毛利家の庇護を受けた花園宮常陸親王…奮戦する南朝皇子3
毛利家の庇護を受けた花園宮常陸親王…奮戦する南朝皇子3 三人目は「花園宮常陸親王」である。三親王による令旨の残存例の中では常陸親王令旨が最も多く、正平六年三月から同十年三月までの間に二十余通を残している。 『毛利家文書』に収める、正平六年七月三十日付けの常陸親王御使交名という文書を見ると、「先皇の御子四人」つまり、後醍醐天皇の生存中である四人の皇子名が記載されており、そのなかに「花園宮 土佐より周防に御入りある。今は常陸親王と申し候なり…」とあるのに気づく。 これによって、常陸親王が後醍醐の皇子であること、常陸親王と称する以前は花園宮と呼ばれていたこと、常陸親王は始め土佐にいたが、やがて周防に移って正平六年を迎えたことなどを知れる。 ただ、花園宮常陸親王という人物は後醍醐天皇の皇子系図にはなく、また、なぜこの名称を称したかも定かではない。 もっとも、延元三年九月、義良親王を始めとする皇子一行が、伊勢から東国に航行中、伊豆崎で大風に遭遇、このとき花園宮が四国に漂着したとする『元弘日記裏書』の記述が手掛かりとなろう。 常陸親王令旨の内容は、出雲や安芸(広島県の一部)などの武士に対する軍勢催促や褒章など、軍事関係を中心とするが、中務丞(なかつかさじょう)や左衛門慰などの官職に任じることを知らせるもの、兵糧領所として所領を与えるものなども含んでおり、親王としての権限を有していたことを示唆している。 安芸関係が多いことからみれば、同親王は周防(山口県東部)に入ったのち安芸に移り、安芸を本拠としていたことが窺える。 そして、安芸といえば戦国時代初期の「毛利氏」の拠点である。花園宮常陸親王が誰かは俄かには同定できないが、『井伊之谷宮略記』には、「護良親王に興良(おきなが)親王という御子がおり、その皇胤が周防国(山口県)田布施の大室家」との記述が手掛かりとなる。これが、後に大室寅佑(明治天皇)を輩出する「大室家」であるが、毛利家が南北朝時代から南朝皇胤を秘かに匿っていたことの支証となろう。※カタカムナ国日本の真相を明かす第十巻『カタカムナ中世論』絶賛発売中!https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12952170602.html