヌスらの「中世キリスト教スコラ哲学」を拠り所にしているだけ(信仰)で、明確な論拠はありません。
このように、論拠などなくても、とりあえずその社会で多数を占めれば“正義”とするのが「多数決原理(民主主義)」の正体ですが、この「他人が言っているから」とか、「自分だけ取り残されたくないから」などという大衆心理を巧みに利用して誘導、”世論“などという曖昧な合意を意図的に創作することで”正義“としているのが、マスメディアやSNSに振り回され、支配されている情報管理社会(大衆民主主義)の実態なのです。
