既に信長公御座所本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出し候と思食され候の処、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打入れ候。

「是れは謀叛歟、如何なる者の企てぞ」と御諚の処に、森乱申す様に、「明智が者と見え申候」と言上候へば、「是非に及ばず」と上意候。

透をあせらず、御殿へ乗り入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・田村吉五、切って出で討死。此他、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・息小虎若初めとして廿四人、御厩にて討死。

「信長公記」巻15・32


喧嘩かと思ったら謀反だった…是非に及ばず…
「どうしようもない」という諦観が信長の脳裏を過ぎった。
死を覚悟の瞬間であった。天正十(1582)年六月一日未明のことである。


この年、信長は東征し武田勝頼を天目山に滅ぼした。そして富士見物の上、関東管領に滝川一益を任命する。これは「征夷大将軍」の故事を演出したものである。

信長が将軍に任じられようとしている…足利義昭を追放しておいて…前例にない違乱、秩序の破壊であると、信長への元・室町幕府家臣や正親町天皇側近からの猜疑は日増に大きくなっていた。信長の天下布武が志半ばに屠られる瞬間が、ましてや信長家臣団の直属親衛隊12000人の背反であったことが、信長の諦めを増幅したであろうことは容易に類察しうるのである。

昨日まで仲間だったが…叛意を沸々と蒸留させた怨敵に変容した明智光秀らに、信長の覇道は閉ざされたのである。

信長のような人物でもこのような口惜しい目にあうのだ。日頃からの「油断大敵」という言葉は自分自身に向けられるべき言葉であり、他人の油断は問題ではない。

センターレベル日本史を軽視する受験生が多い。「80%でいいのだからそこまでは…」という類。しかし冷静に考えてみてそれは油断なのではなかろうか。

センターでは満点を狙え!これを合言葉に基礎学習に余念なき様につとめるべし。
過去のセンター満点得点者は「もっと問題が欲しい」と貪欲に学習していった。


彼らは「是非に及ばず」という言葉には縁が無いことであろう。


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