コロナ禍やウクライナへの軍事侵攻など試練の多い昨今ですが、試練は決して不幸ではなく、むしろそれは天が私たちのことを思って届けてくれるギフト(贈り物)なのだと、私はいつも学院の子どもたちに話しています。

 

得ることばかりが、幸せとは限りません。

 

コロナ禍となって外出の自由や人と会う機会を失い、ウクライナ侵攻が始まって連日モニター上に繰り返される惨劇に心砕ける今を嘆く人たちも、それでは以前のように、どこへでも行け誰とでも会える、平穏無事な日常に100%満足し幸福感に満たされていたかと問われれば、どうでしょう。

 

その時はそれなりに自分の人生に不満や不安を感じ、我が人生は幸福なりと胸を張って言い切れる人など、そうはいなかったのではないかと思います。

 

「失う」ことは、「得る」こと。

  

健康でも平和でも失って初めて、人はその価値の大きさに気づくもの。

 

求めずとも常にそこに在るとものの価値に、人はなかなか気づくことができません。

 

この世の全てが、奇跡のような偶然の積み重ねによる大自然の「バランス」と、儚くも健気な人間同士の「信頼」の上に繰り広げられて来た、神々しくもフラジャイル(脆弱)な営みであることに気づかない。

 

気づかないから、その価値を理解できず、たとえ少し失いかけたところで必死に守ろうとはしない。

 

地球環境もグローバル・サプライチェーンも世界平和も、ひとたびバランスと信用が揺らげば一気に瓦解へと進みます。

 

コロナ禍やウクライナへの侵攻を通してそのことに気づき、つつがない日々を過ごせることの有り難さにやっと気づけた私たちは、きっと以前より幸せなのだと思います。

 

 

今や食物連鎖の頂点に立ち、生物の最高位に君臨する私たち人間の学名は「ホモ・サピエンス」。

 

その名は1758年、スウェーデンの生物学者 カール・フォン・リンネによって考案されました。

 

ラテン語の名詞で「homō」は「人」、「sapiens」は動詞 sapiō 「理解する、知っている」の現在分詞で「知恵のある」といった意。

 

ホモ・サピエンスとは、はたしてその名の通り、本当に叡智を持った「賢い」存在なのか。

 

(それは甚だ疑問・・・)と心の中では呟きながらも、学院で子どもたちを前にすれば

「地球を守ることは、生き物の頂点に立つ私たちの責務。ホモ・サピエンスという名前に恥じないよう、学校でしっかり学んで、私たちの力で幸せな未来を作っていきましょう」

と必死で語る私。

 

一方、世界各地からは、苛烈を極めるロシアによる砲撃、3週間を超える上海のロックダウン、ミャンマー軍による国民への蹂躙、タリバンによって失われているアフガン女性の教育の機会・・・etc.、様々な非人道的状況が連日報じられています。

 

「人間存在」の何たるかが問われていることをヒシヒシと感じる日々が、今日も続きます。

 

 

 

〈画像出典:未来に繋がるinformation〉