江戸時代、仙台藩の伊達政宗は、1613(慶長十八)年、家臣の支倉六右衛門長経(後に一族が「常長」と称したと考えられる。)とその一行をスペイン領メキシコ経由でスペイン、ローマへと派遣した。所謂、「慶長遣欧使節」である。ドンロドリゲスと田中勝介を通じてメキシコ(ノビスパン)との貿易を画策する幕府側と仙台藩主:伊達政宗が連絡調整していたため、支倉らも日本の公式な外交使節と考えて良い。彼らの派遣目的は、スペイン国王と会見しメキシコとの直接貿易の許可を得ること、さらにローマ教皇に会い仙台領内での布教のため宣教師の派遣を要請することであった。
彼らは、現在復興の気運の高まっている宮城県石巻市にあった「月浦」という港から、慶長十八(1613)年9月に貿易に活路を見出したい多くの商人をも含んだ総勢180人余とともに出航していった。船名は「サン・フアン・バウティスタ号」であったという。船は偏西風と北太平洋海流に押されながら太平洋を横断し、約3ヶ月後にメキシコのアカプルコに到着したのである。
その他の乗員はメキシコに滞在することになったが、スペイン国王・ローマ教皇宛の書簡を寄託された支倉ら約30名は、1614年6月、スペインの軍艦に便乗し大西洋を渡り、10月にはスペインに上陸できた。
これらの情報については、ローマの歴史学者でその際に支倉一行の通訳・交渉係に任じられ、ローマまで同行した「シピオーネ・アマーティ」が編じた『伊達政宗遣欧使節記』 (イタリア語版:1615年にローマで出版)に一行のヨーロッパでの動向が詳細に記されており、伊達政宗とルイス・ソテロの会見、そしてこの使節の派遣に至るまでの経過、さらにフェリペ三世やパウロ五世との謁見とその後の情報まで得ることができる貴重な史料として残されている。
そして1615年10月、支倉の人物と高潔さが褒め称えられた結果、貴族の位を与えられ、また彼ら8人にローマ市民権が授与された。この際の「ローマ公民権証書」は羊皮紙にラテン語で書かれており、現在、仙台市博物館に所蔵され国宝となっていることで知られる。
その後、貿易交渉は残念ながら不首尾に終わり、一行はマドリードからセビリヤに移り、1617年7月、国王の返書を得られずにヨーロッパを後にした。そしてメキシコ、アカプルコからフィリピンのマニラに到着し、結局2年間マニラに滞在した後、仙台に漸く帰ってきたのは、元和六(1620)6年8月のことで、月浦出航後七年という時間が経過していたのであった。しかもキリスト教は禁止された厳しい状況により、彼の経験を活かせる訳もなく失意のもとで病没した。元和八(1620)年7月1日、52歳であったとされる。(『支倉家年譜』)
1624年、ルイス・ソテロも密入国により火刑に処せられ支倉の道後を駆けた。51歳であった。
さらに寛永十七(1640)年3月、召使3人と弟の支倉常道がキリシタンであった責任追及を受け、支倉常長の子である支倉常頼が召使ら3人とともに処刑された。こうして慶長使節支倉の血脈とその事跡は深い闇に眠ることとなった。
しかし1873年5月、明治政府が派した「岩倉遣外使節団」によって支倉常長ら一行の事績が明らかになったのである。実に260年振りのことであった。そして今年、2013年は派遣以来400年という記念すべき時節となった。
さてスペイン南部にコリア・デル・リオという町がある。そこには現在、830人ものハポン姓を称する人々が存在するとされる。「ハポン」…もしやこのハポンは「日本」…つまり日本に所縁が存在する姓名なのではなかろうか。1614年に支倉一行はこの地に到着した。そこで地元の郷土史家により「ハポンさんたちは、残留したサムライたちの子孫」との説が提唱されている。
コリア・デル・リオのエストレージャ教会に残る洗礼記録によると1667年に「ファン・マルティン・ハポン」という人物が記されており、ハポン姓の初見人物とされている。
この年は支倉一行がコリア市に戻ってから51年後であり、年数から推測をたくましくすれば「母親の父が日本人」であるという可能性が浮上する。支倉一行は出発時180人余、スペインに向かったのは約30人、日本に帰国できたのは10人に満たなかった。その内訳から不慮の故人を抜いたとしても、もしかすると支倉一行の内、日本に帰らずスペインに逗留した者の子孫が「ハポン姓」を名乗っているのではないだろうかという可能性は否定できない。
支倉一行は、セビリア市でのパレ-ドの前にコリア・デル・リオに立ち寄り、ロ-マからの帰りにも、同地に立ち寄り9ヶ月間滞在した。スペイン国王から伊達政宗への貿易許可の親書が届くことを待ち望んでいたのである。結局、親書は届かず、帰国の途に着くことになるが、一行の中では、現地の女性とともに留まり帰国しなかった者がいたとして不思議はない。
それならばと、「日本人」と「ハポン姓」との科学的鑑定が行われることになった。名古屋大学、東京大学、国立遺伝学研究所などによる共同研究チームが血縁関係をDNA鑑定で探ることになったのである。そして約600人のハポン姓の人々が住むコリア・デル・リオで彼らから初めての血液採取を行った。
研究チームは今後、日本人の遺伝情報との比較を行う予定だという。慶長遣欧使節らの播いた種が今も続き、当時の海洋交易と異文化交流を明らかにすることになれば、支倉らも浮かばれることになるであろうし、日本近世外交史研究だけではなく文化人類学など国際的学際研究に大きく寄与することになるであろう。
2013年、支倉ら一行の記録が、ユネスコ「世界の記憶遺産」に登録された。近年稀にみる興味深い国際的歴史事実が注目されたのは無上の喜悦である。
こうした祝事が続くと入試問題は影響を受けやすい。今年度、彼らを「主人公」とした大学入試問題が、どれ程、出題されるのか、また楽しみでもある。
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彼らは、現在復興の気運の高まっている宮城県石巻市にあった「月浦」という港から、慶長十八(1613)年9月に貿易に活路を見出したい多くの商人をも含んだ総勢180人余とともに出航していった。船名は「サン・フアン・バウティスタ号」であったという。船は偏西風と北太平洋海流に押されながら太平洋を横断し、約3ヶ月後にメキシコのアカプルコに到着したのである。
その他の乗員はメキシコに滞在することになったが、スペイン国王・ローマ教皇宛の書簡を寄託された支倉ら約30名は、1614年6月、スペインの軍艦に便乗し大西洋を渡り、10月にはスペインに上陸できた。
これらの情報については、ローマの歴史学者でその際に支倉一行の通訳・交渉係に任じられ、ローマまで同行した「シピオーネ・アマーティ」が編じた
そして1615年10月、支倉の人物と高潔さが褒め称えられた結果、貴族の位を与えられ、また彼ら8人にローマ市民権が授与された。この際の「ローマ公民権証書」は羊皮紙にラテン語で書かれており、現在、仙台市博物館に所蔵され国宝となっていることで知られる。
その後、貿易交渉は残念ながら不首尾に終わり、一行はマドリードからセビリヤに移り、1617年7月、国王の返書を得られずにヨーロッパを後にした。そしてメキシコ、アカプルコからフィリピンのマニラに到着し、結局2年間マニラに滞在した後、仙台に漸く帰ってきたのは、元和六(1620)6年8月のことで、月浦出航後七年という時間が経過していたのであった。しかもキリスト教は禁止された厳しい状況により、彼の経験を活かせる訳もなく失意のもとで病没した。元和八(1620)年7月1日、52歳であったとされる。(『支倉家年譜』)
1624年、ルイス・ソテロも密入国により火刑に処せられ支倉の道後を駆けた。51歳であった。
さらに寛永十七(1640)年3月、召使3人と弟の支倉常道がキリシタンであった責任追及を受け、支倉常長の子である支倉常頼が召使ら3人とともに処刑された。こうして慶長使節支倉の血脈とその事跡は深い闇に眠ることとなった。
しかし1873年5月、明治政府が派した「岩倉遣外使節団」によって支倉常長ら一行の事績が明らかになったのである。実に260年振りのことであった。そして今年、2013年は派遣以来400年という記念すべき時節となった。
さてスペイン南部にコリア・デル・リオという町がある。そこには現在、830人ものハポン姓を称する人々が存在するとされる。「ハポン」…もしやこのハポンは「日本」…つまり日本に所縁が存在する姓名なのではなかろうか。1614年に支倉一行はこの地に到着した。そこで地元の郷土史家により「ハポンさんたちは、残留したサムライたちの子孫」との説が提唱されている。
コリア・デル・リオのエストレージャ教会に残る洗礼記録によると1667年に「ファン・マルティン・ハポン」という人物が記されており、ハポン姓の初見人物とされている。
この年は支倉一行がコリア市に戻ってから51年後であり、年数から推測をたくましくすれば「母親の父が日本人」であるという可能性が浮上する。支倉一行は出発時180人余、スペインに向かったのは約30人、日本に帰国できたのは10人に満たなかった。その内訳から不慮の故人を抜いたとしても、もしかすると支倉一行の内、日本に帰らずスペインに逗留した者の子孫が「ハポン姓」を名乗っているのではないだろうかという可能性は否定できない。
支倉一行は、セビリア市でのパレ-ドの前にコリア・デル・リオに立ち寄り、ロ-マからの帰りにも、同地に立ち寄り9ヶ月間滞在した。スペイン国王から伊達政宗への貿易許可の親書が届くことを待ち望んでいたのである。結局、親書は届かず、帰国の途に着くことになるが、一行の中では、現地の女性とともに留まり帰国しなかった者がいたとして不思議はない。
それならばと、「日本人」と「ハポン姓」との科学的鑑定が行われることになった。名古屋大学、東京大学、国立遺伝学研究所などによる共同研究チームが血縁関係をDNA鑑定で探ることになったのである。そして約600人のハポン姓の人々が住むコリア・デル・リオで彼らから初めての血液採取を行った。
研究チームは今後、日本人の遺伝情報との比較を行う予定だという。慶長遣欧使節らの播いた種が今も続き、当時の海洋交易と異文化交流を明らかにすることになれば、支倉らも浮かばれることになるであろうし、日本近世外交史研究だけではなく文化人類学など国際的学際研究に大きく寄与することになるであろう。
2013年、支倉ら一行の記録が、ユネスコ「世界の記憶遺産」に登録された。近年稀にみる興味深い国際的歴史事実が注目されたのは無上の喜悦である。
こうした祝事が続くと入試問題は影響を受けやすい。今年度、彼らを「主人公」とした大学入試問題が、どれ程、出題されるのか、また楽しみでもある。
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