近世初頭,日本人のイエズス会修道士(イルマン)であったファビアンという人物が存在した。日本名は不詳であるが,後に棄教しキリシタン弾圧に加わった人物としても知られる。後に不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)とも称した。


北陸(加賀・越中)出身の人物らしく,また彼の母であるジョアンナは北政所(お寧)の侍女となったという。彼は大徳寺の禅僧(臨済宗)として学び,「恵俊(恵春)」と称したと言われている。

信長が野望と共に潰えた「本能寺の変」の翌年,天正十一(1583)年にファビアンは京都で母とともにキリスト教の洗礼を受けた。その後,高槻、大坂のセミナリオ(神学校)で学び、1586年天正十四(1586)年に修道士(イルマン)になってイエズス会に入った。

しかし豊臣秀吉が発した「伴天連追放令」(1587年)から逃亡し,山口、長崎を転々としつつ,天草の「コレジオ」(宣教師養成所)で日本語を教えることになった。

天草ではキリシタン版の編集が盛んであった。そこで天草本『平家物語』をローマ字で編纂する。また自身の僧侶の経験から『仏法』を著し、これより後はキリスト教を擁護し仏教を批判していった。


「関ヶ原の戦」後,徳川家康が天下を臨む地位に達し,江戸幕府が開設されるに至る。その慶長八(1603)年にファビアンは京都に戻る。そして慶長十(1605)年、徳川秀忠が二代将軍に任命された年にはキリスト教信仰を擁護する『妙貞問答』を著した。

そして,幕府による宗教統制策の一環として,朱子学(京学)の学頭であり政治にも大きく影響力を持つ林羅山とファビアンが議論することになったのである。

慶長十一(1606)年に行われた論争を「地球問答」と呼んでいる。


ファビアンは当時は支持されつつあった地球球体説と地動説(コペルニクス)を主張し論陣を張った。しかし,林羅山は地動説と地球球体説を中国の思想・理論・科学を楯に用いて論破していった。その結果,「地球方形説」と「天動説」を主張した羅山が勝利するということになった。

ファビアンは自身の信仰に動揺し、慶長十三(1608)年には修道女と駆け落ちして棄教するに至ったのである。


幕府はこの元修道士を「転び切支丹」として利用するに至った。1613年には全国にキリシタン禁教令を発し,慶長十九(1614)年には長崎でキリシタン迫害に協力することになる。その後,元和六(1620)年,キリスト教批判書『破提宇子』(は・だいうす)を著した。

以下はその一部である。

提宇子門徒(切支丹)
(全知全能の神)「デウス」は「人間」より先に「ハライソ」(天国:パラダイス)を造り、そこに「天使」を置いたが、「ルシファー」(堕天使)が「悪魔」となったため、それらの三分の一を引き連れ地獄に堕落させられた。

ファビアン:
デウスは全知全能であるはずなのに、地獄に堕ちる者が出ることをなぜ知らなかったのだろうか?もし、知っていて天使を作ったのなら、ずいぶん無慈悲な話である。あるいは、「天使」は元々作りそこないだったのだろうか?



このような具合で,切支丹を理詰で追い詰め疑問を持たせる手法は,ファビウスが修道士としてキリスト教の研究に勤しみつつも,異文化の生活・習俗に最終的に馴染むことはできなかったことを示しており興味深い。

一方,論争に勝った林羅山は,江戸幕府の儒官として権勢を伸張していった。「寛永の武家諸法度」(1635年)の起草などにその片鱗が見える。さて江戸城に出仕した大名がそれぞれ自分の持参した弁当を食していた際、毛利秀元の弁当のなかに鮭の切身が入っており,羅山は、武蔵岩槻藩の藩主阿部重次らとともに鮭の切身を「珍重」し,少しずつ分食したという逸話もある。

明暦三(1657)年正月十八日,「明暦の大火」(本妙寺の振袖火事)が発生した。羅山は周囲の騒擾を気にせずに読書に余念がなかったのだが、神田の自宅にも火が容赦なく押し寄せた。そのため翌日、読みかけていた本1冊のみを持ち上野方面に避難したのである。しかし火事の結果,自宅が焼失してしまったため、書庫に納められていた蔵書も焼亡したこと聞いて,失意の中に病床に臥したといわれている。


林羅山の掴んだ「真実」と「権勢」は固定された守旧的思考と因循姑息な蔵書とともに時代に取り残された。江戸初期の日本人にとっては不幸であったのか,それとも幸運であったのか。

現在,非科学的な「天動説」を肯定して権勢を得る,歴史事実を歪曲してそれを肯定するように求める行為が決して正義ではないということを如実に物語る好事例と言えよう。


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