憲法14条の「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とある。
 
日本国憲法 第十四条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
 
GHQ草案 第13条
All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.
No patent of nobility shall from this time forth embody within itself any national or civic power of government.
No rights of peerage except those of the Imperial dynasty shall extend beyond the lives of those now in being.
No special privilege shall accompany any award of honor, decoration or other distinction; nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.
 
GHQ草案 第13条の邦訳
一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ
爾今以後何人モ貴族タルノ故ヲ以テ国又ハ地方ノ如何ナル政治的権力ヲモ有スルコト無カルヘシ
皇族ヲ除クノ外貴族ノ権利ハ現存ノ者ノ生存中ヲ限リ之ヲ廃止ス
栄誉、勲章又ハ其ノ他ノ優遇ノ授与ニハ何等ノ特権モ附随セサルヘシ又右ノ授与ハ現ニ之ヲ有スル又ハ将来之ヲ受クル個人ノ生存中ヲ限リ其ノ効力ヲ失フヘシ
 
日本国憲法
日本国憲法 第三章 第十絛~第十五條
この何処に日本人のオリジナリティがあるのか?
 
自然人(natural persons)を国民と言い換えた程度か? 
 
近代法のもとで自然人とは「権利能力が認められる社会的実在としての人間」なんだそうで、そのまま「国民」のことだろう。
 
いわゆる「法の下に平等」は、GHQ草案の「equal before the law」そのものだ。「equal」(イコール)は、「相等しい意味」で左辺と右辺が等しいという事だから、まさに相対的平等と云えよう。
 
マッカーサーの「平等の権利」は、キリスト教の「神の前に平等」という思想から来ていると言われている。
 
個人が生まれながら元々持ち合わせた、人種、信条、性別、社会的身分、門地によって差別されない事であろう。しかも主語は「国民」であり、得手不得手や努力によって生まれる絶対的な不平等を言ったものではない。
 

 
戦後間もなく教育を受けた世代には、考査(テスト)結果は廊下に順位が掲示され、運動会では堂々と順位が付けられていた。しかも良い成績や運動で上位になると賞品を貰うこともあった。
 
スタートの平等は当然だろうが、いつの間にか、むしろ「結果平等」という不可解な論理がまかり通るようになっていった。学芸会で「シンデレラ」や「浦島太郎」が何十人も並んでいるのを見たくない。
 
これこそ悪夢の「全体主義」ではないだろうか?
 
現代社会では、「社会的身分」や「門地」を気にする人も少ない。これらを自ら進んで口にする人は、何かの目的があるのか?と疑念を抱かれるだけだろう。
 
人種についても同様だが、国籍が日本であれば、生活を圧迫するような差別がるとは考えにくい。
外国から帰化した人が「日本語上手と云われて困る」という声を聞くが、事情を知らなかっただけで、悪気があって行っている訳ではないだろう。
 
男女平等とは、男と女が同じ仕事をする事でなければ、一緒に着替えしたり、同じ便所に入る訳ではあるまい。女性の社会進出を唱える人の中には、能力や適合性を無視して、まさに「結果平等」の押し付けを迫る。
 
女性の得手な仕事もあれば、男性力を発揮できる仕事もある。その現場で働いている普通の人なら当たり前に様に捉えていることだろう。
 
職場に思想信条を持ち込んで、ごり押しするものが、本来の仕事を阻害することも、よく見かける。自分が何を信じようが自由だが、他人に押し付けることは「思想信条の自由」を奪うことに気が付かないのだろうか?
 

 
学者、政治家、役人、法曹、敎育などの男女格差の少ない職場では、想像もできない現実である。こうした連中が、如何にも「したり顔」で、現実も見ずに「結果平等」を語るのも、甚だ違和感を覚える次第だ。
 
子供たちの、学力、技能、運動力、芸術力などを、冷静に分析、評価して、それぞれの資質を伸ばしてこそ、本来の教育なのだろうと思う。
 
更に社会生活でも、したり顔連に頭の上がらないマスコミを含めて自論を押し付けたり、身勝手なポリティカル・コレクトネスで一般国民を糾弾するに至っては、日本人の「自由」は何処に行ってしまうのだろう。
 

 
したり顔連中の自論の押売りや、役人や教職者にとっての手抜きのために、都合よく「平等」という言葉を妙薬のように乱用してきた。
 
その結果、「結果平等」だけが罷り通れば、古来日本人が持っていた想像力、意欲、創意工夫が著しく低下してしまう。
 
やがて世界の頭脳と云われるノーベル賞受賞者は減り、経済活動は停滞し、少子化も一段と進むことだろう。
 
ここで大事なことは、安易な「平等」論で誤魔化してきた「したり顔」連中も、戦前の消し去られた歴史を、事実に基づいて個々に検証して見ることだろう。
 
無論、判断を誤った事実もあれば、隠された素晴らしい事実も出てくるだろう。当時の時代背景を考慮することからも逃げては、本質を理解できまい。
 
なぜ其処に至ったか…という事実の連続性を知ることは、歴史を検証する上では欠かせないだろう。
 
すでに大方の歴史学者は気付いてるとは思うが、一旦過去をリセットして、真摯に考察して頂くことを祈念する。