明日12月8日、太平洋戦争開戦から80年という節目を私たちは迎えます。

 

その機にあたり改めて襟を正し、歴史に正しく学び、事実と教訓を後世に伝え続ける意志を明らかにするため、2006年5月12日に私の政策研究会で行われた“昭和の語り部”である半藤一利さんの講演とトークセッションの速記録を、SNSで公開させていただくこととしました。

 

『日本のいちばん長い日』『ノモンハンの夏』など昭和史に光をあてた作家である半藤一利さんは、“歴史探偵”と自らを称し、生涯をかけて“日本がなぜ無謀な戦争に突入してしまったのか”を研究し、今年1月に亡くなられるその日まで「非戦」を訴え続けました。

 

半藤さんのベストセラーである『昭和史』に感銘を受けて出講をお願いした際も、それまでに何も縁がなかった私からの講演依頼を二つ返事で快諾下さいました。今でもどうして引き受けてくださったのか謎のままです。

 

いつか半藤さんにもう一度お目にかかって、当時と比べすっかりきな臭くなってしまった日本や世界の動向をどのようにご覧になっているか伺いつつ、出講快諾の謎を解明したかったのですが、今ではそれも叶わぬこととなってしまいました。

 

「いつか・・・」などと手をこまねいている内に状況は加速度的に悪化し、やがて取り返しのつかない状態に至る、という歴史の常套を半藤さんの死であらためて思い知らされた気がします。

 

そんな自戒の念を込めて、今回、半藤さんが15年前に私たちにして下さったお話を、一人でも多くの方々にお伝えしたいと思いました。

 

 

せっかくの機会なので、私が半藤一利さんに講演をお願いする契機となった、『昭和史』の最終章に記された「昭和史20年(1926〜1945)の教訓」を抜粋させていただきます。

 

 

第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。

 

二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。

 

三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力をもち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。

 

そして四番目に・・・国際的常識を、日本人はまったく理解していなかったこと。簡単に言えば、国際社会のなかの日本の位置づけを客観的に把握していなかった、これまた常に主観的思考による独善に陥っていたのです。

 

さらに五番目として、何かことが起こった時に、対処療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史の中で次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない。複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした。

 

 

この文章を読んだ時、全身に走った戦慄を私は昨日のことのように思い出します。

 

(なんだ、これは!

そっくりそのまま、今の日本政府や日本社会、そして日本人が抱える問題点そのものではないか・・・)

 

激烈なショックに突き動かされるように私は、単なる一読者として半藤さんに講演依頼のお手紙を書き綴りました。

 

 

あれから15年。

 

この間に日本では、自民党から民主党へと政権交代が起き、その結果に懲りた国民は安倍長期政権およびその継承である菅政権を容認しました。

 

その結末として、今や「ジャパナイゼーション(日本化)」と言えば、賃金が上がらぬため購買力が上がらず経済が低迷するという“負のスパイラル”の代名詞になるほど、世界における日本の地位は凋落しました。

 

凋落は経済分野に限ったことではなく、デジタル化やEV(電気自動車)をはじめとした科学技術、財政状況や社会保障体制、教育や文化、環境保護や途上国支援など多くの分野において今やわが国は、もはや先進国とは言えないと世界から評されるに至っています。

 

幸運にして太平洋戦争のような戦争はまだ起きていませんが、様々な世界競争の中で明らかな“敗戦”を重ねている現状を日本人は直視し、半藤一利さんが遺した「教訓」を謙虚かつ真摯に受け止めて、大局的な世界観・地球観に立脚した具体的で理性的な改善案を策定し、速やかに実行すべき時に来ているのだと思います。

 

 

「ジャパン・ビジョン・フォーラム

         半藤一利氏 基調講演 速記録 

                                (2006.5.12)」

 

半藤でございます。私は、船田先生の御夫妻とは何のお付き合いはない人間でございます。ただ、船田先生のおじい様になるのでしょうか。船田中先生とは、私は文藝春秋のうんと若いときに一遍だけだと思いましたがお目にかかったことはございます。 ただそれだけの御縁でございますけれども、今日は畑さんから昭和史について話をせよということで参りました。

 

ただ、昭和史というと、不幸を話そうかといろいろ考えたのですが、今、話題になっております靖国神社という、あの神社はそもそも何であったかと。案外、日本の方は、日本人は知らないんですね、この靖国神社というのがどういう神社であったかということを。知らないで靖国問題を論じている方が多いということが最近つくづくと分かりまして、そこで御存じの方には常識的なことなのですが、知らない方には、そういう神社だったのかということが分かるかと思いますので、政治とは全く関係なしに文化的な、歴史的な意味だけで靖国神社というものをお話してみます。

 

もっとそもそもの話からやりますと、幕末になりまして尊王攘夷運動とか、あるいは尊王解放軍運動というのが始まって、坂本龍馬という人が標的ですが、脱藩をして、自分の藩の制約から出て自由な活動をしたと。そういう方々がたくさんいたわけです。これは、後に討幕運動になるわけですが、その人たちがいろいろなところで暗殺されたり、あるいは獄中に放り込まれて刑死したり、死刑に会う。死刑にされて死んだということがたくさん起きたわけです。

 

この方々、霊というもの、いったいどこに行ってしまったのかということがそもそもなんです。つまり簡単に言いますと、この方々の亡くなった、非業の死を遂げた方々は、国へ帰れないんです。脱藩者でございますから。従って脱藩者ですから、国へ帰れないのはもちろんですが、その家族の人たちもこの方の霊を納める、慰霊ということもできない。そこで、この方々の霊は全部空中をさまよっているというふうに考えるわけです。まだ明治維新が完成しない前の文久年間、1860年代ですが、その時代に、この人たちの霊というものを慰めなきゃいけないのではないかということが起こりまして、その1番初めが文久2年だそうですが、1862年12月に京都の東山霊山というところで、最初のこの方々だけでの霊を、そこでお祀りをするということが行われました。まだこれは幕府がギラギラと目を光らせているときに、あえてこれをおやりになったと。非常に危険を冒してやったわけです。

 

それからさらに、これより有益ということはないのですが、やはりこれはやらなきゃならない我々の仕事であるということで、さらに慰霊のお祀りと言いますか、魂鎮(たましず)めの祀りというふうに呼ぶのですが、その魂鎮めの祀りをまた京都の祇園社の中で行われるということがありまして、そういうことを何回かしているうちに、いつもそこにお祀りをして、この方々の霊を慰めようじゃないかとなりまして、慶応4年、その前くらいから、各地に「招魂社」というものが方々にできました。この招魂社というものが、長州とか薩摩とか、あるいは方々に、土佐とかっていろいろなところにできたわけですが、その招魂社ができまして、慶応4年にはもう15の招魂社があった。そこで、464柱の非業の死を遂げた志士たちの霊が慰められたというふうになります。

 

慶応4年というのは、御存じのように9月から明治元年になります。従って、明治元年になってみましたら、これがまた明治の時代が来ましたので、今度は大っぴらに招魂社ができるということで15だったものが23になったというふうに、日本の各地に招魂社が、大小の区別はあると思いますができまして、その招魂社を、明治政府が成立いたしまして、明治2年になってこれを全部集めて、国のために、新しい明治という国家を作るために献身的に働かれて、そして非業の死を遂げた方の霊を慰めることが、新しい国家としてはしなければならない大事なことであるということで、これを集めました。江戸が東京に変わったときに、招魂社を一つにまとめたものを東京のどこかに作ろうということに議案がまとまりまして、はじめは上野の山へ作ろうとしたらしいのですが、上野の山には例の彰義隊の戦死者がだいぶ出ておりますので、あそこは何かよろしくないというので、散々な議論ができまして、大村益次郎という当時の軍事総裁が今の靖国神社のある九段の丘を招魂社を建てる場所にしようじゃないかと。

 

これは日本的なんですが、日本文化の中には、非業の死を遂げた、あるいは獄死した人、戦死した人、刑死した人、こういう人たちの霊を厚く祀ることによって、その人たちの霊が今度は逆にしっかりとした守り本尊になって、そして国を守ってくれるという日本の文化的な考え方がありまして、それならばなおさらのこと集めてそれを九段の丘にしようと。九段の丘がなぜいいかというと、あれは戌亥(いぬい)の方向なんです。どこから見て戌亥かと簡単に言いますと、皇居から見て、宮城(きゅうじょう)から見て戌亥の方向なんです。後に東北、辰巳(たつみ)の方向が鬼門ということを言われるようになりました。あれは中国の思想なんです。日本古来の思想から言うと、戌亥のほうから悪い風が吹いてくると、悪鬼は戌亥の方向から押し寄せてくるというのが日本古来の考え方なんです。ですから、戌亥の方向、つまり靖国神社がそれにあたるわけです。九段の丘がそれにあたるわけですが、そこにとにかく東京招魂社と、今まで方々に散らばっている23以上の招魂社を集めまして一つにしようということで靖国神社が選ばれたわけです。

 

ここまでの話を聞くとお分かりの通り、守るべき本尊は、守るべき大事なものは何かというと皇居なんです。現在の皇居です。当時の宮城ですが。宮城を守ってもらうということなんです。要するに簡単に言いますと、天皇家というものを守る。そのために、戌亥の方向の九段の方向がよろしいということが考え方の根本にあるんです。

 

そこで、靖国神社の前身であるところの東京招魂社が明治2年6月28日に建設されまして、東京招魂社と名付けられました。ここには、鳥羽伏見の戦い以来、函館の戦までの約3千508柱の霊が鎮さいされまして、魂鎮めのお祀りが行われると、そして東京招魂社という形で明治の時代のスタートを切ったわけでございます。

 

当時の明治の作品なんかをよく見ますと、東京招魂社という名前がいつまでも残っておりまして、例えば川端康成さんは昭和の方ですが、あの方の小説『招魂祭一景』の中にも東京招魂社の名前はやたらに出てまいります。そこでやるお祭りといいますか、縁日といいますか、そこでは日本では当時は珍しかったサーカスが呼ばれたりして、非常に賑やかに行われていたというふうに、スタートを切ったわけでございます。

 

いよいよ明治国家がスタートいたしまして、明治国家の基本であるところの軍事という問題は、徴兵ということによって日本の国防というものを考えるということになったわけです。その徴兵制というのが、天皇の軍隊を作ると、天皇をお守りするための軍隊を作るということで徴兵制がしかれまして、その徴兵制のもとに国防問題も考えられてきたという状態が続いているときに、例の鹿児島の西郷隆盛を総大将とする反乱がおきまして、西南戦争という戦争が起きたわけでございます。このときに、薩摩の武士団、これは戦争の専門家ですが、戦争の専門家を相手に日本の新しく百姓の息子さんとか、あるいは漁師の息子さんとかで、いわゆる素人を集めた兵隊さんを、たくさん集めてきて兵隊に仕立て上げて、その軍隊が戦ったわけです。その軍隊が戦って、もしこれが負けたら明治国家は吹っ飛んでしまいますから、全力を挙げて戦ったと。そのときに戦死された方々の霊をいかにすべきかということが、当然のことながら議論になるわけでございます。これから、こういう国を守るために、もっと言えば天皇を守るために次から次へと戦死者が出るという可能性もこれからないではないというようなことから、東京招魂社に亡くなった方々をみんな魂鎮めとしてお祀りするには、東京招魂社と呼ぶのはおかしいという話が持ち上がりまして、同時に、軍隊というものを作るためには、軍隊の兵隊さんが「お前たちは亡くなっても、国はお前たちのことをしっかりと思っているんだ」ということを明示しなければ軍隊は真に強くなれないということから、戦死者をお祀りするものに相応しい神社を作ろうじゃないかというふうに考え方が変わりまして、明治12年、1879年6月4日別格官幣社の神社を作るということが決まった。

 

靖国という名前がそこへ付けられましたのは、同じ年明治12年6月25日でございます。この靖国の言葉は、『おおみくにをば やすくにをしらしめすごとく』という名前で、つまり大日本帝国をしっかりと守ってもらうために、ここに皆さんをお祀りするというのが靖国神社という命名であったわけでございます。

 

明治12年にできたということまでお話しますと、さてこれで靖国神社とはそもそも何だということが、簡単に言ってしまえば、天皇の軍隊の戦死者をお祀りするための神社であるというふうに規定できると思います。ですから、初めから天皇に弓を引いた人たちは、いわゆる幕末明治維新の賊軍は、一切祀られておりません。それから明治になりましてからの神風連の乱とか佐賀の乱とか、そういう乱があった。さらに、西南戦争だと。このときに向こう側に回ったひとたち、つまり天皇の軍隊に弓を引いた人たちや死んだ人たちは、これも祀られておりません。これは、天皇に弓を引いた人たちですから祀らないということです。

 

そこで面白いことができるんです。会津藩なんです。会津藩というのは、一つの藩として藩兵がいたわけですが、会津藩そのものは鳥羽・伏見の戦いの前、乾門の戦いのときには、あのとき長州が攻めてきたわけですから、長州が攻めてきたときに会津藩と桑名藩が一緒になって長州藩と戦いまして、それで長州藩を追っ払うわけですが、そのときの会津藩の死者は、国のために戦ったというので、靖国神社にお祀りされております。ところが明治維新の幕末の動乱、今度は逆に天皇の軍隊が会津に攻め入ってきまして、会津白虎隊とか、会津若松で城攻めがありまして、そのときに亡くなった会津藩の方は全部お祀りはされておりません。つまり、友達だった男が、一人は靖国神社に入っているが、こっちは入っていないということになるわけです。

 

それから幕末のとき、佐久間象山という名前の信州出身の方が非常に日本の国の将来を早く予見したような、どちらかと言うと、日本の国のためには非常にいい人だったんですが、この方は京都で殺されました。しかしながら祀られておりません。殺したほうは長州なんです。長州の侍さんが、「この国賊め」というので佐久間氏を殺したと。従って、長州に殺されたのですから、長州は官軍ですから、変な話ですが、佐久間象山は賊として、賊ではないんですけれども、これ本当はむしろ天皇家のための非常な哲学を考え出したのですが、駄目と。

 

ところが清河八郎というのがいます。これは御存じだと思いますが、新選組を作ったり、途中から尊王攘夷の魁となった方ですが、この方は、一の橋だったか、二の橋だったかのすぐそこで斬り殺されたのですが、斬ったほうが幕府の見回り組の佐々木辰三郎という男であったと。これは幕府側の人間に斬られたから、これは官軍側だというので清河はお祀りされていると。実に不思議なことが祭神の中に、靖国の神々の中に出てくるわけなのです。

 

この規則がずっと戦争が終わるまで靖国神社を支配しておりました。つまり靖国の祭神というのは、天皇の軍隊の戦死者。天皇に歯向かう人間は一切入れない。歯向かう形を見せた人は入れないという形。天皇の軍隊の戦死者ということだけに規定すると。他は入れないというふうにしたわけです。ところが、途中で都合が悪くなったんです。なぜかというと、吉田松陰とか、金子重之助とか、安政の大獄で斬られた人たち、これが入らないと。あの人たちは国のためによく尽くしたのではないだろうかということで、昭和10年代になりまして、こういう刑死者、獄死者も殉国の、国に殉じた人たちとして入れようじゃないかという話が決まりまして、この方たちも入るようになったんです。こういう形で、外側の人間は一切入らなくなってしまいました。それで、天皇の軍隊として戦死された人たちはみんな入ると。

 

そうなりますと、戦争がひどくなりましてから、天皇の軍隊じゃなくて亡くなった方、軍人ではなくて亡くなった方、その方たちはどうするのかとなりましたら、これは天皇の軍隊の戦死者ではないからいれないというので、入らないんです。ですから現在も、広島の原爆でなくなった方々はもちろん入っておりません。そういって思いましたら、最近の靖国神社の都合で、ひめゆりの塔の部隊の女学生さんたちはみんな入ったそうです。これは靖国神社の都合で入ってしまうんです。それで鉄血師範というのが沖縄にあるんですが、これは入らないと。それからまた、もちろん東京大空襲は駄目ですが、サイパン島でお亡くなりになった民間人は実際入らないと。つまりこういう形で靖国神社というのは現在あるわけです。

 

私、本当に思いますと、終戦の詔勅の中で、この詔勅というのは非常に、戦後日本をスタートさせるための考え方なのですが、あそこの中で親王は、詔勅の中ではっきりと言っているんです。『戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク』と。五内というのは内臓です。自分の体が裂けるようだと、昭和天皇は自らはそう言って、戦争で亡くなった方々全てにお詫びを申し上げ、かなりこの方々に対して悲しみの情を、誠を捧げられたわけなんです。

 

ところが、この『戰陣ニ死シ』、これは軍隊の戦死者ですからもちろん靖国神社に入っております。ところが『職域ニ殉シ』、これはどういう方かというと、船員さん、あるいは兵隊さんではなくて徴用で引っ張ってこられた床屋さんとか。軍艦には床屋さんとか乗っていますからそういう人たち。あるいは鉄道の技師さんという方々が、空襲とか何か、あるいは船が沈んで死んだ方々は、実際、靖国神社は入れてもらえないんです。天皇の軍隊ではないから。ひめゆりに倒れた人たち。これはさっきも申しました原爆で死んだ人たち、東京大空襲で死んだ人たち、これは本当に非業の死と言いますか、死ななくてもいいのに死ななきゃならなかった人であるわけです。こういう人たちも残念ながら天皇の軍隊でないから、靖国神社にはお祀りできないというふうになるんです。

 

私は本当に、基本的に考えますと、こういう方々を全部お祀りしなければ、本当にこの方々の霊はどこに浮いているのかと、浮遊しているのかということをいつも思うんです。私も3月10日の東京大空襲で死ぬところだったんです。まさに九死に一生でうまく救われたのですが、もしかしたらあそこで死んでいれば、私の魂も多分この辺に浮いていて、「おい、俺をどうしてくれるんだ」と言っているのではないかと思うわけです。

 

つまり、靖国神社の問題というのは、私たちの問題だと思うんです。中国がどう言った、韓国がどう言ったということ以前に、私たち自身がこの大きな戦争で亡くなった方に対して、どういう思いでこの人たちに対して魂を鎮めるということを、つまり鎮魂ということですが、私たちが考えなければいけないと思うのです。そのことを全然抜きにして、考えもしないで、天皇の軍隊の慰藉だけを祀っている靖国神社というものを、ますますこれを大事にして考えるようなことであっては、変な話ですが、これからまた日本の国のために死ぬ人が出てくると。出てくる可能性があるから、今のうちに靖国神社を奉っておこうじゃないかというような考え方が後ろにあるのでは、とてもじゃないが靖国神社というのは、霊の方、本当に入っている方々も喜ばないのではないのだろうかというふうに私は思うわけです。

 

理屈はこんなことでやめておきますが、ここでちょっと面白い話を靖国神社についてしておきます。戦争中に中国大陸でものすごく勇猛であった戦車隊長に、第三機動戦車隊というのがありまして、その連隊長が吉松義三という大佐でした。この方が中国でも戦いまして、そしてあるとき大怪我をいたしまして病院に入った。病院に入ってウンウンと唸っていたら、非常にきれいな歌声が聞こえると。「何だろう、あの歌声は」と毎日のように思っていたそうです。それで、動けるようになったので動いて行って窓からのぞいてみたら、隣にキリストのあれがありまして、そこでオルガンを弾いて讃美歌を歌っていたと。それを見ながらその隊長は、「戦争ばかり俺たちはしてきたが、こういう美しい平和な風景というのが世の中にもあるのか」と言って眺めているうちに、とても庭の緑が美しく映ったんだそうです。そこで、その吉松さんは、「よし、分かった。これは、この戦場では殺し合いをしているが、いずれ平和が来る。平和が来たときに、日本人がただ単に殺し合うだけの民族ではないということをちゃんと示しておく必要があるだろう」とお考えになったそうです。

 

そこで元気になりましたときに、また前線に返ったときに、参謀本部に依頼の手紙を書きました。「植木の苗木を送ってくれ。かまわん、何でもいいから送ってくれ」ということを言った。参謀本部のほうも驚いたそうですが、何をするのか分からないがとにかく第三機動連隊に届けた。その植木を戦車の後ろにくっ付けまして、乗せまして、また戦争を開始いたしました。戦争が終わって、占領がすると、そこに苗木を植えたそうです。中国の砂漠のような土地で、植木が育つかどうか分からなかったんですが、とにかく第三連隊の兵隊さんたちは、戦争が終わって、一遍終わる、中国軍が逃げて行ってしまうと、そこを占領すると。すぐに百姓になりまして、みんなが植木を植えてきたと。だいたい北中国のほうなんですけれども。そしてどんどん植えていったと。いつか、木を植える植樹部隊として有名になったそうです。

 

戦争が終わりまして、全部日本兵は捕虜収容所に入れられました。北の中国のほうですから、国府軍ではなくて中京軍がこれを管理していたそうです。その中京軍から命令が出まして、その植樹部隊の人たちは全部外へ出てこいと、出されて、何をするのかと思ったら、また植木を植える作業をしたそうです。かなりの植木を植えまして、やがて日本に帰ってきた。

 

吉松連隊長は日本に帰ってきて、あのときの私たちのやったことは残っていないんだろうなと思ったそうです。そこで、今度は日本の番だと。日本の人たちのためにというので、靖国神社のイチョウの木がたくさん生えていますが、銀杏をとりまして、その銀杏を靖国神社の隅のほうの一角を借りまして、そこに畑を作りまして、銀杏をまいて、銀杏の苗を育てるということを始めたんです。家族の方もそうです。何の一銭にもならない仕事を一人で始めた。コツコツと。靖国神社のほうも何をしたのか分かりませんが、当時の靖国神社は瓦礫の山だったそうです。その瓦礫を全部取り除きまして、そしてそこに畑を作りまして、銀杏の苗を植える。苗がこれくらいになりますと、それをきれいに大切に包んで、参道に置きまして、こんな小さな荷車の上にその苗木を植えまして、遺族の方に、どうぞただでお持ちくださいと。そして、自分のお庭でもどこでもいいから植えてやってくださいと。つまり靖国神社の木ですと。ということで、ただでお分けしていた。それが非常に喜ばれたという話なんです。

 

私は実は、文藝春秋でこの話を聞きまして、すごく面白い話だというので靖国神社に飛んで行きまして、隅の吉松隊長、当時60歳近かったと思いますが、一人で百姓をやっておりましたが、その話を伺いました。ザッとした今のようなお話を伺ったわけです。それで、隊長が言うわけです。「靖国神社の字をよく見たら、青を立てると書いてあるんだよね。つまり、青を立てる。緑を中国の大地にも植えたけど、緑を植えるということが平和のことだと。青を立てる。それが国をやすんずることなんだということを僕はやっと分かったんだよ」というようなことをお話になっていました。私たちは、彼を靖国神社の「緑の隊長」と呼ぶことにいたしまして、僕もちょいちょい吉松さんのところへ伺っては話を聞いたり、こっちからしたりいたしました。やがて亡くなりました。

 

現在も靖国神社の参道へ行かれますと、左側に無人の、今度は大きくなっていましたけど、このくらいの大きな小屋になっておりました。そこで靖国神社の苗木を、これは銀杏だけではなくていろいろな苗木が置いてあります。どうぞお持ちくださいと。ただし、500円払ってくださいと書いてありました。昔はただだったんですけど、最近は500円取るのですが、いずれにしろ、その吉松さんの志はそのまま靖国神社に残ったと。そして現在でも、私もお参りに行ったときに見てきましたので、一苗だけ500円で買ってまいりましたけども、緑を立てる、これが靖国であるというその精神というのは生きているのだなということをしみじみ思った次第です。

 

つまり靖国神社ということを考えると、先ほど畑先生が誰でもがお参りできる。それこそ天皇陛下も総理大臣も誰でも。誰でもお参りできるような、本当にいい場所にしたいというお話がありました。私はそれはその通りだと思います。それならば、みんな入れてくださいと。つまり、終戦の詔勅にあるように、戦陣に死んだ人だけではなくて、職域に殉じ、あるいは非命の死を遂げた人たち、この人たちの全部を入れてください。言うなれば、もっと大きく言えば、日本の国のために、賊軍といえども本気で日本の国のためだと思いますが、この人たちだって入れてあげてくださいというふうに思うんです。そうではなくて、靖国神社の都合と言いますか、靖国神社のどういう哲学か知りませんというよりも、その前に言わなきゃならないことは、靖国神社は、戦後非常に苦労しました。ものすごく苦労したんです。これは私もよく知っているんです。国家からも離れましたから、自分たちだけで生きていかなければならないということで、ものすごく苦労しました。昔、皆さん、お年の方は御存じと思いますが、私も子どもの頃によく、英霊が外地から帰って来られると。そしてその英霊を靖国神社に納めるために、ある段を作りまして、そこにみんな英霊を集めて祝詞を挙げて、靖国神社にお祀りするという大儀式をやることがちょいちょいあったわけです。それがラジオで厳かに放送されたんです。

 

そこの場所、昔そこでそういう魂鎮めの祭礼が行われて、靖国神社の大事なお祀りをした場所が、現在は貸し自動車の、ああいうのになっているんです。これは皆さん、経営していくためにそうせざるを得なかったかと思います。そこでその大事な神様がお集りになって、そこから英霊がお集りになって、そこから靖国神社にお祀りされるというその儀式をやる場所が、貸し自動車の場所になっている。端のほうに、お義理的に鳥居が立っておりました。この鳥居だって、義理として立っているような鳥居でございましたけど、つまりそれくらい苦労されたことは私も分かるんです。靖国神社がものすごく経営のためといいますか、維持するために苦労されたと。今もお話しました、緑の隊長が苗木を植えている場所なんかは、本当に端のほうでしたし、だからああいう姿を見ていると、苦労は分かる。苦労は分かるのですが、だからといって、いつまでも戦争前の天皇の軍隊の戦死者しか祀らないと、こういう態度でいるということ自体は、靖国神社にやはりもう一遍、ちゃんとお考えいただきたいと。日本人全体のためにお考えいただきたいと靖国神社にお願いしたいのです。二度くらい私はお願いに行ったのですが、駄目なんです。「そういうことはできません」とはっきり断られた。でも、私たち日本人がみんなそれを願うとなれば、話が違うのではないかと思うのですが、そうはいかないようでございます。

 

私が言いたいのは、中国がどうの、韓国がどうのという、その外から何とかの前に、私たち日本人が靖国神社を本当にどういう姿、どういう性質、どういう神社であるべきだということを、私たちがしっかりと考えなければ、私たちが揉めている問題は永遠に解決しないのではないか、ということを一言だけ申し上げたいと思います。

 

 

 〈後編 (トークセッション編)〉 につづく・・・

  

 

 

<画像出典:PRTIMES>