サムネ
万延元年(1860年)森の石松は、三十石船で大阪の八軒屋から淀川を京都の伏見まで船旅を楽しむ。伏見で船を降りて寺社をお参りして京都見物を済ました。
この旅は、前回の「石松三十石船道中」の続きだが、今回の「石松と見受山鎌太郎」は、石松が鎌太郎宅にワラジを脱ぎ、そこでの二人の話になる。

草津追分の道標
東海道は京都三条大橋から大津宿を経て、その次の宿場が草津宿になる。草津追分は東海道と中山道の分岐点であった。京都三条大橋から草津追分道標まで直線で17.3Kmの地点だ。
草津宿の追分周辺地域を仕切っていたのが、見受山(身受山との説あり)の鎌太郎という駆け出しの貸元であったようだ。37歳の石松は、28歳の鎌太郎の貫録(度量)を確かめることができるか?
一般的に侠客の氏にあたる部分に、生国(生まれ故郷)か縄張りの地域名、または寺社(賭博を開帳しているなど)の名前を付ける事が多い。但し「見受山」の詳細は不明。
「酒を飲むなと睨んで叱る、次郎長親分怖い人」で始まる「石松と見受山鎌太郎」は、人気の演題の一つ。
侠客の言葉で石松と鎌太郎が交わす「やり取り」と「間合い」が絶妙だ。広沢虎造は、相変わらず「ひ⇔し」が紛らわしいが、それは虎造の味になる。
「石松と見受山鎌太郎」は下から聞取り書き起こししました。
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「09 (石松と身受山鎌太郎)」 広沢虎造
08yukiha さん
https://www.youtube.com/embed/V9bZERjpI4E
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浪曲は普通一回の公演で一演題が普通なので、はじめて聞く人のために前回までのあらすじを枕に入れる場合が多い。

Youtube time shift(00´13")

酒を飲むなと睨(にら)んで叱る、次郎長親分怖い人。
怖いその人、また懐かしい。
代参済まして石松は、死出の山路の近道を、
夢にも知らずただ一人、参りましたる所は、
ここは名に負う大阪の、八軒屋から船に乗る。
船は浮(うき)もの、流れもの、神田の生まれどうこうと、
酒飲みねェな、寿司食いねェと、
噂(うわさ)を残すこの船が、無事に伏見に着きました。

船から上がって石松は、お山をお参り京都見物できました。
これから清水い帰(かい)り道、通りかかった所は、草津追分見受山。
ここの貸元鎌太郎、お目にかかった事は無いけど、
人の噂(うわさ)じゃチョイチョイ聞くが、
かなり評判(しょうばん)のいいお方。
どのぐらいの貫録を持つ人か、
秤(はかり)じゃないがこの俺が、チョイと量ってみよかなと、
ひとり言を言いながら、参りました鎌太郎宅。
立派な仁義が済んで、
一宿一飯でここの家(うち)にお世話になる。
三日(みっか)ゐて鎌太郎の貫録を探(さぐ)った
森の石松がビックリしました。
「な~るほど世間の人は、嘘は云わねェや。」
「向こう五年と言ってィたが、三年経つか経たねェ内に
 この人は立派な貸元になるでェ」
驚いていた、その三日目の晩でした。
「ご当家、貸元さんまで申し上げます。」
「ハイ」
「この度(たび)は、まるっきり縁のねェ赤の他人のお前さんに
 何から何までお世話になって、
 石松はお礼の申し上げ様が御座いません。」
「お言葉に甘(あめ)えて、もっとゆっくり遊(あす)んでいようと
 思ったが、家(うち)じゃァ親分や、
 兄弟分がアッシの帰(かい)りが遅いと
 鶴じゃァねえが、首を伸ばして待っているだろうと思うと
 今晩一晩お世話になって、明日の朝お別れしたいと思いますが、
 この後、会いました節も、
 相変わらずお引き立てを願いとう存じます。」
「ア~、それが石さんいけねェ」
「エィ」
「明日(あした)一晩泊まって、あさっての朝、発ってもらいてィ」
「なんか、こ…」
「イヤイヤ別に用じゃねえが、
 明日(あした)ある所にお前さんを連れてって、
 ウンとお取持ちをして、少しばかり小遣いを持って
 帰(けえ)ってもらいていと、こう思って、
 実はお前さんを連れて行く場所まで出来ているんだ。
 もう一晩泊まっていってくんな。」
「お言葉は重々ありがとう存じますが、
 この上お世話にもなりたくねェから、
 どうしても明日の朝、お別れします。」
「石さん」
「エィ」
「お前さん、俺の家イ世話になっていると思うと言いにくいぜ。」
「俺はお前さんを世話しているんじゃない。」
「ご恩返しのまね事をしているン。」
「エ、ご恩返し」
「ウン、わっしゃあんた、
 俺はお前さんに世話になったと何時言った。
 お前さんに会うのは今度が初めてだ。
 お前さんの親分、次郎長さんに、
 俺の若い衆(し)が世話になった。」
「こないだ五人、旅から帰(けえ)ってきて、
 清水の貸元さんにはえらくお世話になりまして、
 帰りがけには莫大な小遣いを頂きましたって、こう言う。
 ア~良かったな、俺が会ったらお礼を言おう、
 と思っていたが縁が無くして会えねェ。
 弱ったな、と思っているところィ、
 清水一家の森の石松と来たから有りがてィ
 ご恩返しはここだ、と思うからお世話のまね事をしてると、
 こう言う訳なんだ。
 石さん、ゆっくり遊(あす)んでいってくれ。」
「な~るほど、あ~たは二十八だってね。
 石松は三十七、 あんたよりわっしャ九つ歳が上だ。
 それで、こうやって話をしてると、
 あんたの方が年上のようでキマリが悪い。
 お言葉は重々ありがとう存じますが、
 どうしても明日の朝お別れします。」
「そうかい、言出したら後には引かないあ~たの気性、
 人の噂で聞いております。じゃあ、明日お帰りなさい。」
「へィ」

石松は、京都から清水に戻る道すがら、評判を聞いて身受山鎌太郎を訪ねた。そして三日たって鎌太郎の貫録が評判通りだと感じて、清水への帰路につこうとする。
客人に対して、飲む打つ買うは接待の大原則だ。賭場も用意できなければ、貸元の名折れとなる訳だ。

Youtube time shift(07´07")
「なァ石さん、あんたの親分次郎長さんは、
 偉い人には違(ちげ)えはねえが。」
「エィ」
「おかみさんが偉かったなァ、お蝶さんが。」
「子分を可愛がる、旅人の面倒を良くみた。
 お蝶さんがイイ、姐御がイイって、
 女房の評判(しょうばん)がイイために、と言っては失礼だが、
 次郎長という人の貫録がグッと上がった。
 欲しい蕾は散りたがる。
 七年前、尾張名古屋でお蝶さんは亡くなりましたね。」
「へィ、欲しい人を殺しました。」
「そうだったな。そん時何だってね。
 金の鯱(しゃちほこ)があだ名になって鯱(しゃちほこ)長兵衛、
 深見村に住んで深見村の長兵衛という貸元には、
 お前さんと次郎長親分は豪(えら)くお世話になったんだってね。
 ねェ、ねェ、石さん。深見村長兵衛さんに世話になったとね。
 なぜ下向いて黙っている。世話になった覚えが、ねェのか。」
「へィ。へィ、へィ。へィ、へィ、へィ。
 不幸な話をするようだが、親が死んでも、
 涙ひとつ零(こぼ)したことのねェ私(わたくし)が、
 深見村長兵衛という名前(なめえ)が出ると、
 思わず泣きたくなるので御座います。
 今、あの人がこの世にゐたら、ワシと親分ふたり(ふたあり)は、
 大地にツラァ叩ッつけて、グイっと擦(こす)って、
 血と涙でお礼をしなくちゃならねィ。お詫びもしなくちゃならねィ。
 馬鹿は承知でなったヤクザ稼業、
 間違(まちげ)いで切られて死んだんなら諦(あきら)めるが、
 次郎長の身代わりになり、代官竹垣三郎兵衛、保下田の久六、
 二人(ふたあり)のために水攻めなって死んだかと思うと、
 わっしャ気の毒で、気の毒でたまらねェ。」
「偉い。石さん、義には強いが情けに弱い男の中の男ってェな、
 お前さんだぜ。
 わっしャね、失礼ながらお前さんは、あんまり威勢がいいから、
 涙なんぞァ、ね~だろう思ってたが、
 良く泣いた。あ~ァ、良く泣いた。
 泣いて褒められたのは、お前さんと鶯(うぐいす)ばっかりだ。
 へへへ、いいんじゃねいか石さん。
 その代官と久六は、お前さんだの親分だので、見事に切っちまった。
 その切った刀を貴方が、金比羅様に納めたその帰り、
 床の間に置いてある。丸の中に金の字、真鍮の金物が打ったのが、
 何より証拠、金比羅様の御守りだ。
 仇は充分に討ったんだ。長兵衛さん草葉の陰で喜んでゐる。
 ね、ハッハ、涙拭きねェ。」
「話は陰気になりましたなァ。
 七年前、尾張名古屋で、姐さんが亡くなった時にャ、
 三千百十二両二分という香典が集まったってねェ、
 大した貫録だな。わっしャ、あん時分、素奴(すやっこ)で
 急廻文(きゅうかいぶん)にもれていて、
 まだ香典ってものをやっていねェんだが、
 今年は七年で清水に大法事があるってことを聞いた。
 マ、香典じゃねえんだ。香典のまね事をしてえんだが、
 石さん、持ってっちくんねいかね。」
「断りましょう。」
「エ」
「断りましょう。」
「エ、なぜ」
「世話になった上、香典まで頂いたら、
 抱いてもらって負ぶってもらうようなことをするなって、
 義の堅(かて)い親分次郎長にわっしャ文句言われっちゃうん。
 そればかりじゃねェ。あァたから香典頂いて、
 わッしがスーと清水い帰(けい)りャいいが、
 途中、どんな用があって帰(けい)りが二日でも三日でも遅れたら、
 後に残って、お前さんやお身内が何て言う。
 もゥ石松は清水に着いた時分だ。
 香典は返(けえ)しの有るものだが、礼状一本来ねェ。
 あね野郎、きっと香典使っちやがったんだョ。
 それともあいつは本当の石松じゃねいんだろう、なんてさ。
 んなことを言うような、あァた方のご人格じゃねェが、
 言われやしねェかと、こっちの神経が咎(とが)める。
 だから貸元、こうしてくんねィ。
 わっしャ家(うち)い帰(けえ)って見受山の貸元さんに
 お世話になりましたと話をすると、子分思いの次郎長が、
 石松が世話になってありがとう存じますって、
 あァたン所い礼状よこす。
 その礼状を、あんたがこう見て、
 ア、やっぱり本当の石松だったなってことがはっきり判る。
 で、判ってから、あァたがじかに清水い香典を送ったほうが、
 わっしャ、堅(かて)いだろうと思うんだが、
 貸元、どんなもんでしょう。」
「偉い。驚いたなァ、つくづく偉(えれ)えな。
 何だい、世間の人は。森の石松は馬鹿だ、馬鹿だってえが、
 馬鹿じゃねェや。」
「何だい、有りがていような、有り難がたかァねえような言葉だね。
 すゥと何すか、世間の人(しと)は、あしのことを
 馬鹿だ、馬鹿だって言ってるんすか。
 何だ、ひでえなそれは。馬鹿じゃねえでしょう。」
「う~ん、馬鹿じゃねェ、利巧すぎる。」
「いや、そんなに利口じゃねェ。いやハハッ。」
「筋の通った立派なお言葉だ。石さん、
 鎌太郎、頭ァ下げて頼むから、香典使っちやっちくれ。
 礼状一本来なくても、石松じゃねェ、騙(かた)りだと、
 口が腐っても言いませんよ。
 失礼ながら三日前(まい)、静かに開けた荒格子、
 頭ァ下げたお前さんが、お控(しか)えなさんせ
 お控(しか)えなさんせ、お控(しか)えなすって
 有難う存じます。手前、生国(しょうこく)と申しますは・・。
 まだ名前(なめい)も、こゥ言わねェ内に、失礼ながら、
 家(うち)ん中からお前さんの顔をこうやって覗いて、
 あれ、清水一家の石松さんだってェことは、
 ちゃ~んと、おいら知ってたよ。」
「あれ、初めて会ったわッしを知って。」
「そりゃ知ってらァ、世間の噂で聞いて清水一家の石松さんは、
 何より証拠は目、目。」
「何です証拠は。」
「なハハ、何より証拠はお前さァの目、不味いこと言ったよ、
 こりゃ。どうも俺ァ口が軽くって、しょうがねェ。
 何より証拠は目、目、目、ほら目、
 滅多にねェ、面白い人(しと)だって聞いてらァ。」
「ハハハハハァ、こいつは面白(しれ)えや。
 わッしの顔見て気の毒んなって、滅多にねえとは貸元、
 うまく逃げたな。ハハハハァ。」
「知ってんのか、決まりが悪い。あ~あ、世の中面白(しれ)え。」
「面白かねえや、ちっとも。」
「まあ、こうゆう訳だ、香典持ってっちくれ。」
「じゃあ、器用に頂きましょう。」

代官の竹垣三郎兵衛と十手持ち保下田の久六が、結託して清水次郎長を待ち伏せするが、深見村長兵衛が知って次郎長をひそかに逃がす。
このことで長兵衛は二人から拷問を受けて死亡。次郎長は代官と久六を仇討ちするが、凶状持ち(指名手配)となり一時的に清水港を離れる。/div>
そのさなかの旅先で、お蝶が医者にもかかれれず病で亡くなった。

Youtube time shift(13´56")

しばらく待って下さいよと、言葉を残して鎌太郎。
そのまま立って次の居間、後に残る石松は、
鎌太郎の後姿を見送りて、口には出さぬが心の内で、
思わず言った独り言、馬鹿は死ななきゃ治らない。

俺がお世話になってるから、見受山の貸元へ
鎌太郎の親分よと、下から出ればつけ上がり。
「次郎長に香典持っていっちくれって言いやがる。」
「へへ~、笑わされやがらァ。
 ここら辺りの、おもちゃ箱ヒックリ返(げえ)した
 見てィなバクチ打ちが、街道(けいどう)一の次郎長に
 付合いが出来てたまるかィ。」
「幾ら香典、持って来やがんでィ。
 十両とゐや首の飛ぶ世の中って、十両持って来やがんだろう。
 道中、石松ッさんの小遣(こづけ)いと、三両。
 十三両ここィ並べやがったら、
 ヘ~、これが香典ですか・・・大した香典ですねェって、
 そっくり返(けえ)って笑ってやっから。
 だけどなァ、歳は若(わけ)いが人間がシッカリしているし、
 オマケに場所が京都が近(ちけ)いから、
 清水の舞台(ぶてい)から飛び降りたような気になって、
 二十両来るかな。
 道中、石松ッさんの小遣(こづけ)い、五両。
 マ、二十五両で当り前(めえ)だが、
 マァ~、十三両だろうな。」

ヤクザは昔から「格」を大切にしていたから、駆け出しの貸元の見受山鎌太郎と清水次郎長では「格」が違い過ぎる。
気短でそそっかしい石松からすれば、このことで鎌太郎を見くびってしまった。

Youtube time shift(16´29")

藍の唐紙、さらりと開(あ)いた、再び出(い)で来る見受山。
ヒョイと石松見て遣(や)れば。
鎌太郎、お盆を持って出てくる。
お盆の上ィ、紫の袱紗(ふくさ)がかかって居ります。
石松がヒョッと見て、
「アレ、あれィ香典が載ってゐやがんな。
 おや、山が少し大きいなァ、こりゃァ
 二十五両かな。」
「石さん」
「へィ」
「待たして、すいません。」
「どうしました。」
「清水一家は千人余り、代貸元を務める人が二十八人。
 その中でも、お前さんは、
 やっぱり頭だったところ、立派な兄ィ。
 そのお前さんだから、まさか隠し事はしねえだろうな。」
「しません」
「では伺いましょう。」
「はい」
「さっき俺が、石さんチョッと待って下さいと、
 立ち上がって、この唐紙を開けて、
 次の居間に入(へい)ったな。」
「ヘイ」
「俺は馬鹿じゃねえから、自分の家の唐紙を
 日に何べんとなく、開け閉(た)てしてるかわかんねィ。
 この位の力で開いて、この位の力で閉まるとゐう、
 加減がわからねェ。
 開けて入(へい)ったまではイイが、
 閉めるときに力が余ったのは、つまり行儀が悪い。
 唐紙の通りがイイから、柱ィあたって、
 ツツ~ッと三寸ばかり開いたろう。」
「ヘイ」
「その開いたとッから、お前さんが俺の後姿を見送って、
 ア~ァ、馬鹿ってものはしょうがねェもんだ。
 俺が世話になっているから、親分だ、貸元だってェば
 いい気になりやがって、
 ここら辺りの赤ん坊みていなバクチ打ちが、
 街道(けいどう)一の親分、次郎長に付合いが出来て
 たまるもんか。
 馬鹿な野郎だなと、お前さん思いやしなかったかい。」
「アレ、こいつは驚いた、易(えき)を見やがんな、こいつは。」
「エ~ィ、そんなことは思わねェ。」
「隠すねェ、思うのが当たり前(めえ)、
 思わなければ、あんたは馬鹿だ。
 だけどねェ石さん、良かったョ、
 お前さんが睨んだほど俺は馬鹿じゃなかった。
 街道(けいどう)一の貸元に、お付合いは出来ません。
 だから始めっから俺は、香典遣ろうとは言わなかったなァ。」
「エ」
「香典の真似事がしたいと言ったね。」
「アレ、上手く逃げやがったな。そうだよ真似事と言ったョ。
 チキショウ、十三両持って来やがったな、コリャ~。
 エエ、真似事と言いました。」
「いくら真似事とは言いながら、相手があんまり大きいから、
 もっとどうにかしたかったが、これが一杯(いっぺい)の義理。
 きまりが悪い、目ェ開いちゃ出せねェ。
 つぶって出した石松さんョ、必ず笑って下さるな。
 さァ、受け取って下さい。」
と、被(かぶ)した袱紗(ふくさ)をパッと取る。

何の気なしに石松が、見れば、
御仏前御香料、金一百両、見受山鎌太郎。
別に道中石松さんの小遣いへ、三十両と。
出された時に石松め、アッ
左(しだり)の潰れた、この眼(まなこ)が、
パッと一度に開(あ)いたかと
思うばかりの、エ~驚きなり。

ここに出てくる「唐紙」とは「ふすま」のことで、江戸時代はふすまは庶民にとって障子と比べて高級品だったようだ。
また一両は現在の貨幣価値に換算すると8~10万円とも言われる。香典の100両は800万円、石松の小遣い30両は240万円になる。
何れにしても、石松が目をむく金額だったのも当然だろう。

Youtube time shift(20´40")

その金を頂きます。その夜は世話になった。
明けの朝になりましたら、見受山に別れを告げ、
草津追分、出(い)でました。
参りましたる遠州郷(ごう)。
ここは名代の中野町。
東海道の真ん中にあるから、中野町と云うそうですが、
ここィ、石松が架かってくると
片脇の松の木ンのとこで、三人のヤクザ者(もん)が、
何か話をしています。フッと石松の姿を見ると
「お、おゥ、おォ、石松さんじゃねェか。」
「おゥ、そうだ。呼んで見な」
「おォ~、清水一家の石松さんじゃねェか、石さん。」
「おゥ、誰だィ、アレ、いよ~う、都鳥の貸元。
 三兄弟(きょうでい)お揃いで。
 どうもしばらくでしたナ。」
「いァ、して石さん、本当にしばらくだった。
 イイ男になったな。何処ィゐっち来たィ。」
「親分の代参で、讃岐の金比羅様ィ行った帰りがけにね、
 見受山の鎌太郎さんところで、遊(あす)んでいたんだよ。
 したら、七年前(めえ)尾張名古屋で亡くなった、
 親分の姐御、お蝶さんの香典だッてんで百両。
 道中、石松さん小遣(づけ)いって三十両。
 百三十両貰って、今、帰(けえ)りがけだよ。」
「エェ、百三十両。」
「ウン」
「大(てい)したもんだな。」
「ア~、見受山って人は、豪(えれ)いな。」
「いや、見受山が豪(えれ)いんじゃねェ。」
「そうか」
「ウン、お前の親分、次郎長さんに貫録がある。
 百三十両、アァ大(てえ)したもんだな。
 さあ、石さん、お前(めえ)も遠州の生まれだ。
 この遠州は素通りはァ出来ねえ。
 俺の家ィ、ニ三日(にさんち)遊(あす)んで行っちくり。」
「ああそうかい、じゃあ足も疲れた。
 じゃあ、お前(めえ)ン家(ち)に二日(ふつか)ばかり、
 世話ンなって、そいから吉兄ィ行こう。」
「ア~、そうしてくんな。」
胸に一物あった都鳥三兄弟が、石松を連れて都田村ィ帰る。
この百両が因果な金、石松の命が亡くなります。
石松殺しのお粗末。

丁度時間となりました。また口演致します。

都鳥三兄弟が縄張りとした遠州郷都田村は、浜名湖の北部に位置し、明治22年(1889年)町村制施行に伴って江戸時代のからの都田村,滝沢村,鷲沢村が合併して引佐郡都田村になった。
森の石松の言った「吉兄ィ」は、三兄弟の親分で「都鳥吉兵衛」(都田の吉兵衛)のことだ。
石松の命取りになった130両。「ここから更に面白くなる」と言わんばかりの終り方だ。

浪曲は、劇場(映画館を含む)や臨時の小屋掛け(お祭り)などを巡って演ずるほか、二代目の広沢虎造の時代にはラジオ放送で口演されるようになった。
二代目の広沢虎造の持ちネタとなった「清水次朗長伝」は、「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉と、全国津々浦々で爆発的な人気を得るようになった。

この度、Yahooブログが終了したため、こちらに引越してきました。書込む文字数が増えて全文を1ページで掲載できました。
なお聞取りの間違い、誤字、脱字、解釈の間違いなどありましたら、お手数ですがコメント欄からご指摘いただけると幸甚です。では今後とも宜しくお願い致します。