山縣有朋
第一軍司令官 山縣有朋
よく旧日本軍の蛮行を指して、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と云われる。
 
また、この言葉が「玉砕」や「自決」など軍人・民間人の「自殺的行為を正当化した」と見る向きもある。
 
実際、この言葉は室町時代や戦国時代の家訓などにしばしば使われていたようだ。近世では明治27年(1894年)8月13日、山縣有朋が平壌での以下の訓示に基づいている。
 
敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。
寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。
 
山縣有朋が内閣総理大臣を辞して元老となり、日清戦争では56歳にもかかわらず第一軍司令官として戦地に赴き作戦の指揮をとっていた。
 
戦時の軍事行動を規定したジュネーブ条約を遵守した日本に対して、清国軍は暴走して捕虜をとらず殺害するだけでなく、残虐で野蛮な方法で苦しめられた。
 
加えて清国在住の邦人にも、日本人の手や足を切り、首を切り、睾丸を抜いたり、男根を切り取り、胸部を割って石を詰めるなどが行われた。
 
こうした暴行に国際法では、復讐する権利が認められているが、日本政府は復讐を行わなかった。そこで山縣有朋は、上述の訓示を示した。
 
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第二軍兵站病院ニテ敵兵負傷者治療ノ状況 明治28年(1895年)1月6日撮影
 
日清戦争では、清軍からは1,790人が捕虜として捕えられ、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を科せられることもなく下関条約締結後に全員が帰国した。
一方、日本軍の連戦連勝で短期間で収束したことからの日本兵の捕虜が少数であることは確かだが、清国から引き渡された捕虜は11名、そのうち10名は軍夫だった。
 
これは清軍は、通信の未熟や中央の威令が各部隊に届かず、末端が暴走し捕虜をとらず殺害したためとの分析もある。
 
以降、日露戦争ロシア帝国と組んで張作霖など一部の馬賊による日本人捕虜への蛮行に対して、日本はロシア人捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。
愛媛県の松山にあった捕虜収容施設が有名になったことで、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもあったようだ。
 
第一次世界大戦のドイツ帝国捕虜は4,715人に及んだが、日本は全国各地の寺院などへ収容した。このときドイツ帝国軍捕虜によって演奏されたベートーヴェンの「交響曲第九番」、捕虜からパン製造を教えられた敷島製パン(旧、敷島製粉所)、日本初のバウムクーヘンを焼いた菓子職人カール・ユーハイム、捕虜チームからのサッカー技術の伝授など、上げればキリがない。
 
昭和6年(1931年)からの満州事変での國民革命軍八路軍など共産ゲリラによる野蛮な行為、昭和12年1937年)に始まった支那事変での同様な蛮行が続いた。
 
ジュネーブ条約ハーグ陸戦条約などの国際条約を律儀に守ることが、黄禍論にあふれる白人列強社会で、文明開化以来の国際的位置を確立する唯一の方法だと思っていたのだろう。これは他ならぬ「武士道」の概念だ。
 
国際条約の励行を旨とした日本軍人は、末端兵卒まで軍律が浸透していたため、ごく一部の不埒物を除けば、徹底されていた。一方、多くの敵国にとって国際条約は、お題目に過ぎなかった。これが第二次世界大戦までに得た日本軍の認識た。
 
この山縣の訓示から生まれた、「生きて虜囚の辱めを受けず」は、陸軍大臣・東條英機が昭和16年(1941年)1月8日に示達した訓令(戦陣訓)に改めて使われている。
 
恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ
 
戦陣訓は、軍人の心構えであり、日清、日露戦争に於ける日本軍人の勇猛果敢な振る舞いは、世界各国の観戦武官に多くの影響を与えた。ロシア軍、フランス軍、ドイツ軍など、第一次世界大戦の際に歩兵の精神力を真似したとある。
 
ほかならぬ第二次世界大戦のアメリカ軍でも、歩兵を鼓舞する言葉は日常的に使われていた。
 
Gung ho, Gung ho ! ⇒ やっちまえ! やっつけろ! ガンホー!
Semper fi ! ⇒ fi = fidelis で海兵隊のモットー「常に忠誠!」
Do or die ! ⇒ 命がけ! または 死ぬ覚悟!
 
現代の平和社会から見ると、「玉砕」や「自決」と云う決断を愚かしく語られる事も多いが、当時の白兵戦で、最初から「捕虜になれ!」では戦力が極端に低下することは必定だろう。
 
もう一つの大きな「虜囚の辱(はずかし)め」とは、敵国の日本人捕虜に対する国際法を無視した異常なまでの取扱いだろう。
 
歴史を検証すると、極めて日本軍人が自制的な行動を守っていたにも関わらず、日本を貶める目的の逆宣伝が繰り返された。
 

日清戦争の「旅順虐殺事件」の顛末(プロパガンダ)

 
明治27年(1894年)11月、日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどが、中国人の肉は切り刻まれ、ほとんどの住民は虐殺され尽くされた、とセンセーショナルに報道した。
 
アメリカのジャーナリズム史研究では、クリールマンはこの旅順虐殺報道で扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)のやり方を身につけて、4年後の1898年の米西戦争でも活躍したとされている。
 
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金州城副都統衙門前ニ於テ第二軍司令部ヨリ貧民ニ施粥ノ景
 
事件が有ったとされる同時期に遼東半島の旅順口手前にあたる「金州城で人々のお粥を配る第二軍司令部」などの写真を見ても、当事者とされた第二軍司令部と現地人の交流が解る。つまりクリールマンの記事は、根拠のない誤報(?)捏造であった訳だ。
 
当時、アメリカの新聞記事の論調に対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを以下の通り決定した。
 
  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。
日本政府は、第7項を除いて、アメリカの新聞に公開した。
 
陸奥宗光
陸奥宗光 外務大臣
陸奥宗光外務大臣が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。
 
江戸末期に締結した「不平等条約」の改正に推し進めていた陸奥宗光らしい対応とも云える。
 
陸奥の外交は成果を上げたが、その後日本人は、決定的な「意見を述べないことが美徳」に思われがちだが、外国には通じなかったために、以降メディアに格好の材料を与える結果となった。
 
ゲルヴィルによる虐殺捏造論
旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは、1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマンの報道するような虐殺は発生していないと主張し、さらにゲルヴィルは1904年の著書『Au Japon』で虐殺は捏造されたものであったと論じた。
 
ダネタン報告
ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告調査では、事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたもの」で、フランス武官ラブリ子爵は、殺された者は軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであったと述べている。
 

 
この世論誘導に困惑した日本政府の対応は、その後たびたびイエロージャーナリズムの攻撃を受け続ける切っ掛けとなった。
 
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威海衛港ニ於ル降虜ノ上陸 明治28年(1894年)2月16日撮影
 
戦前の日本は悪、軍人は悪…という論調の本は、多数出回っているが、逆の論調を題材にした当時の出版物は少ない。
 
ラルフ・タウンゼント著 田中秀雄・先田賢紀智共訳
「暗黒大陸中国の真実」
Ralph Townsend "America has no enemies in Asia!" 1938
 
フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著 田中秀雄訳
「中国の戦争宣伝の内幕」
Frederic Vincent Williams "Behind the news in China" 1938
 
このような数少ない反証本でも、自らの都合にそぐわないと、内容への反論ではなく、感情的な切り捨てや裏付けのない反発が目立っているのが現実だ。
 
反発する彼らは、「有名大学の教授」、「有名新聞の記者」などのステータス(社会的地位)の人が「~が言っている」「~が聞いた」だけが裏付けという悲しさ。
 
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