ワクチンを遥かに超える真の特効薬を、私たちは持ち合わせている。

それは「主体性」である。


今コロナ危機は、日本に潜在している様々な危機を露呈させている。

ワクチン確保や国産ワクチン開発の遅れをはじめとした感染症対策の脆弱性、あらゆる分野におけるデジタル化の遅れ、コロナ患者受け入れが進まない硬直化した医療体制etc.・・・

戦略性を欠いた各施策における著しい遅滞や混乱がなぜ起き、なぜ一向に改善されないのか?

その根本原因は、政策立案・実行の中枢にある政治家や官僚の「主体性」の欠如に他ならないと、私は思う。

この危機的現状を打破し改善して行く主体は他の誰でもない、自分自身なのだという自覚や矜持が決定的に欠落しているのではないかとすら思う。

その証拠に、重要な決断が迫られるシーンになると、この国の主導的立場にある者たちは必ず判で押したかの如く「専門家のご意見をよく聞いて・・・」「専門家の先生方のご見解に従って・・・」とスルリと身をかわす。

この言い回しは、トップとしての責任回避、専門家集団への責任転嫁に他ならない。

現に、その決断によって多額の血税が投入され、国民が多大な犠牲を払ったにもかかわらず、それに見合うだけの結果が得られなかった際も、この国の中枢を担う者たちは誰も責任を取らない。

もちろん専門家の意見にはよく耳を傾けるべきだが、最終的な意思決定者とは最も強大な権限を有するその組織のトップであり、最終意思決定者はその決定に対し最終責任を負わねばならない。

「権力」と「責任」は、常に表裏一体でなければ組織は正しく機能しない。

つまり、もし自らの最終意思決定が間違っていて、投入した資金や関係者に払わせた犠牲に釣り合うだけの結果が得られない場合は、職を辞するという覚悟が常になければ、組織のトップは務まらない。

ささやかな総合学園の理事長を務める自分でさえこのコロナ禍、お預かりしているすべての子どもたちの教育と、本学教職員およびその家族の生活をなんとしても守り切るため、重要な決断を行うにあたり、もしこの決断によって望ましい結果がもたらされなければ職を辞すという覚悟で事に当たっている。

トップの不退転の決意が人の心に火をつけ、目的達成に向け主体的に行動することを促し、望ましい結果を引き寄せる。

逆もまた真なりで、権限だけを掌握しておいて責任を取ろうとしないリーダーの下で、人は主体的には動かない。
 

誰かの指示に従い受動的に動いていると、指示した者の顔色ばかりを伺うこととなり、課題解決に向け自身で考察し判断することができないため、望ましい結果はもたらされない。

 

幹部人事権という最も重要な権限を官邸に掌握(=内閣人事局に一元化)され、主体的な業務の遂行が制限されて以来、霞ヶ関の士気やパフォーマンスの落ち込み、一部官僚たちの責任感や矜持の低下は著しく、この間に日本は多くの分野で国際的競争力を失い、国民の安全・安心な暮らしすらまともに維持できなくなりつつある。

 


日本の元凶と言える「主体性の欠如」。

それは、国の中枢を担う者だけを責めて解決する問題ではなく、日本国民全員が問われるべき課題だ。

どのように改善をはかれば良いのか、それは突き詰めれば「教育」の問題となる。

少なくともコロナは市井に生きる私たち一人ひとりが、マスクなどで飛沫感染を防ぎ、こまめに手洗い・消毒を行うなど主体性をもって予防に取り組めば、必ず乗り越えられる。

しかしそれができないから、不条理で悲劇的な一律活動停止を余儀なくされ、人々の暮らしや国の未来が加速度的に危機に晒されて行く。
 


実はこの構図が当てはまるのは、日本だけではなく、コロナ対策だけでもない。

危機に瀕する地球環境、世界平和、経済格差など、すべての課題が同様の本質的な問題を抱えている。

人類一人ひとりに「主体性」を涵養することこそが世界的課題克服への特効薬であり、すべての危機を乗り越える上での万能薬でもあるのだ。