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近衛文麿
近衛文麿
近衛文麿は、戦前、ソ連コミンテルンのスパイのリヒャルト・ゾルゲと共に首謀者であった尾崎秀実を政権中枢に引き入れた。
尾崎らの工作で戰線を拡大し、「大政翼賛会」を組織して国民を扇動しておいて、第二次世界大戦(大東亜戦争)の決断を迫られると、開戦2ヶ月前に「自信ある人にやってもらわねばならん」と内閣総辞職。
統制派軍部官僚であった東条英機を推薦したうえで内閣を押し付けたとの見方もある。
昭和16年(1941年)10月15日に尾崎秀実らが逮捕されると、予審判事であった中村光三から形式的訊問を受け、近衛文麿は「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を否定した。
革新官僚(企画院事件で大量検挙)が近衛文麿を使って、国家総動員法や大政翼賛会を強引に進める。これを新聞が世論誘導をする中で、世論を敵に回し鳩山一郎は反対を通した。 鳩山一郎
鳩山一郎
昭和15年11月1日の鳩山一郎の日記に「近衛時代に於ける政府の施設(しせつ)凡(すべ)てコミンテルンのテーゼに基く。寔(まこと)に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。

その後、敗戦濃厚となると天皇陛下が重臣たちから意見を聴取する機会が設けられ、近衛文麿は昭和20年(1945年)2月14日に「上奏」を行った。
ソ連コミンテルンの「世界赤化政策の脅威」と「軍部の粛清の必要性」を唱えた「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる有名な「近衛上奏文」である。
  此事は過去十年間軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が最近静かに反省して到達したる結論にして此結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。
  不肖は此間二度まで組閣の大命を拝したるが国内の相克摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候。
近衛文麿は上奏文の中で、「彼等の主張の背後に潜める意図を看取能わざり」と反省している。
大東亜戦争に至った経緯を丹念に調べると、ゾルゲ事件は氷山の一角であり、陸軍中堅層が抱懐するという「国家革新の陰謀」を参照してみると以下の記述が残っている。
  この魅せられた連中は参謀本部よりも陸軍省内に多く、現に北支事変の起った時も、参謀本部は常に政府の局地解決に同意し、この方針で指令したのだが、陸軍省に蟠踞(ばんきょ)する革新派が出先の軍と通謀しドンドン事変を拡大した。之には立派な証拠がある。今、企画院に居る秋永少将の如きも支那事変を早く治められては困ると云って来た事もある。要するに陸軍の新人は作戦上の必要に藉口(しゃこう)し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである。
  要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口(しゃこう)し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政(しょせい)を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。
  翻(ひるがえ)って所謂(いわゆる)革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂(いわゆる)統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂(いわゆる)皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うしである。
この手法は、まさにスターリンの「敗戦革命」にあたると云えよう。左翼、右翼、皇道派、統制派と云った単純な切り分けでは謀れない、様々な周辺国家の影響が入り込んでいることも明らかになった。

話題を近衛文麿に戻して、その生い立ちから時系列で見てみよう。
  明治24年(1891年)10月12日、近衛篤麿公爵と旧加賀藩主で衍子(侯爵・前田慶寧の三女)の間の長男として、文麿は東京市麹町区で生まれた。 近衛篤麿
近衛篤麿
  衍子死後、その妹・貞が後妻となったが文麿は貞を実母だと思っていて、成人後に事実を知り「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」と「近衛文麿公清談録」に残っている。文麿は、一生涯この考え方に支配されていたのかもしれない。
  父の近衛篤麿はノブレス・オブリージュを自覚したアジア主義(欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開)の盟主であり、東亜同文会(明治31年から日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。現在の一般財団法人霞山会)を興すなど活発な政治活動を行っていた。篤麿は明治37年(1904年)に41歳で死去。
明治37年(1904年>)2月8日 ~ 明治38年(1905年)9月5日、大日本帝国とロシア帝国の間で日露戦争が勃発。

  近衛文麿は旧制一高から東京帝国大学哲学科に進んだが、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や、被差別部落出身の社会学者であった米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学。 河上肇
河上肇
  河上との交流は1年間に及び彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴していた。
  大正元年(1912年)12月、総理大臣の西園寺公望は、上原勇作陸軍大臣の増設要求に応ぜず辞職。後継陸相を得られないことで西園寺内閣は12月5日に総辞職。 西園寺公望
西園寺公望
  近衛文麿は、首相を辞職した西園寺公望が大正2年(1913年)に京都に移ると面会した。

  京都帝国大学在学中の大正3年(1914年)に近衛は、オスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次「新思潮」に掲載されたが、大正三年五月号は発禁処分となった。 オスカー・ワイルド
オスカー・ワイルド
大正3年(1914年)11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス陸軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した第1次世界大戦「青島の戦い」。
  大正5年(1916年)10月11日、近衛文麿は満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。
  大正7年(1918年)に、近衛は雑誌「日本及日本人」で論文「英米本位の平和主義を排す」を発表。大正8年(1919年)1月18日から第一次世界大戦の終結に係るパリ講和会議近衛文麿が、西園寺公望(全権)に随行。
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。神奈川県および東京府を中心に隣接する茨城県、千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。死者、行方不明は10万5千余人。
  昭和2年(1927年)には木戸幸一(極東軍事裁判で日本人に批判を浴びた木戸日記)、徳川家達らとともに火曜会(戦前の貴族院における院内会派)を結成。 木戸幸一
木戸幸一
  公爵及び侯爵議員の親睦を目的として結成)を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。
  昭和8年(1933年)には貴族院議長に就任した近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助と共に「昭和研究会」が創設した。この研究会には暉峻義等三木清平貞蔵笠信太郎東畑精一矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三勝間田清一正木千冬和田耕作らが参加している。ゾルゲ事件の尾崎秀実もメンバーの一人であった。
  昭和9年(1934年)に近衛はアメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。 フランクリン・ルーズベルト
ルーズベルト大統領
  帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。
昭和11年(1936年)2月26日、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて二・二六事件を起す。高橋是清(蔵相)、斎藤実(内大臣)、鈴木貫太郎(侍従長)、渡辺錠太郎(教育総監)らが殺害された。 下士官兵ニ告グ
戒嚴令のビラ
二・二六事件の論理的支えであった北一輝(思想家)は「國體論及び純正社會主義」を著し、むしろ皇道派青年将校らとは一定の距離があった。
コミンテルンの影響を受けた軍部改革派が、陸軍内の皇道派を一掃するために仕掛けられた事件であるとの見解もある。
  昭和12年(1937年)6月4日に45歳で第1次近衛内閣を組織。就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦(恩赦)しようと主張。反対で、結局、大赦はならなかった。
  昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件が起こると、尾崎秀実は「中央公論」9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。
昭和13年(1938年)1月16日の第1次近衛声明に尾崎秀実は影響を与え、同年「改造」5月号で「長期抗戦の行方」を発表。日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけと残した。 尾崎秀実
尾崎秀実
日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張。尾崎は近衛の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を築いた。
  昭和15年(1940年)7月22日に、松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意して第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。
  しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。
昭和15年(1940年)9月27日、日本、ドイツ、イタリアの間で日独伊三国同盟を締結。
  昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。
  7月18日に陸軍(主に皇道派)と共に対ソ戦の準備を主張する北進論者松岡洋右を更迭するために内閣が総辞職した。
  同日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論者の海軍大将の豊田貞次郎を任命。10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は豊田貞次郎(外相)、及川古志郎(海相)、東條英機(陸相)、鈴木貞一(企画院総裁)を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議。
  近衛は「戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を放棄して10月18日に内閣総辞職した。
革新官僚が関わった企画院事件は、昭和14年(1936年)11月から岡倉古志郎、玉城肇ら判任官グループが検挙され、昭和16年1月から稲葉秀三、正木千冬、佐多忠隆、和田博雄、勝間田清一、和田耕作ら中心的な高官グループが逮捕された。
近衛内閣総辞職の前日、昭和16年(1941年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として尾崎秀実が逮捕されるに至った。企画院事件とゾルゲ事件で、近衛の側近の多くを失った。
昭和16年(1941年)10月18日、近衛と東條により東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した。しかし東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する木戸幸一(内大臣)らの運動で実現せず、東條英機が次期首相となり、東條内閣が成立した。 東條英機
東條英機
こうした経緯からみても、開戦の責任を東條英機一人に負わせる史観には、そうとう無理があるだろう。
  昭和17年(1942年)11月18日、近衞は予審判事の中村光三から訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を否定した。
  一方、元アメリカ共産党員の宮城与徳は昭和17年(1942年)3月17日の検事訊問では「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」と証言していた。
  昭和20年(1945年)2月14日、近衛文麿の上奏は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候」で始まり、敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず随(したがい)て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候」。
陛下に「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と謝罪している。

1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮稔彦王内閣の副総理格の無任所国務大臣として近衛は入閣して組閣にあたった。 東久邇宮内閣
東久邇宮内閣
  治安維持法の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となった。
  昭和20年(1945年)12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。一部には他殺説もある。 近衛文麿の自殺現場
近衛文麿の自殺現場
  自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。

鎌倉時代より公家の家格の頂点に立った五摂家筆頭であった「近衞家」と云えば、皇族に最も近い存在であった。こうした家柄から一般国民にとって、近衛家は特別な存在であったことも紛れない事実だったろう。
幕末期、内乱に乗じる外国勢力の介入を未然に防止した知恵と同じように、終戦を目前にして共産勢力による「敗戦革命」を阻止して国体護持を図っていたとも考えられる。
近衛文麿公に対する歴史的評価は、未だ定まったとは言い難い。終戦直後に「世界文化」に「手記~平和への努力」を発表した。
  この中で「支那事変の泥沼化と大東亜戦争の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と軍部に対してはGHQ好みの主張。更に「自身が軍部の独走を阻止できなかったことは遺憾である」と釈明した点に、当時から大いなる疑問が残るところである。
政治学者の猪木正道は、近衛と広田弘毅の無責任振りを批判しており、著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している。(「猪木正道著作集」第四巻、岩見隆夫「陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治」より)
また近衛と親交があり、日本政府の全権として降伏文書に署名を行った重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。
大東亜戦争の真の戦争責任は」何処に有るのか?