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『○○ボウの横暴』
昨日、こんな事件がありました。
突然、電話がなりました。
当社の菅君が対応しています。
菅『なんで、アマゾンの商品を取り下げなければならないのですが。わかりません。』
○○ボウの担当者松枝君『アマゾンは○○ボウの取引先なんです。そこで安売りされるとこまるのです。商品を取り下げてください。』
菅『アマゾンが御社の取引先だなんて、知りませんよ。』
菅『第一、当社が家賃払って、仕入れた商品をアマゾンで販売してなにがいけないのですか。』
○○ボウの担当者松枝君『それが、なぜだか困るんですよ』
菅『なぜだか困るんですよ、ではなんのことだかさっぱりわかりません。論理正しく、説明してください。』
○○ボウの担当者松枝君『今、こまった状態なんですよ。なんとかお願いします。』
菅『当社が借りた店舗で御社から仕入れた商品を販売しないでください。と言われて、「はい、わかりました。」と言えますか。』
・・・などのすったもんだで結局、価格を16800円から21000円に変更することに『協力』することになりました。
『結局、なんのことだか、よくわかりません。』 問題の商品
『昨日、落雷でパソコン2台壊れたお客様は有名な『吉野ヶ里博士』だった』
昨日、落雷でパソコン2台、壊れたお客様は有名な『吉野ヶ里博士』だった。
どこか、見たような。
でも知らない。
待てよ。
やっぱり。佐賀県の文化課といえば。
そうです。
あの『七田』さんです。
以下、NHKで放送されたプロジェクトX~挑戦者たち~(NHK) プロジェクトX~挑戦者たち~をご紹介します。
アンコール「王が眠る、神秘の遺跡」~父と息子・執念の吉野ヶ里~
12月07日(火)21:15~22:00放送(2004年)
1986年(昭和61年)、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。
開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、文化財保護法によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。
という訳で、佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。
吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。
しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。
そうした中でただ一人、七田忠志(地元神崎高校の社会科教師)だけは違っていた。
生涯をかけて(1981年、昭和56年没)独力で発掘調査を続けたのだ。
その息子が吉野ヶ里発掘プロジェクトのリーダーとなった七田忠昭である。
発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。
ただし、この調査は「開発調査」だ。発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない。
現に、発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。
発掘を進めるうちに忠昭は確信するようになっていた。
この遺跡は絶対に壊してはならない。
そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。
そして、最終的に吉野ヶ里遺跡が永久保存されるきっかけとなったのは、佐賀県知事・香月熊雄の判断であった。
吉野ヶ里遺跡は、北部九州・佐賀県の脊振山系から舌状に延びた丘陵上(神埼郡神埼町、三田川町及び東脊振村)にあり、全国でも最大規模の環壕集落遺跡として知られている。
遺跡は弥生時代を通して存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。
吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3)5月28日に国の特別史跡に指定された。
さらに、平成4年10月27日の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園、面積54ヘクタール)として国土交通省によって整備されることになった。
また、本公園の周囲は、国営公園と一体となった遺跡の環境保全、及び歴史公園としての機能の充実をはかるため、県営公園(約63ヘクタール)として佐賀県によって整備が進められている。
すなわち吉野ヶ里遺跡は、その周囲も含めて総面積約117ヘクタールの区域が、一体的な都市公園として計画・整備(継続中)されているのである。
さて、吉野ヶ里遺跡では、弥生時代前期においてすでに環壕を持った集落が出現しており、「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しをみせている。
中期には、丘陵を一周する大規模な外環壕が形成され、後期に至って、環壕がさらに2か所の内郭(北と南)をもつようになった。
北内郭と名づけられたゾーンは、二重の壕と城柵(土塁と柵)で囲まれており、複数の大型建物跡が発見された。
このうち弥生時代では最大規模とされる大型建物跡は、祭祀場であったと考えられており、木造三層二階建ての”主祭殿”として復元されている。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代後期に環壕集落の形態を最も整え最盛期を迎えたものと考えられている。
そこで、吉野ケ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っている。
魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。
それは今から14年前、娘が中学に入学するころのお話です。
どしても犬が飼いたい。といって聞きません。
末の息子のお友達が『飛りゅう』となずけた、かしこそうな大型犬をかっていた関係もあり、自分たちも犬が飼いたくなったのでしょう。
※この『飛りゅう』という犬も数奇な人生をおくることになるのですが。(フィリッピンへ行ったりして、最後は日本に帰ってきて死にました) (いきさつはなにかの折にお話しします)
観念して、新聞の『ペットもらってください』コーナーで手頃な雑種犬をみつけました
さっそく、娘と二男が新聞の『上げますコーナー』の犬を貰い受けて来ました。
生まれて2週間ぐらい。
貰われてきて、最初に部屋に下ろしたとたん、娘のセーラー服におしっこをして、大騒ぎしたことを覚えています。
『むくむく』した犬っころです。
母親から引き離されて、それでも元気にころころころげまわっていました。
でも、普通の雑種でなにも変わり映えもしません。
(最近は白いソフトバンク犬が人気で、当家のりゅうも白のスプレーで塗れば、なんとかソフトバンク犬かなあ)
おしっこのしつけをしすぎて、当家の敷地内ではいっさいしなくなりました。
ですから、必ず一日2回、朝・夕の散歩が欠かせなくなりました。
これがたいへんなのです。
特に雨の日は散歩にもでれません。それでも外でしかおしっこはしません。
なんとか雨が小ぶりになるのをまってやっと外に連れ出し、おしっこタイムとなるのでした。
それから年が変わって寒い冬の夜のことです。
どこから来たのか、一匹の子犬が当家の軒先にうずくまっていました。
あまりにも寒そうなので、敷き毛布とミルクを与え、そのまま、外の軒下にうずくまらせていました。
これが、『りゅう』にとっての不運の始まりです。
その子犬はもう、当家の軒下から絶対にはなれようとしません。
『あっちへいけ!』といっても、動きません。
家内が、かわいそうになって、抱いて家の中に連れてきました。
『うわー、このぶすな犬も飼うのか!!』
私はいやになりました。だって雑種の犬を2匹も飼うことになるのですよ。
しかも、お家の中で飼うわけですから。
毛のいろは、りゅうもちび(後から割り込んできた迷い犬の名)も雑種特有の茶色なのです。
うんざりです。
あまり、さわらぬよう、ふれないように、しぶしぶ付合うことにしまとた。
一方、『りゆう』は近所の人気ものです。
店の前を通りがかりの人が『りゅう』がおうちのなかから、お出まし、するのをまっているのです。
『なにかようか』と尋ねると、『いつものわんちゃんは』と問いかけてきます。
私は気の毒になり、家の奥のほうに声をかけます。
『りゅう、お客さんだよう。』
呼ばれた我が家の『りゆう』、おもむろにのしのしと、お出まししてきます。
こんな感じでとうとう我が家は私ども夫婦、子供3人、それに雑種の犬2匹、合計7人の大家族となったわけです。
突然『キャン、キャン』とりゅうが泣きわめきました。
りゅうは震えています。
なにごとかと私はとび出してきました。
家内に聞くと、どうも『ちび』が『りゅう』にかみついたようです。
それからは、我が家の長男犬『りゆう』はあとから割り込んだ『ちび』に従えられる運命となったのです。
『ちび様』のお食事のあとが『りゅう』のお食事タイム。
動物って序列がすごいですね。
その『りゆう』、
とうとう、昨日なくなりました。
原因は熱射病とおもいます。
ご老体のところ、いつもなら夏の毛に生え変わるのに今年はなぜか、生え変わりませんでした。そのまま冬毛のままです。
そこに、熱い夏がやってきました。
当家も節電のおり、彼らの居間にエアコンをいれてありませんでした。
突然、全身痙攣をおこしました。
いったん回復したとおもわれましたが、また、痙攣を引き起こしてしまいました。
病院に入院させましたが、回復は無理の様子。
やむなく当家に引き取り退院させ、翌日の朝、看病のかいもなく、息を引き取りました。
当年14歳と5カ月の人生でした。
ご冥福を祈ります。
ところで『ちび』は、というと、いまでは夜は私のよこで、ともに寝起きしています。
どうも、『ちび』としても、いままで寝起きしてきた相棒の『りゆう』がいなくなって、さびしいのでしょう。
えっ!! 家族はどうなったかって。
男の子二人は就職し、北九州と大阪です。
娘が舞い戻ってきたので、現在は私ども夫婦と娘とちびの4人となりました。
前日の様子、友人のブログにも掲載されました。 http://ameblo.jp/minidora24/
『求職者支援を増額へ 厚労省方針、月10万5000円を支給』
厚生労働省は職業訓練中の失業者に生活費の一部を支給する「求職者支援制度」を来年度から恒久措置にするとともに、生活給付費を現行の基金事業より5000円多い月10万5000円とする方針です。
政府が昨年7月から実施している同様の制度の受講者は今年7月までで計10万4000人で、現在の基金事業は今年度末までの時限措置という位置づけです。
厚労省は新しい求職者支援制度を来年度から恒久措置にする考えです。
職業訓練を通じて失業者に介護やITなどの専門知識を身につけてもらい、労働市場にスムーズに復帰できるようにし、また利用者を更に増やすことを狙いとします。
ただ制度は労働政策審議会が議論している最中で、詳細については未定。
制度がどれだけ有効に機能しているのかといった検証もこれからということです。