《志は「匪石之心」で立てるもの》

 

「志」という言葉をどのように解釈するかにもよるんでしょうが、将来こんなふうになりたいなぁ、なれたらいいなぁと漠然と抱く夢や目標と「志」は明らかに違う、と私は思います。

 

志とは「匪石之心(ひせきのこころ)」で立てるもの。

 

「匪石之心」とは、自分の信念を堅く守り、決して揺らぐことのない心のことです。

 

(またもや余談ですが、この言葉の出典は四書五経の一つ『詩経』の「柏舟」。

 

かなり高尚であまり見かけない四文字熟語ですが、『鬼滅の刃』第20巻のタイトルにも使われています。

 

先日も私のSNSで、『鬼滅の刃』の登場人物・我妻善逸のセリフ「自分がされて嫌なことは、人にしちゃいけない」と、フランスの啓蒙思想家・ヴォルテールの『寛容論』の一節が瓜二つという話を紹介しましたが、実はあのセリフ、『論語」の「 己の欲せざる所は人に施す勿れ」そのものなんですよね。

 

事ほど左様に、『鬼滅の刃』は古今東西の古典に匹敵する名著中の名著であり、しかも老若男女(と言うか幼い子まで)とにかく分かりやすく真っ直ぐに心に落ちるので、今すぐにでも「道徳」の教材に指定して全国の児童・生徒全員に読ませるべきと、本気で思っています。

 

もっと言えば、『鬼滅の刃』がコミックやアニメ、映画という形で全世界の人々に届き共感の輪が広がって行けば、人類あまねく「自律的利他主義」が心に育って、必ずや世界平和が実現する。

 

『鬼滅の刃』こそ、この分断と混沌の現世を救うため出現した、人類共通の教典であるとすら思っています。

 

ちょっと熱くなり過ぎて、また脱線してしまいました、スミマセン🙇‍)

 

そんな匪石之心をもって立てるべき「志」を、「さぁ君たちも数えで15になったんだから立てましょう」というのは、あまりに酷と言うべきか、はたまた志という言葉を至極軽くとらえているのかどちらかに思えて、釈然としない思いに駆られるのです。

 

正直な話、よほど特別な才能を与えられたか、特殊な経験をした子でなければ、中学時代に「志」を立てるのは、なかなか難しいのではないかと思います。

 

昔の人たちは結婚や自立の年齢も現代とは比べものにならないほど早かったですし、貧困や病そして戦乱といった中、生きて行くだけでも壮絶な苦難の連続だったでしょうから、数え15という若さでも、自らの信念に基づき決して揺らぐことのない心で、己の将来について思い定めることができたことでしょう。

 

けれど、やっと来年4月から成年年齢が18歳に引き下げられるといった現代日本で、いきなり志を立てさせるというのは、どうなのでしょう。

 

 

それでもやっぱり、人は15歳で志を立てるものなのかしら・・・とツラツラ考えていたところ、思い出しました💡

 

次の『論語』の一節。

 

「子曰、 吾十有五にして学に志す」

 

  (その4につづく・・・)