1219年(建保7年)、鎌倉殿である右大臣源実朝が、甥の公暁に暗殺された。

☆慈円は歴史随筆「愚管抄」を著し、拝賀に列立した公卿達の聞書きをまとめ迫真の筆致で読者の心に問うている。


夜に入奉幣終て、寳前の石橋を下りて、扈従の公卿列立したる前を楫して、下襲尻引て笏もちてゆきけるを、法師のけうさうときんと云物したる馳かかりて、下がさねの尻の上にのぼりて、かしらを一の刀には切てたふれければ、頸をうちをとして取てけり。をいざまに三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらして、この仲章が前駆して火ふりて有けるを義時ぞと思て、をなじく切ふせてころしてうせぬ。義時は太刀をもちてかたはらにありけるをさへ、中門にとどまれとてとどめてけり。大方用心せずさ云ばかりなし。皆くもの子をちらすが如くに、公卿も何もにげにけり。かしこく光盛はこれへはこで、鳥居にまうけて有ければ、わが毛車に乗て帰りにけり。皆散々にちりて鳥居の外なる数万の武士是をしらず。此法師は、頼家が子を其八幡の別当になして置たりけるが、日比思もちて、今日かかる本意を遂てけり。一の刀の時、「親の敵はかくうつぞ」と云ける。公卿どもあざやかに皆聞けり。

かくしちらして一の郎等とをぼしき義村三浦左衛門(義村)と云者のもとへ、われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかんと云たりけ
れば、この由を義時に云て、やがて一人此実朝が頸を持たりけるにや。大雪にて雪のつもりたる中に、岡山の有けるをこえて、義むらがもとへゆきける道に人をやりて打てけり。とみにうたれずして切ちらし切ちらししてにげて、義村が家のはた板のもとまできて、はた板をこへていらんとしける所にて打とりてけり。実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり。

鎌倉幕府の公式記録の「吾妻鏡」ではこの間の事情をより詳しく述べている。

正月二十七日戊子、霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参。酉の刻御出。(略)
宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。(略)或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当阿闍梨公暁「父の敵を討つ」の由名謁らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。(略)爰に阿闍梨彼の御首(実朝の首)を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉(阿闍梨の乳母子)を義村に遣わさる。「今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべき」の由示し合わさる。(略)義村この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。(略)義村使者を発し、件の趣を右京兆(北条義時)に告ぐ。京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべきの由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。「阿闍梨は太だ武勇に足り、直なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たる」の由各々相議すの処、義村勇敢の器を撰ばしめ、長尾の新六定景を討手に差す。(略)阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らんと擬す。(討手の長尾)定景太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。これ金吾将軍(源頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)。(略)定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。

大江広元(覚阿)は「右大将家は東大寺供養のときに油断せず、服の下に甲冑を着ていました」と実朝に武装を促したが、源仲章が「大臣になる人にその例はない」といって却下された。前途洋洋たる青年貴族たらんとした源実朝はかくして暗殺されたのである。


その犯人たる公暁は、飯を食う間にも実朝の首を手放さなかった。遠くはバビロニア王も敵将の処刑を寝そべって見物しながら宴会を開いたし、織田信長は浅井長政や朝倉義景の首を絵具や金箔で装飾し、これを宴肴にしたというから、同様に公暁も積年の怨恨が願果され嬉々たる心境だったのであろうか。「俺が将軍だ!」と叫んだ豪胆な彼だったが、三浦義村、北条義時らの反応は冷淡だった。「公暁は武勇に優れているが、素直な人間ではない。彼を将軍として幕府政治をとらせるわけには行かない」と判断し討手によって首を落とさせたのである。


猟奇事件に潜む怨恨とその果たし終わった心情は…やはり平生の感情からは理解できないものがある。また犯人に対して同情を寄せる人間は少ない。返って害を蒙る事、必定である。憎しみの連鎖はやはり狂気の沙汰ということなのであろうか。

大江広元が御所に参じ、義時の中使と称して、実朝の右近衛大将昇進について辞退するように諷諫した。

「須らく御子孫の繁栄を乞願はしめ給ふ可くば、御当官等を辞し、只征夷将軍として漸く御高年に及びて、大将を兼ねしめ給ふ可きか」と云々。

源実朝が云う。

「諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と云々。


彼の諦めは「源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず」の部分に顕著である。鎌倉幕府の歴史はそのまま河内源氏棟梁家を中心とした血塗られた足跡を今も語っている。頼朝の兄弟(義経・範頼・阿野全成)・叔父(源行家ら)は言うに及ばず、頼朝の養子(平賀朝雅)、頼家の子(一幡・公暁ら)の粛清、それによる誅殺は度を越えていると考えられて余りある。

源実朝は青年歌人としても政治家としても大器と考えられる人物であった。しかし鎌倉幕府という組織はその親裁権を制限し北条氏が台頭するための形骸のみを必要としていたのである。実朝が長命を保ったとしても最終的な実権は削がれてそう遅くない時期に同じ道を辿ったであろう。


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