太平洋戦争開戦から80年という節目に公開する、半藤一利さんの講演会速記録。

 

私が主催する政策研究会「ジャパン・ビジョン・フォーラム」で2006年に開催されたこの講演会ですが、今日の後編では基調講演に続いて行われた「トークセッション」の模様をお伝えします。

 

トークセッションは「戦争責任」をテーマに、半藤さんと私、そして当時自民党の憲法調査会会長だった船田元議員も加わって議論が交わされました。

 

 

この日の講演では、半藤さんが出席者に次のようなアンケート用紙を開会前に配布して下さり、その答えがトークセッション中に明かされます。

 

 

1. この60年間に日本と戦争したことがない国は?

a.ドイツ b.オーストラリア c.アメリカ d.旧ソ連

 

2. 太平洋戦争の戦闘員の戦死者は、陸軍165万人、海軍47万人とされる。このうち広義の飢餓による死者の比率は?

a.10% b.40% c.70%

 

3. 同じくこのうち海軍の海没者数は18万人、陸軍は?

a.2万人 b.18万人 c.40万人

 

4. 日本の捕虜(8.15前)の総数は?

a.2千人 b.1万人 c.5万人

 

5.  ゼロ戦の片道飛行距離は、おおむね東京からどこまで?

a.大阪 b.沖縄 c.台湾

 

6. 日本陸軍の一日当たりコメ定量は?

a.3合 b.6合 c.1升

 

7.ほぼ連続してもっとも長く歩いたとされる第37師団の移動距離は?

a.1,000km b.5,000km c.10,000km

 

8. 陸軍大将と二等兵の俸給の比率は?

a.1対10 b.1対100 c.1対1000

 

9. 昭和天皇が戦時中の1944年ごろ、居間に飾っていた二つの胸像は、ダーウィンとある外国の政治家であった。誰か?

 

10. 「太平洋戦争」と命名したのは?

a.占領軍 b.文部省 c.日本海軍

 

 

是非皆さんも、アンケートの質問にまず答えてから速記録をお読みいただき、半藤さんと答え合わせをしながら、戦争責任について思いを深めていただければ幸いです。

 

 

「ジャパン・ビジョン・フォーラム

             半藤一利氏 講演会

         トークセッション速記録

                                (2006.5.12)」

 

 

畑:では、トークセッションに移らせていただきます。ちょうど最後に先生のほうからキーワードをいただきました。靖国の問題、戦争責任の問題というのは、他の国、隣国から言われて云々というものではなくて、日本人として考えて、そして判断、決断を下さなければいけない。本当にそれが問題の核心だと私自身も思っております。

 

冒頭に、大変無知ながら私の素朴な疑問を二つ先生に投げかけさせていただき、日本という国が果たすべき犠牲者に対する戦争責任ということについて、まず考えてみたいと思います。トークセッションでは、一つテーマを通させていただきたいと思いまして、そのキーワードを「責任」という言葉に設定させていただきたいと思います。

 

と言いますのは、先生の『昭和史』を拝読しますと、やはり日本が坂道を転げ落ちるように、決して勝ち目のない戦争に突入していってしまったその悲劇の元凶は、ありとあらゆるところでの“無責任体質”から起きて、そしてどんどん増幅していったということにあると思います。それはある意味、日本人の気質というか特徴なのかもしれませんが、大変残念なことにやはり現代にも通じる、そして今の世相にもそれが如実に表れているというところがございます。

 

そこでまず素朴な疑問の1点目ですが、「生きて虜囚(りょしゅう)(はずかしめ)を受けず」という言葉をめぐる責任です。私はこの言葉をNHK特集で、東條英機の肉声で聞きました。実際この言葉を受けて、数多くの戦闘員はもとより、非戦闘員の人々までもが玉砕・自決しました。ところが、戦争を指揮した最高幹部の多くが敵軍の捕虜となり、裁判を受けたとは言えその後に自らの戦争責任について何も言及せぬまま通常の生活を送ったことについては、あまりにも不条理だと感じています。

 

「生きて虜囚の辱を受けず」という言葉をそのまま受け止めて自分の命を絶った民間人があれだけいるのに、それを指示した人間が戦後、自分の言動に対する総括もせぬままに生きているのか、と。そもそも捕虜となって命を長らえるくらいなら、なぜ戦時中にあのようなことを言ったのかと。

 

そしてこういう不条理について、日本人はなぜ「おかしいではないか」と声をあげないのか、ずっと素朴な疑問として持ち続けておりました。

 

もう一つの疑問は、先ほどの先生によるアンケートの答えに触れてしまうんですが、日本兵の死者の内、実に70パーセントが戦闘による死亡ではなくて、飢餓、餓死で亡くなったこと。つまりこれは、軍の兵站作戦の拙さによって引き起こされた犠牲だったということを、さまざまな本ですとかドキュメンタリーで知り愕然とした経験があります。

 

例えば、一つの会社でこれだけの犠牲を社長や役員が社員に強いたら、それは大変な責任を負わなければいけないのに、なぜ戦争については、誰もトップの責任を問わないのか。日本人というのは戦争責任という問題に、他国から云々言われる前に、まず日本人自身として、いわゆる「落とし前を付けようじゃないか」となぜ言わないのか。こんなことをそのまま続けていたら、またいつか同じことが起きるのではないかという危機感を、私は持ってしまいます。

 

こうした日本人の「責任」をめぐる考え方について、どのように理解したらよろしいでしょうか。

 

 

半藤:その前にアンケートを、これは機会があるたびに私は今の日本人は戦争を知らないということを聞くので、お願いしてやっていただくんです。今日は別に皆さんのを回収することはいたしません。どうぞお持ち帰りください。ただ、答えだけ申し上げます。

 

1番はもちろんドイツです。これでドイツということを知らない女学生が。私は女子大でこれをやったことがあるんです。50人の内、ドイツに丸を付けた人は12人。1番多かったのはアメリカに丸を付けた人がやはり12人。残りはオーストラリアがほとんどでした。というくらいに、今の女子大生は。今から10年前の話ですが、女子大生は知らないということが分かりました。これはどちらでもいいんです。

 

2番目は、今、畑さんからお話がありました通り、70パーセントが正しいです。

 

3番目は、bの18万人。ちなみに、海没船員、靖国神社にお祀りされていない船員は6万人です。ここに書いてありませんが。

 

それから日本人の捕虜は、5万人です。「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓があっても5万人の人は捕虜になったと。これはもちろん、意識不明とかになった方もいると思います。

 

ゼロ戦の航続距離は、直線距離でダーッと走った場合ですが、台湾までです。

 

日本陸軍の一日当たりのコメの定量は6合です。これは、今の畑さんの戦争責任の問題になるかと思いますが、6合のコメを一日ですよ。ですから10日間の作戦行動を起こすと6升。それを担ぐんです。ですからもう兵隊さんは40キロ以上のコメを担いで行かなきゃいけない。これがもうだいたい酷な話なんですが、こういうことをやらせた。

 

7番はcの1万キロメートル。

 

陸軍大将と二等兵の俸給の比率は、bの1対100です。

 

9番の昭和天皇のお部屋にあったのは、リンカーンです。

 

「太平洋戦争」と命名したのは、そもそもは日本海軍でございます。そもそも海軍が「太平洋戦争」と命名をしたのですが、議論に議論を重ねた末に、陸軍に押し切られまして「大東亜戦争」となったんです。

 

以上が解答でございます。どのあたりになったかどうか、御参考までに。教えていただきたいくらいなんですけども。

 

今の畑さんからの御質問です。海没者、餓死者が70パーセント。このほとんどが、本当に作戦の無謀さ、あるいは無知さ、あるいはあほらしさと。

 

実に日本軍の自分たちのことを知らないで。というのは、妄想と言ってもいいような、自分の頭の中の観念だけに基づくような作戦計画のもとに行われた結果として、これだけ多くの方が本当に無念の死を遂げたというのが太平洋戦争の現実であるわけです。こういうことを言うとちょっといけないのですが、これは、戦って、戦い抜いて、本当に本当に戦って、それで戦死したというときには、やはりそれなりに自分で満足があるのではないだろうかと。しかしながら、何もしないで餓死ですよ。栄養失調によるどうにもならない餓死。自分の体から蛆虫が沸いてくるのを見ながら死んでいったと。そういう兵隊さんの記録を読んだり書いたりしているわけです。

 

これを黙って、みんな、靖国神社にお祀りすれば納められると、私たちは思っていいんだろうかということを時々思うんです。やはりこの人たちはみんな、本当に指導者の、上に立つ人たちの無謀さと言いますか、無責任さというものに対して、怒りを覚えながら死んでいったのではないかということをきちんと考えますと、果たして、そういう無謀な作戦、あるいは無責任なことをした人たちが、後から靖国神社に祀られているというその現実を、無念の涙をのんで死んでいった人たちが本当に喜んでいるんだろうかと。一緒になっていることが。

 

もちろん日本人ですから、死んでしまえば皆同じという、これはよく言う言葉ですが、これは実は仏教の考え方なんですよね。日本人の考え方ではないんです。そういうふうに考えて、みんな同じだからいいんだというふうに思っていらっしゃるかどうか、ということもあるわけですけど。

 

戦争全体を見ますと、私は本当に、日本人というのはいかに無責任な民族であるかということをつくづくと痛感するわけです。これはその結果であるというふうに、この海没、これもみんな船の上で何もしないで敵の魚雷にぶつけられてやられて死んでいった人。こういう人たちの無念さというものを考えると、やはり責任者というものはいるんだし、その人たちは本当に責任を取るべきであるというふうに思うわけです。

 

 

船田:福田康夫官房長官(当時)が提唱された、靖国神社に代わる新たな追悼施設についての懇談会がございまして、それが途中で頓挫した。しかしながらその後、A級戦犯が分祀できるならば、それは靖国神社がやっておくべきという議員連盟ができております。その議員連盟に私も所属しているんですけれども、そこに半藤先生においでいただいて、今日に近いお話をされたということがあるわけです。そこで半藤先生と初めてお会いしました。

 

それから実は、私の祖父の船田中の妹、船田小常というのがおりまして、これが作新学院の経営をかなり担っていた者ですが、その夫が斎藤龍太郎という人物で、文藝春秋の初代の編集局長でありました。ですからそういった文藝春秋つながりというのがあるようです。

 

靖国問題で今日は先生から大変貴重なお話をいただきましたが、太平洋戦争あるいは大東亜戦争というのは、避けられたか避けられないかという議論がよくあります。私はいろいろ文献を探ったり、いろいろなことを聞かせていただきますと、多分、避けられなかったかもしれないと思っています。それはやはり、ABCD包囲網ということで、石油が禁輸される。もちろんその原因を作ったのは満州進出があったということもあるんですけれども、しかしながら、ABCD包囲網により、このままでは日本の備蓄の石油は半年、1年、あるいは2年ということでなくなってしまう、そういう状況を目の当たりにして、ここはやはり、抵抗していかねばいけない。そういうことで、戦争の口火が切られたんだと思っております。やはり避けられなかったのだと思います。

 

でも、その後がよくなかったと思います。それは、アッツ島の玉砕も戦争のかなり早い段階でございました。それから、ミッドウェーの海戦での思わぬ敗北、それからバターン半島の行軍を初めとして、先生が御指摘いただいたように、全く無謀な戦争を繰り広げてしまった。

 

私は、戦前も今もそうだと思うんですけれども、日本人あるいは日本の社会というのは、根拠のない楽観主義で覆い尽くされているのではないかとずっと思っております。まさに根拠のない楽観主義が軍隊の中でも、あるいは政府の中にもずっと存在していて、そのことで、先ほどお話になったような70パーセントも餓死をしてしまう、ロジスティクスが全く駄目であったということにもつながっていった。

 

あの無謀な戦争をやってしまった指揮者は誰か。天皇陛下という人もいるんですけれども、天皇陛下ご自身、実は御前会議や上奏の中においても、ほとんど厳しい戦争の状況を知らされていなかった。情報の空白を天皇陛下の周囲に作ってしまった。だから、最高司令官である天皇陛下が適切な御判断ができなかったと思います。やはり、東京裁判においてA級戦犯として名指しをされて処刑をされた人々のあの責任というのは、やはり消そうと思っても消えないものです。そういうA級戦犯がそのまま無批判に靖国神社に合祀されてしまったということ自体、これは私は大変、靖国にとりましても痛恨事だと思っております。

 

そのことによりいわれなき諸外国からの批判も受けなければいけない。あるいは天皇陛下御自身も参拝できませんし、また総理大臣も参拝ができないという状態を作ってしまった。このことは、私は大いに反省をしなければいけないし、是正をしなければいけないと思っております。

 

一つ、あえて申し上げますと、靖国神社そのものの佇まい、そして英霊を祀ることについては、大変、国を鎮めるという意味ではとても素晴らしい施設だと思っております。ただ、同じ敷地の中に遊就館という記念館がございます。私はまだ伺っておりません。しかし、行った多くの方々の御意見を聞きますと、あの太平洋戦争あるいは大東亜戦争を美化している。そういう記念館が同じ敷地の中にあるということであります。もちろんこれは国に殉じた英霊の方々が喜ぶであろうということで遊就館を作って、展示物を置いたのかもしれません。しかし先ほど来、半藤先生のお話を聞きますと、必ずしも喜んで国に殉じた、あるいは天皇陛下のために喜んで亡くなられた方というのは、あるいは多くなかったかもしれない。そういう方々が祀られている同じところに、あの戦争は正しかったんだという、施設を作るのはいかがなものか、私は、もう1回きちんと考えなければいけないなと思っています。

 

ちょっと言い過ぎたこともあるかもしれませんけれども、A級戦犯が不用意に祀られているという今の靖国神社の状況を、やはり日本国民として、外から言われたからどうこうということではなくて、我々が自らあの戦争は何だったのか、あの戦争は避けられたのか、あるいはあの戦争において、その必要以上に犠牲となってしまった人々に対して、我々はどう言い訳をするべきなのか。あるいはできないのか。そういったことをもう一度日本人自身の手で、あるいは日本人自身の頭で、反省し責任というものをきちんと考える。戦後60年になりましたから今さら遅いんですけれども、今からでも私は遅くないと思っております。そういう分析をきちんとする。そういったことが必要じゃないかなと思っています。

 

 

畑:ありがとうございました。トークも本当は、いろいろお話を伺いたいんですけれども、実際は、あと5分ちょっとしか時間がなくて、これで現在と未来を語るというのは無理な話かもしれません。

 

先ほど船田議員から“根拠のない楽観主義”という話がありましたが、まさに半藤先生の『昭和史』のあとがきも、同様の言葉で締めくくられています。「この戦争について、何とどこにも根拠がないのに、“大丈夫、勝てる”だの“大丈夫、アメリカは合意する”だのということを繰り返してきました。そしてその結果、まずくいったときの底知れぬ無責任です」という文章があって、またそれ以外にも、いかに歴史に学ぶべきかということを説かれて、例えば先生が、「国民的熱狂を作ってはいけない。マスコミに煽られて一旦燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ち始め、不動のもののように人々を引っ張って行き、流していきました」というようなこと。

 

あるいは「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な、理性的な方法論を全く検討しようとしない。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意だ」という言葉もあって、あともう一つ、「何かことが起きたときに、対処療法的なすぐに成果を求める短兵急な発想。その場、その場のごまかし的な方策で処理する。時間的、空間的な広い意味での大局観が全くない、複眼的な考え方がほとんど不在であった」と。これはもう読んでいると現代そのものにシンクロしてくるところがあって、非常に恐ろしい気がいたします。

 

昨今の政治・行政の姿を重ね合わせましても、先生ご指摘の「熱狂が全てを押し流していく」「非常に場当たり的である」「複眼的な考え方がない」など、いろいろ思い当たることがあると思います。こうした傾向は日本人の持って生まれた特性なのかもしれませんが、そうだとしたらどのように自制しコントロールして行けば、日本には未来が開けるのか。歴史に正しく学んだ上での未来への提言を、最後に頂戴できればと思います。

 

 

半藤:今、お話がありました熱狂的になりやすいという点、実はその前に何かあると、最近私は考えています。熱狂的になる前に日本人は、ある一つの「集団的催眠」にかかりやすいところがあるなということを言ったほうがいいんじゃないかと。そうしないと、単に熱狂というと、みんなワッショイ、ワッショイという形ではなくて、その前にみんなして同じような集団的催眠にかかってしまうという傾向がすごくないかなと。それを私たちはこれから十分に気を付け、注意しなきゃいけないなということを、最近思っています。

 

例は一つだけ挙げます。先ほど、船田先生がミッドウェー海戦の話をしました。ミッドウェー海戦に負けたのは、敵の機動部隊は出てこないと思いこんだからなんです。敵の機動部隊は出てくるはずがないと思った。それからまた、ガダルカナルと戦をやったときも、これは本格的反攻でないと。単なる偵察の攻撃であるとみんなが思い込んだから。それから、戦争の一番終わりのところの、ソ連の満州侵入、侵略。あれもソ連は出てこない、ソ連はまだ大丈夫、中立条約があるんだというふうにみんなが思い込んだんです。ああいう状況は戦争の間には山ほどあったんです、日本に。

 

戦争中だけかなと思ったんです、私は。ですから、あまり本で言わなかったんです。よく考えてみたら、戦後日本も随分集団的催眠にかかりました。一番すごい例が、松本サリン事件。松本サリン事件のときの河野さんが犯人だと日本人がほとんど思いました。あれはマスコミが全部思っていました。それから識者も思っていました。どんなに新しい状況が出てきて、証拠が出てきて、河野さんなんかあり得ないじゃないかという状況が出てきても、まだ河野さんだと思い込んでいました、みんな。あれを、私は考えたときに、まだ戦後の日本人も同じことだよと。案外パッと一つのことで思い込むと、みんなして催眠術にかかったようにそのことだけを信じてしまうという、そこから熱狂が出てくるんだというふうに言い直したほうがいいのではないかと今思う。

 

従って、将来の日本を考えるとき、私たちはできるだけ目を開いて、集団的催眠にかからないようにしましょうと。実にくだらない提言しか言えないことでございます。

 

 

船田:根拠のない楽観主義、あるいは無責任という日本人の気質が議論されましたが、さらに延長して考えますと、「公」というものの考え方。あるいは、「公」というものに対して、我々「個」が、あるいは「私」がどうするか。そういう観点が非常に薄れているという指摘があります。戦前は「公」が強すぎてしまったのかもしれないけど、戦後はその反動で「私」が全て勝ってしまって、「公」が非常に弱くなってしまったというふうに感じています。

 

今、憲法改正ということで、その前段階の国民投票法案の議論で、丁々発止、各政党間でやっております。これは、何とか早く決着を付けたいと思っている。その次に来るのが、実際に憲法の改正をどう中身でやっていくかという議論です。そこで私は、大変、もちろん9条のところも大事なんですけれども、実はもっと大事だと思っているのは、やはり国民の権利と義務というのを、もう1回きちんと何等かの基準に従って整理をする必要があるのではないかと思います。権利ばかり主張し義務を履行しないという状況が、戦後の憲法の中から出てきたということを言う人もいますけれどもやはり、かなり影響している部分もあると思っています。

 

これからの憲法をもし考えるとしたら、その「私」に対する「公」の考え方、決して戦前の滅私奉公という意味の「公」ではなくて、「公共の利益」というものを自然に考えられる、あるいはそういう行動を自然にできるような日本人になってもらうためにどうしたらいいか。そういうことを新しい憲法の中に含んでいくことを私はやっていきたいなと思っております。

 

例えば、国を守る責務であるとか、あるいは社会秩序を良好に保つ責務であるとか、個々のことを言うと、それぞれいろいろな問題が出てくると思いますが、要するに、公の心、パブリックマインドと、憲法の中に何か入れられないだろうかということを感じているわけなんです。そういうことを通じて、日本人の無責任という体制を、やはり憲法の上から、もちろん憲法だけで全てが治るとは思っていませんけれども、もし憲法を変えるのであれば、そういうことも入れた改正をぜひ私は考えていきたいと思います。

 

民主党の皆さんと話をしていると、憲法というのは、その国のその権力というものが個人を圧迫する。個人を規定してしまう。そういうことを避けるために、公をコントロールするのが憲法であるよと。それが近代憲法だと言っておりますけれども、その様相もあると思います。しかしもう一方で、私はこれからの憲法の姿というのは、やはり国と国民、あるいは公と私というものが一緒に共同作業でこの国をどうすればよくしていけるかなと。いい汗を流したり、一緒にものが考えられる。一緒に協力をしていく。そういう部分が、私はやはり新しい憲法の中にはないといけないのではないかと思っておりますので、そういう方向で、憲法の改正も含めて、この国の責任、あるいは公というものに対する国民の自然な対応が考えられるような、そういう憲法にしたいなと思っているんです。

 

 

畑:ありがとうございました。本当に時間が大変少なくて、申し訳ありませんでした。公の責任ということ、公に対する責任ということで、船田議員からまとめていただき、また半藤先生からは「集団催眠」にかからないようにというお話をいただきました。

 

私は、日本人が結果に対して責任をなぜ取れないのかと考えると、そもそも行動する時に日本人は自分自身の意志が希薄なのではないかなと思っています。ですから、やはり責任を取れる日本人となるためには、意志を持った行動を取れる人間になる必要があると思います。たしかにこれまで、日本はいい意味でも、悪い意味でも、あまり強い意志を持たないことで、何となく流されてうまくいった国かもしれません。ただ、これだけグローバル化が進展して、システムが西洋合理主義的になっている中で日本人が意志を持たずにいたら、本当にグズグズ、バラバラになって崩壊してしまう。いや今、まさに崩壊しかかっているのではないかと、そう危惧いたしております。

 

かのトインビーは、『人間とは歴史に学ばない生き物である』と言ったそうですが、これは逆説的な意味だと思っています。やはり、強い意志を持って人間というのは歴史に学ばなければいけないんだという思いを、今日、半藤先生のお話を伺って強くしました。どうかこれからも、執筆やご講演などを通じて、私たちに歴史からの正しい学び方を伝え教え続けていただきたいと思います。本日は、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

<画像出典:冒頭「毎日新聞」 文末「朝日新聞デジタル」>