以前に書いた「太史の簡」と似通っているが、結果が相違する事例もある。


晋の大臣:趙穿が、あまりにも悪逆無道であった主君の霊公を弑逆したという事件が発生した。

同じ晋の大臣、しかも正卿(首相と同様の政治責任者)であった趙盾は、その前に霊公から疎まれていたため、他国へ亡命しようとしていた。

まだ国境を越えていなかったので、霊公の弑逆を聞いて急いで都に引き返した。

するとその状況をみた、史官の董狐が公式記録(晋の歴史書)に、「趙盾、その君を弑す」と書き記したのであった。


趙盾はそれを見て顔面蒼白になり、「弑したのは私ではない」と厳しく抗議した。




しかし史官は冷徹に言った。
「確かに、あなたが犯人ではありません。しかし、あなたは正卿であり、しかも国内に居るにもかかわらず、引き返して来ても犯人を誅しようとなさらなかった。政治責任を取らなかった。だから、あなたは公式には弑逆者ということになるのです。」

趙盾は、唖然としつつもそれを道理と理解したため、甘んじて弑逆者の汚名を着る決意をしたのであった。確かに彼は「君主を弑す」行為を行ったわけではない。

しかし元々、彼を政治責任者に据えたのは「霊公」であり、たとえ君主から疎まれ亡命しようとしたとしても、上卿は政治責任を君主とともに負うべきなのである。

そして犯人を追って罰さなかったのは法秩序に対する無責任なのである。

歴史としては政治的な「状況責任」を「歴史事実」として組み込んだという具体例である。

孔子が後にこの事件を語った。

「董狐は立派な史官だ。法を守り、権力を恐れず直筆してのけた。」

「趙盾も大人物で、法のために汚名を忍んだ。しかしもし国境を一歩でも出ていたら、汚名を着ないでも済んだであろうに」と慨嘆した。


孔子もまた魯国の法務大臣格であったが、秦の計略で堕落した君主を捨てて、弟子たちと流浪の旅に出ている。同様の境遇は身に染みている。

時に権力者は、自らの犯罪を隠蔽しようとしたり、他人に責任転嫁して闇に葬ろうとすることがある。しかし歴史に関わる人間は如何なる脅迫にも臆することなく事実を記録することを旨とする。

「歴史を恣意的に歪曲させることはさせまい」という歴史への強い意識は、理性があってこそ生じるものなのである。しかし歴史事実はそのような杓子定規の如き結論になることは稀である。そこに後世の人物の時間的感覚が付け加えられることによって曲解されることも多い。

であるから、「歴史認識」とは善悪論でも状況論でも結果論であっても問題が生じるため、扱いが難しいのである。多数決などは以ての外であろう。衆議尽くす長い議論の果てに事実が埋没することのないように、研究者は厳しく史料にあたるべきなのである。


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