一、観応の擾乱…混迷する南北両朝と伏見宮家1
一、観応の擾乱…混迷する南北両朝と伏見宮家1 一方、以降、皇統を独占したかにみえた北朝皇統内部にも隠微な確執が生まれる。実の兄弟である崇光天皇(北朝第三代)と後光厳天皇(北朝第四代)から始まる系統間の争いである。 既に述べたように、鎌倉幕府による後醍醐の廃位にともなって即位した光厳は、復権した後醍醐によって約一年半の後に皇位を追われる。が、後醍醐も再び失脚し、足利尊氏によって光明(こうみょう)天皇が擁立された。 光明は光厳の弟であり、貞和四年(一三四八年)十月まで在位し、皇太子で兄光厳の皇子益仁親王に譲位する。これが「崇光天皇」である。 だが実は、光明は即位直後、後醍醐の皇子・成良(なりよし)親王(護良親王?)を皇太子にした。その理由は後醍醐との融和であるが、肝心の後醍醐が吉野に脱出してしまったので、最終的には成良に代わって益仁が皇太子とされる。 ところが、皇位についた崇光であったがわずか三年で廃位とされてしまう。その背景には室町幕府内の主導権争い、すなわち、足利尊氏・義詮(よしあきら)父子と、尊氏の弟・直義(ただよし)との激しい戦い「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」があった。 そのような中で、それぞれが戦略的な観点から南朝との接近を図ったが、観応二年(一三五一)十月、尊氏は鎌倉の直義追討の綸旨を南朝の後村上天皇から得ようと和平を申し入れて、南朝に降伏してしまった。 その結果、漁夫の利を得た南朝方は崇光を廃位し、「天皇は吉野の後村上ただ一人」と、両朝合一を成し遂げたのである(正平の一統)。 しかしながら、それは束の間の合一であった。観応三年閏二月、完全な合一を達成すべく南朝方は京に軍勢を突入させ、義詮(よしあきら)らを敗走させた。が、このころ尊氏は直義を破っており、各地の有力武将らも尊氏・義詮側についたため、南朝方は約一か月後、再び吉野へと退いた。かくして、南北合一は完全に破綻したが、南朝側は京から撤退時に光厳、光明両上皇と崇光、皇太子の直仁親王(光厳の養子)を同行させ、吉野山中の賀名生(あのう)まで連れ去り、幽閉してしまったのである。 ※カタカムナ国日本の真相を明かす第十巻『カタカムナ中世論』絶賛発売中!https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12952170602.html