清原氏分裂と後三年の役 …安倍一族と奥州戦争4
清原氏分裂と後三年の役 …安倍一族と奥州戦争4 ところで、清原武貞は三人の子がいた。真衡(さねひら)・清衡・家衡である。嫡子である真衡は武貞と前妻の子、清衡は後妻トキの連れ子、家衡は武貞と後妻との子で、三者は微妙な関係にあった。真衡は、敗者安倍頼時の娘の子であり、清原の血を受け継いでいない清衡はもちろん、その安倍氏の血脈を半分受け継いでいる家衡にも、軽蔑の眼差しを向けていた。 だが、真衡には子がなく、やむを得ず権守・平安忠の子を養子にし、その嫁には源氏の血を引く常陸国多気権守・宗基(むねもと)の孫娘を迎えた。清原一族の血統を継げなかった真衡には、この事態は屈辱以外の何物でもなかった。 そして遂に、その婚礼の際、真衡の鬱積した苛立ちが爆発、祝いを持参した清原一族の伯父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)に無礼であったことから、まず真衡と秀武が激突する。さらに秀武は、かねて真衡を快く思っていない清衡・家衡と組み、兵を整えた。 ところが、ちょうどこの頃、源義家が待望の陸奥守おして赴任してきた。藤原摂関家に対する贈賄工作が奏功したのである。 真衡は内戦を一時棚上げにして新国守を表敬訪問し、「三日厨(みっかくりや=饗宴)」を開き、かつ、その三日間に計五十頭の良馬を贈ったほか、特産の黄金・鷹の羽・海豹(あざらし)の皮などの贈賄工作を大々的に展開した。贈賄工作が功を奏したと思い込み、出羽の秀武攻撃に出立したのである。 真衡の主力がいなくなるとその本拠は手薄になり、清衡・家衡の軍勢が攻め込んでくるかもしれないが、彼は義家が清衡・家衡を牽制してくれるものと期待していた。そして、清衡・家衡軍が攻めてくると、真衡の妻は義家に救援を要請する。 清原氏の内紛を奇貨として、これに付け入り奥州の覇権を握らんと諮る義家は「待ってました」とばかりに出陣する。 ところが、そのとき出羽に出陣していた真衡が突然、急病で頓死する。大義名分を失った清衡・家衡は、急遽義家と和睦する。その結果、義家は奥六郡を二分して、清衡と家衡に与えることとした。 だが、元々奥六郡は母の父・安倍頼時のものであることに拘る清衡は不満を抱く。家衡も、自分は兄・清衡とは違い、清原氏の血脈を引き継ぐものであるから、すべて自分が相続すべきだと考えた。 これに対し義家は、両者の仲を取り持つという名目で、二人を一つの館に住まわせる。当然清衡・家衡の対立は激化し、家衡が清衡を討とうとすると、清衡は妻子(殺害される)を残して遁走、義家のもとに逃げ込んだ。 この機を逃さじと義家は出陣、家衡を金沢の柵に追い込み、持久包囲戦となる。やがて柵内の糧食も乏しくなり、冬将軍も到来したことで両軍は最後の決戦に臨む。義家は自軍の仮屋を焼き払って兵に暖を取らせ、最後の総攻撃に出たのである。 柵は落ちた。先の戦(前九年の役)の際に味わった屈辱を腫らした義家は、清原氏に一矢を報いた。だが、朝廷ではこの戦い(後三年の役)を、清原一族の内紛に基づく「私闘」と認定し、義家の参戦も「私戦」とみなして、一切恩賞の沙汰はなかった。それどころか、義家は陸奥守を免じられ、兵を率いての京都への凱旋も禁じられた。 畢竟(ひっきょう)、藤原摂関家による権謀が、源氏の棟梁・義家の思惑を上回ったのである。義家は一人、悄然(しょうぜん)と都に戻った。ただ、東国に残した部下たちには私財を以てその労に報いたが、このことが後年、東国における源氏の隆盛に大きく貢献することとなる。※カタカムナ国日本の真相を明かす第十巻『カタカムナ中世論』絶賛発売中!https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12952170602.html