日本中世の本地垂迹説による神仏習合思想は、大寺社への経済的勧誘、民衆教化や信仰伝播のために寄与したとはいえるものの、多くの「縁起」という由緒、素晴らしい知的財産を時空を超えた我々に齎した。




その逞しいまでの想像力と営為は中世民衆のみならず現代の日本人の文化・思想の柱骸の形成や発想に強い伝統性と類似性をも含む複雑な連鎖を与え続け、それらの構造は日本文化の持つ重層性と日本史に於ける思想・精神・宗教を通じて民衆の思考方法に方向性を与えるには充実に過ぎるほどであったと痛感させられる。




それらの表現する神仏の縁起、神々への尊崇、仏教経典による救済の拠り所を求めるなどの、「一見程度では相違する様に見える信仰」を織り紡ぐ巧みな表現の数々は、個々豊かな創造力に満ち溢れており、決して表記者(既に作者不詳、伝承者のみ)個人、若しくは関係者の持つ文才への顕彰のみではなく、深奥まで理解しようとする宗教者や現世との葛藤を抱える武士・貴族などの為政者、団結連帯し利権を守ろうとする民衆の信仰も包含されるべきものなのである。




書いたもの・書かれたもの・読むもの・伝えるもの・信仰するもの…それら全てがファクターとなって現存在している関係性、それらの関係し合う総体そのものが魅力的な現象を示す歴史資料であるともいえる。




中世当時の為政者、武士や民衆が熊野権現への信仰を強く示し三山に登山し崇め、尊崇する神々へ祈念する献身的行為、山伏などの山岳修行による肉体的苦痛を伴いつつも滅私奉賛する行為や、現在に至っても正月や祭礼に於いて身近な熊野神社へ参詣する行為が存在することなどは、「過去の清算すべき歴史」である筈がなく、現在進行形である「日本文化」の存在主体が揺らぐ事ない現実のものとして顕現化している現象なのである。




中世の一揆、武士階層=「国人」や民衆、近世にも至る百姓一揆の契状に勧請され押印される「熊野牛王(ごおう)宝印」の「黒烏」の意義とは何か。事実はどうであっただろうか。




日本サッカー協会の青地に三本足のヤタガラスのエンブレムは何を意味し、そして何の意味を今後伝えていくべきものなのか。




関連する事項への検討課題は重畳と派生しており減ることがない。




熊野を巡る信仰と営為は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として2004年に「世界遺産」として登録されているが、自然・信仰を歴史的にも未来的にも発展する可能性を秘めているだけに、そうあるべき姿は景観の保存に止まらず、調査・研究を多角的に進めることが不可欠であり、一人でも多くの「地球人(?)」が興味を注いで関与するようであって欲しいものだと思ってやまない。




さて、今回は趣向を変えて、熊野権現に中世から伝わる縁起(『神道集』所収)を参考に、中世信仰、神々の物語の端部を紹介したい。




これらの伝承は纏めて「中将姫」伝説と言われているものである。


また筆者が加えた解釈もあるが始めに御了承願いたい。




今は昔のこと、中天竺の摩訶陀国(インド:古代のマガダ国がモデル)に「善財王」という大王がいらっしゃった。




大王は美しい千人の后を持っていたが、その中で「源中将の娘」の「五衰殿の女御」(別名:善法女御)と呼ばれる女性が最も醜女であった。




※無論、インド王宮に「源氏の中将」という日本人女性は存在しなかったであろうが…。




女御は溜息をつきながら鏡の前の分身に嘆きを吹きかける毎日ではあったが、彼女は清浄とした高潔な心と深い信仰心の持ち主であった。




「どうか…観音様。大王の御寵愛をこの身に受けられますように…」




その願望はやがて大きな至上の願いにつながっていった。




「私の事等よりも苦しむ人は無数。…一切を御救い御導き下さい。…観自在菩薩(観世音・観音)様…」




世々の平常安寧と全ての争傷への癒しを毎日毎夜祈念し、一日も怠らなかった。女御は「千手観音菩薩」をそれほどまでに深く信仰していたのである。




すると数年後のある日…観音菩薩の霊験によって…奇跡が起こった。




女御は仏教で崇高視される「三十二相・八十種好の姿」に変身、神々しいまでの慈愛と美麗に満ち溢れた姿に転じたのであった。




この変身は彼女の信仰による霊験であったが同時に彼女に現れるであろう過酷な運命を導き寄せるものであったのである。


(つづく)






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