陸奥宗光…明治初期の名外務大臣、条約改正に尽力した。また1871年には「神奈川県知事」を務めていることでも知られる。


通称は陽之助。紀州藩の勘定奉行だった伊達宗広の子として生まれたが、彼が10歳の時、父が藩内の権力聞争により田辺(和歌山)に10年間流罪となった。この一家離散の体験が陸奥宗光の強靭な意志、反骨を大きく育てたのであろう。


元々、実家の伊達家は陸奥国伊達郡が出自である。
「一部の主より一国の主たらん」と「伊達」ではなく「陸奥」と名乗った。


安政5(1858)年、江戸遊学を志し、15歳で和歌山を出た。
その際に七言絶句を残している。


朝誦暮吟十五年
飄身漂白似難船
他事争得生鵬翼
一挙排雲翔九天

安政5(1858)年江戸で朱子学者の安井息軒に師事していたが、吉原通いが露見し破門されてしまった。

折りしも撰夷か開国かで国論が分裂沸騰している時でもあり、父が脱藩して京都で尊皇摸夷運動をしていたこともあり、京都、大坂を往来して、志士たちと交わるようになった。

やがて土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤博文などと交友を持ち、文久3年(1863)年、幕府の神戸海軍操練所に入り、慶応3(1867)年には坂本龍馬の海援隊(亀山社中)に加わった。長崎で勝海舟と坂本との交友を経て、陸奥は才能を開花した。


坂本竜馬は「(刀を)差さなくても食っていける(才覚がある)のは俺と陸奥だけ」と言ったといわれる。陸奥宗光は「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬」と竜馬を褒めちぎっている。

降って明治7年8月、酒田で大規模な農民一揆「わっぱ騒動」が起こった。わっばとは、木のつるで作った弁当箱のことで、「租税をとられ過ぎた。わっばで配分できるほど、多額の納め過ぎがある」と返還を求め訴訟に持ち込んだ。酒田県令は「鬼県令」といわれた「三島通庸」であった。

元老院議官の陸奥は書記官を現地に派遣、「三島の行政に非がある」と糾弾したことにより、農民勝訴の判決が出たのが11年6月3日であった。

しかし陸奥の身辺にも風雲急を告げる変転が訪れる。


明治10(1877)年、「西南戦争」に際して土佐立志社の林有造、大江卓らが政府転覆を策謀したが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていたことが発覚し、翌年、禁錮5年の刑を受け投獄された。


陸奥の逮捕は「わっぱ騒動」の判決1週間後であり、送られる先が「山形監獄」と決まった。

無論、山形県令・三島通庸の在所である。陸奥は報復によって毒を盛られるかも知れず、藩閥による専制政治への義憤から元政府内の対立者も多かったため、死を覚悟する。

しかし、さすがの三島も陸奥の様な国士に不埒な真似は出来ずに監視するだけであった。彼がここで他界していたら後の近代外交史がどうなっていたかわからなかったのである。

監獄に入った陸奥は、再婚した妻:亮子に手紙をしたためつつ、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳や自己の著作にいそしんでいた。

しかし「山形監獄」に火災が起こった。万事休すかと思われた。東京では陸奥焼死の誤報も流れた。

やがて生存が確認されるとすぐさま伊藤博文が動いた。明治11(1878)年、伊藤博文が当時最も施設の整っていた宮城監獄に陸奥を移管させたため、彼は生をまっとう出来たのであった。

出獄後、明治16(1883)年、陸奥が翻訳したベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」(一族筋の伊達政宗をもじったか)の名で刊行されることになった。

彼の仕事はさらに続く。その後のイギリス留学により近代外交や国家運営について多くを学び、そして日本の危機を救うことになるわけである。

陸奥の手腕は、通暁する近代社会制度・外交への知識に裏打ちされたもので、尊敬すべき明治外相の人生は、真に物語以上に波乱万丈であった。


東大テストゼミ日本史解説動画

東大テストゼミに参加しよう!

東大PJゼミ生になろう!


大学受験 ブログランキングへ

にほんブログ村 受験ブログ