<「鵜芽葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝」の一部だった沖縄>

 

 

古史古伝の一つ「上記(ウエツフミ)」によると、本土にあった大和朝以前の王朝である「鵜芽葺不合王朝」第44代・カラスコトタリスガオ天皇が、紀元前500年~1000年前の弥生時代中期に沖縄に使節を送っていたということです。 

 

それによると、使者のアメノハツチイケツキの命は天皇へ「日本の最南端にある島には貧しい人たちが暮らしています。かわいそうなのでどうかご慈悲を・・・・」と。すると天皇は「それはどこの島じゃ?」と聴かれたので「宮崎の種子島の南方、100里ほど離れた島です」と報告。

 

そこで、天皇は2人の使者に200人の供をつけて、10艘の船で佐多岬から2月23日に出航してまず屋久島に到着、25日には加計呂麻島、そしてほどなく沖縄本島に着きました。

 

ところが、沖縄の人たちは山に登って石を投げて抵抗しました。そこで老婆二人を送って話をさせると、心を許して女子供たちが老婆の着ている着物が欲しいと言うので与えました。が、着方が分らないようなので教え「みんなにも着物と食べ物を与える」というと仲間たちが集まってきました。

 

そこで、木の切り出し法から家の建て方、農業などを教えながら3年滞在した結果、沖縄は豊かで美しい国となりました。古来、沖縄は「ふたなぎの国」といわれていたそうですが、「上記」が編纂された鎌倉時代当時は支那のつけた「琉球」という名前で呼ばれていました。

 

沖縄を開拓したアワナギクニアケの命は最初の沖縄地方長官となって発展に寄与したため、沖縄の人は南風原の鶴野にお宮を建てて、この方を「葦原神」として斎き祀っており、今も春の祭りがこの場所で行なわれています。

(出展;ウエツフミ 宗像本 第32綴23~24章 http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php…