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米国のプロバスケットボールリーグ「NBA」の公式戦でこれまでにプレーした日本人はわずか3人。

 

その第一号が、日本バスケ界のレジェンド

田臥勇太選手だ。

 

現在、田臥選手がキャプテンをつとめる「宇都宮ブレックス」とのご縁で、この8月、作新学院にて対談する機会をいただいた。

 

その類い稀なる“しなやかな強さ”、すなわちレジリエンスはどこから生まれ、どのように進化し続けているのか。

 

誰よりもバスケの神に愛された天才・田臥勇太選手の、壮絶なまでに深いその“バスケ愛”に迫る。

 

 

 

 

息詰まるほどのストイックさ。

何一つ拒まぬ底無しの包容力。

それが、圧倒的オーラを生む

 

 

畑:今日は短いオフシーズンの間隙を縫って学院までお越し下さって、本当にありがとうございます。先日はBリーグでの準優勝おめでとうございました。コロナ禍の中、勇気と元気を沢山いただきました。

 

田臥:応援ありがとうございました。

 

畑:田臥選手は、能代工業高校で3冠(高校総体、国体、全国高校選抜)×3年の9冠という「リアル・スラムダンク」を達成され、世界ジュニア選手権大会にも初の日本人として出場。そして、日本人初のNBAのプレイヤーになられた。NBAでプレーした選手はまだ日本人に3人しかいないわけで、今日は作新に“神降臨”という気分です。

 

田臥:神だなんてとんでもない。僕を街中で見かけた人は、結構いるんじゃないですか?

 

畑:実を言うと、私も宇都宮駅の新幹線ホームでお見かけしまして。黒っぽいジャケット姿で、アーティスティックなオーラを放つ方が向こうからやって来るなぁと思ったら、同じベンチの端に座られたんです。すると何かとてつもなく穏やかで、澄み切った“氣”に包まれているような感覚になり、それが田臥選手でした。

 

田臥:えっ、それが僕だったんですか?最初の印象が悪くなくてよかったです(笑)。

 

畑:田臥選手をきっかけにバスケを観るようになって、やっぱりトップ・オブ・トップの選手というのは、そこにいるだけで“場を支配する力”を持つと実感しました。「モーゼの十戒」のように、ゴールまでの道が自ずとその人の前には開かれる圧倒的な存在感、特別な力がある。どのようにして、そういう力というかオーラが形成されて行くのか知りたくて、田臥選手に直接お話を伺いたいと思いました。

 

田臥:他のメンバーをいかに活かせるかというポジションなので、自分というよりはどれだけ周りの選手が活き活きできるか、それによってチームが勝つことを目指しています。プレー中もベンチにいる時もベストを尽くせることを探しながらやって来たら、40歳になりました(笑)。

 

畑:ただバスケ、特にNBAのバスケなどは、どれだけ相手に切り込んでいってボールを奪うか、強い自己主張を求められると思うのですが、少し引いた立場から全体を回していくこととのバランスは、どのように取るんでしょう?

 

田臥:いかに自分を出すか、表現するかということを、アメリカで学べたのは大きかったですね。やっぱり生き残りがかかってますから、アピールしないといけない。そうした中で自分を出すということの種類が、やはり経験を積んでいく中で増えていくんだなぁと感じています。

 

畑:自分を出す種類が増えるというのは、どういうことでしょうか?

 

田臥:アメリカに行った20代前半のときは、(身体的に)持っている武器が小さい分、スピードやより技術的なものがメインでした。では、それらが通用しなくなった時に何で対抗すればいいのか。技術を磨き技を増やすのは当然ですが、それ以外の面ですね。

 

畑:たとえば人が嫌がることを率先してやるとか、泥臭いところで勝負をするとか、そういうことでしょうか?

 

田臥:それは今でも大事にしています。転がっているボールは絶対に負けたくない。それは引退するまで思い続けると思います。引退してもサボっている選手を見ると僕は許せないほど、ルーズボールにはこだわっています。それが生きる道だと思っていますし、小さい積み重ねを集中力を切らさずに研ぎ澄まし、一本でも多くできるようになりたい。その気持ちを常に忘れないようにという思いが、バスケ人生でどんどん増して行ってます。

 

畑:40歳を超えてその気持ちが増して行くって、凄いことですね!

 

田臥:たとえば大きい選手はドリブル1個で済ますものを、僕はドリブル2つつくとか、逆につく前に1個前のアクションをちょっと中に入って、後ろにいるとか、そういう相手ができないようなこと、嫌がることを常に考えて動くようにしています。そういう小さいことをやっていくことが多くなって、それが楽しさになっています。

 

畑:年齢とともにできない課題が増えて来ると、それをクリアしようと工夫して、自分が成長できるということでしょうか?

 

田臥:選手生活が長くなるほど感じるんですが、できないことがあるのが“楽しい”というか…うまくいかなかったら、次はこうしてみようとか、微調整を常に毎日考えているのが楽しいので、多分続けられているのだと思います。

 

 

 

幼い頃からのNBAへの憧れ。

8歳から揺らぐことない

バスケで生きる!という覚悟

 

 

畑:やはり桁違いの努力家というか、ルーズな私から見るともはや“神の領域”という感じがします。たしかお小さい頃からNBAを目指していたと。

 

田臥:純粋にNBAというものが小さいころからの憧れで、チャレンジしてみたいという思いが、一歩踏み出すきっかけになったのかなと思います。

 

畑:最初は、お父様が録画したNBAの映像を観てらしたそうですね。お母様もバスケ選手と伺っていますが。

 

田臥:はい。バスケットをやっていない父がなぜかNBAのテレビ録画をしてくれて、当時それを毎日のように同じ試合を繰り返し、繰り返し観ていました。

 

畑:なぜNBAにそんなに惹かれたんでしょう。日本のバスケではなくNBAだったんですよね。

 

田臥:プレーのかっこ良さとか、とにかく見たことないプレーだったので。あとは会場の雰囲気というか、アメリカの空気感がテレビから伝わってきました。日本で観ていたバスケットとは全然違うという衝撃を、小さいながら受けたのではないかと思います。

 

畑:最初にバスケットをした8歳の時から、NBAという目標があったんですか?

 

田臥:憧れとしてですが、常に頭にはありました。そこは揺るがなかったですね。

 

畑:プロバスケの選手になるだけでも夢のような話なのに、日本人のNBA選手なんて夢のまた夢ですよね。

 

田臥:僕もすごく覚えてるんですが、バスケットを始めて絶対に将来バスケット選手になるという思いは揺るぎませんでした。最初にやった時からです。絶対にプロ選手になる、これを仕事にしたい、ずっとやり続けたいという思いは確固たるものでした。誰に言われたわけでもなく、自分の中ですでに決めていました。

 

畑:やれる、という確信があったのですか?

 

田臥:やれるというより、やりたいでした。試合で負けたりしましたが、それでもやりたい。悔しい思いをすれば、絶対にやり返したいと思いました。目標を設定してそれに向かってやっていくこと、仲間たちと一緒に練習することの楽しさを、小さいながら感じていました。

 

畑:個人種目なら自分の頑張り次第かもしれませんが、チームプレーで歴史を塗り替えていくことができたのは、やっぱり田臥選手がそういう星を持っていたからでしょうか?

 

田臥:いやいや、もうそこは本当に仲間に恵まれました。中学校のときも最終的に全国3位まで行けましたが、同学年のメンバーはみな中学からバスケットを始めたくらいの素人の集まりでした。

 

畑:えーっ、それでそんなに強くなって?

 

田臥:そうなんです。みんなが練習を頑張ってくれて、顧問の先生も一生懸命熱心に教えてくれて。中学校のときは好きなようにやらせてくれました。確か関東大会の準決勝か決勝前かな?大事な試合だったのですが「NBAみたいなプレーをやって来い」と。

 

畑:そう言ってくれたのが、田臥少年にパトリック・ユーイング(当時のNBAスター選手)とのCM共演を勧めてくれた伊藤先生ですね。

 

田臥:そうです。そういう先生がいたり、本当に周囲に恵まれました。

 

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すべてがつながってこそバスケ。

天才的な“つなげる”力の源泉は

その驚異的な「脳」にあった

 

 

畑:でもそれは、やっぱり田臥選手ご本人がそういう空気感を作り、運や縁を引き寄せるのだと思います。あの名門・能代工業高校で1年生からレギュラーだったわけですが、普通は上下関係とかなかなか難しいですよね。

 

田臥:それに関しては、本当に先輩たちに感謝の気持ちでいっぱいですね。そういう3年生がいてくれたからこそ、自分が試合に出してもらうからには、3年生たちの分まで一生懸命やるのは当然だと思っていました。

 

畑:やっぱり、誰よりも練習している選手だったんですか?

 

田臥:手を抜いたりとかっていうのはしたくなかったです。その辺はたぶん真面目だったと思います。キャプテンという立場でもあったし、試合に出ているという立場でもあったので、そういう意識が自然とありました。練習するのも楽しみだったし、バスケットをやること自体が楽しかったので……。小学校からずっと続けてきてそうなんですが、練習をしたくないと思う日は一度もありませんでした。

 

畑:子どものころにバスケを始めたときから、もうずっとバスケが一度も嫌だとか、練習したくないっていうことがないのですね?

 

田臥:ないですね。親からも「やりなさい」と言われたり、「練習しなさい」と言われたことも一度もありません。秋田県だったので冬は本当に辛くて…。元々は横浜出身ですからね。言葉もわからなかったですし、いろいろとありました(笑)。そういった大変な中でも、仲間たちと一生懸命頑張って支え合っていました。

 

畑:難しいなというタイプの人とは、どうやってコミュニケーションをなさるんですか。米国ではかなり個性的で自己主張の強い選手とも同じチームでプレーされたようですが。

 

田臥:相手と議論して考え方を変えさせるより、自分が相手のためにやれることは何かを考えます。たとえば、どうしたら振り返ってもらえるか、興味を持って一歩踏み出してもらえるかを考えることが大切だと思います。自分の考えだけで押し通してやっていくと当然通用しないこともあるし、チームの味方もいて相手もいて、ベンチにはコーチ陣がいてスタッフ陣がいて、周りには支えてくれるファンがいる。

僕はそれ全部がバスケットだと思っています。全部がつながっている。その中で自分がしっかりとコントロールできることを、常に考えなければならないと思っています。

 

畑:すごく深い言葉ですね。私は『Never Too Late』という田臥選手の留学時代の御著書を読ませていただいて、とにかくものすごい記憶力と観察力、そして俯瞰で見る力に驚かされました。まるでルポライターが留学中の田臥選手につきっきりで、ビデオも回し続けて書いたとしか思えない、描写の細かさと文章の巧さに舌を巻きました。

 

田臥:そうですか(笑)。結構、僕は1回パッとみると、見たことが全部(映像のまま)頭の中に残るんです。その感覚がパスに活きているのではないかと思います。いや、そんなこと指摘されたのは初めてだなぁ(笑)。

 

畑:科学番組か何かで、天才プレーヤーの脳をぜひ解明してもらうべきですよ(笑)。先ほど、全部がつながっているというお話をなさいましたが、田臥選手の場合、すべての風景が脳裏にくっきりとイメージされた中で、自分がどう動いたら周りはどう展開して、どういう風に世の中が動いていくかをシミュレーションしていらっしゃるのだと思います。だからすごく偉大な一言だなと思っています。

 

田臥:全然そんな大したことないですが、本当にいろいろな人に支えてもらったりだとか、やはり経験を積んだからでしょう。

 

 

 

〈後編〉へつづく…

 

 

 

<画像出典>

(※1:©️TOCHIGI BREX INC.)

(※2:©️月間バスケットボール)