(画像:アフロスポーツ)

 

「君子不器(君子は器にあらず)」。

 

『論語』に記されたこの言葉の如く、トップアスリートとは単に運動能力に長けた器具ではなく、自らの意志を持って行動し社会を正す存在であることを、世に示しているのは大坂なおみ選手ばかりではない。

 

リオ五輪金メダリストの萩野公介選手も、その一人だ。

 

萩野選手は東京五輪組織委員会の森喜朗前会長による一連の発言について、音声配信サービスを通じて次のようなメッセージを発信した。

 

僕は今回の発言を女性蔑視だととらえるし、そういう発言をする思考回路に行き着くことが信じられない。

 

アスリートの1人として、非常に残念。

 

森発言をめぐっては、日本が五輪開催国としての適性を世界から疑われかねないほど由々しき事態であったにもかかわらず、国内のアスリート、特に現役のトップアスリートからの発言は、あまり聞こえて来なかった。

 

それだけ森前会長のスポーツ界への影響力が絶大であるとともに、こうした事態に遭遇した時に良心に照らして行動することを良しとせず、大勢に従って沈黙を守ることを旨とする、厳然たる「常識」が、この国にはいまだ蔓延っているからだ。

 

にもかかわらず、萩野選手は発言した。

 

しかも、きわめてクリアに。

 

その背景には、彼が抱くスポーツへの熱い想いがあった。

 

スポーツの「価値」について、萩野選手は次のように話している。

 

いま東京大会がコロナによって揺れ動いているが、アスリートが一番スポーツの価値を考えて行かなくてはいけないと思っている。

 

ただ速く泳ぐだけ、ただ速く走るだけ、ただ競技がうまいだけでは、スポーツの価値は今後高まって行かないと思う。

 

アスリートである前に一人の人間であり、何が良いことで何が悪いことなのか、たくさん考えて、そういう話をすることが大事で、以前よりも求められていると思う。

 

 

 

トップアスリートは、競技者である前に人格者でなければならないー

 

その事を私に教えてくれたのは、ロンドン五輪で56年ぶりの高校生銅メダリストとなった、当時17歳の萩野選手だった。

 

私が理事長を務める作新学院の中等部・高等学校で6年間を過ごした彼とは、学院の広報誌で何度か対談する機会に恵まれたが、その際に萩野選手が話していたのが、勝者に相応しい「人格」についてだった。

 

萩野選手の少年時代、競泳界には「金メダルコレクター」の異名をとり、オリンピックメダル獲得数史上1位の金字塔を打ち立てた、米国のマイケル・フェルプス選手がいた。

 

萩野選手は憧れのフェルプス選手と、ロンドン五輪以前にも国際大会で競い合い、ともに表彰台に立っていた。

 

そうした際、フェルプス選手はじめ各国のトップスイマーたちは、自分より10歳以上も年下の萩野選手を温かく迎え入れハグし、心から讃えてくれたそうだ。

 

トップアスリートとは、単に競技でトップの記録を出すだけでなく、人格的にも模範となるような存在でなくてはならないという萩野選手の「信念」は、このように世界の名選手たちと切磋琢磨する中で培われた。

 

 

(画像:アフロスポーツ)

 

思わぬ事故によって負傷しながらもリオ五輪では金・銀・銅と3つのメダルを獲得、しかしその後は肘の不調に苦しみ幾度も手術を重ね、大きなスランプを経験した萩野選手。

 

栄光も挫折も、全てを成長の糧として真っ直ぐに進み続ける一人のアスリートが、この国の明日、そしてこの世界の未来を拓くことを期待して止まない。

 

(画像:時事通信)