7)量子論と仏教、神道、カタカムナ

 

以上の哲学、心理学、脳科学、人工知能学、量子理論などから見た世界観は、実はすでに2600年前に釈迦やその弟子たちが語っていた哲理でした。

 

例えば、仏教の「唯識説」は、この世の現実は意識が作りあげた幻想だから「空(空観)」だ。一方「中観説」は、目に見える世界は目に見えない世界と対をなす関係性の中に存在し、目に見える世界だけ見ていても本質を捉えた事にならず「空」だ、とします。

 

ただ、「空」というのは、自分が存在する前に外部世界にまったく何もない(絶対無)というわけではなく、存在しているが意識に入らない限り “その人にとっては ”存在していないのと同じだ、という意味です(相対無)。

 

「無我」の意味についても、「唯識説」では「私ではない」、つまり「顕在意識ではなく潜在意識(阿頼耶識)が本質」と捉えるのに対し、「中観説」は「私はない」、つまり「私は単独では存在していない」と捉えます。

 

そして、「唯識説」では、現実は幻(空観)なのだから自分の内面を変えない限り変わらないとし、「中観説」は、見えるものと見えないものをバランス良くみよとし、いずれも目に見える現実に拘るなと強調したうえで、ただ、現実的な関わりにも一時的な役割はある(仮観)とします。

 

これを量子論に対応させると、「唯識」が「観察者効果」、「中観」が「量子もつれ現象」で、このような現象が起こる理由は、量子は粒子と波動の二面性をもっており(重ね合わせ状態)、「形あるもの(粒子)」と「形なきもの(波動)」との対生滅のあり様を、仏教では「一即一切、一切即一」と呼び、

 

「一」は粒子を、「一切」は波動を象徴し、「一点に全宇宙が畳み込まれ、全宇宙には一点が遍く存在している」ことを意味しています。

 

また、このことは「一即多、多即一」とも表現し、「一」は “一神教 ”を、「多」は “多神教 ”を象徴していると考えられます。

 

ちなみに、神道ではこの状態を、玉の真ん中に穴の開いた「勾玉」で表し、カタカムナ哲学(陰陽道)では陰陽二つの勾玉がペアになった「太極図」で表しています。

 

 

(次回に続く…)