間宮林蔵が樺太を探検(1808年)、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」が完成(1821年)、幕府が異国船打払い令(1825年)を出していた時代に起った、日本にとって国際紛争に巻き込まれた災難の一つが「マリア・ルス号事件」です。
 
南米植民地
南米植民地と独立 wikipedia
19世紀初頭の米大陸では、フランス革命の影響で、本国スペインがナポレオンに征服されたことを機に、独立運動が活発となった。
1804年のハイチを皮切りに、20年代までに、次々と独立を達成した。
 
1811年7月 ベネズエラが独立宣言
1811年8月 パラグアイが独立宣言
1814年 米英戦争(第2の独立)
1816年7月 ラプラタ連合(現在のアルゼンチン)が独立を宣言
1818年 チリが独立
1821年2月 メキシコが独立宣言
1821年6月 ペルーがスペインからほぼ独立(承認は1824年)
 
しかし、独立後も複雑な人種的身分制社会を抱え、産業の未発達もあって貧富の差が大きく、独裁権力が出現したりクーデターが相次ぐなどが政治的不安定が続いた。
 
ペルーは1814年スペイン植民地から、外来勢力の二人の英雄、スペイン系貴族のホセ・デ・サン・マルティン(José de San Martín)とアメリカ大陸有数の資産家のシモン・ボリバル (Simón Bolívar)に解放される形で1821年6月に独立を果たした。
 
ラモン・カスティーリャ
奴隷制廃止のラモン・カスティーリャ
その後、1851年にはペルー史上初の自由選挙でホセ・ルフィーノ・エチェニケが大統領に就任し、民法が制定されたなど功績もあったが、汚職事件を引き起こした。
 
1854年にラモン・カスティーリャが蜂起し、カスティーリャは同年反乱の最中に「インディオの貢納と奴隷制の廃止」を宣言した。
ペルーの指導層に黒人奴隷に代わる新たな労働力を必要としたため、1849年に成立した移民法によって、コスタ(海岸)のプランテーションで働く労働力として、アイルランド人移民、ドイツ人移民、中国人移民が導入された。
 
苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に約10万人だと推計されており、黒人に替わる新たな奴隷と同様の劣悪な労働条件で労働させられた。
 
明治5年(1872年)7月9日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz)号が横浜港に修理のために入港した。
 
英軍艦アイアンデューク号
イギリス軍艦 アイアンデューク号
 
同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れるために一人の清国人が海へ逃亡し、イギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
 
そのため当時の外務卿・副島種臣は、神奈川県権令・大江卓に清国人救助を命じた。日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかったため、政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。
 
醍醐龍馬
マリア・ルス号事件をめぐる国際仲裁裁判 大阪大学法学部法学科 醍醐龍馬著
 
マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、明治5年(1872年)7月19日に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は同月27日の判決で、清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。
 
だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし、清国人をマリア・ルスに戻すよう主張した。
これに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。
 
第2審の審議で船長側弁護人フレデリック・ヴィクター・ディキンズ
日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められ、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である。
として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。さすが弁護士は、闘争理由を見つけ出す天才とも云えよう。
 
この裁判を契機に、同年10月、近代化日本として人道主義を意識する点から、「前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放」する目的で、通称「芸娼妓解放令」を出した。
 
人身ヲ賣買致シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古來制禁ノ處從來年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住爲致其實賣買同樣ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可爲嚴禁事
農工商ノ諸業習熟ノ爲メ弟子奉公爲致候儀ハ勝手ニ候得共年限滿七年ニ過ク可カラサル事
但雙方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事
平常ノ奉公人ハ一ヶ年宛タルヘシ尤奉公取續候者ハ證文可相改事
娼妓藝妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟總テ不取上候事
右之通被定候條屹度可相守事
 
この明治5年太政官布告第295号、通称「芸娼妓解放令」は、「貧農の娘の身売り」など人身売買を禁止したもので、売春行為を禁止した法律ではない。
同令がきっかけとなって、人身売買を防ぐために、女性に対して教育や軽工業に対応する「技能習得の場」が設けられた地方もあった。
 
マリア・ルス事件の裁判により、清国人は解放されて清国へに帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。
 
しかし、翌明治5年(1873年)2月にペルー(秘露)政府は海軍大臣を訪日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ、第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。
 
アレクサンドル2世
ロシア皇帝・アレクサンドル2世
これは日本国が、国際裁判の当事者となった初めての事例である。
 
ロシア皇帝・アレクサンドル2世によりサンクトペテルブルクで開かれた国際裁判には日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席した。
 
1875年(明治8年)6月の法廷では「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の要求を退けた。
 
日本政府ハ秘露國船『マリヤルーズ』神奈川港滞留ニ依テ起リタル事柄ノ責ニ任スル事ナシ
右斷案を確證スル爲メ我等名ヲ記シ帝璽ヲ鈐スルモノナリ
 
仲裁裁判の詳細は、醍醐龍馬氏の研究を参照するとよく理解できる。
 
マリア・ルス号事件をめぐる国際仲裁裁判
大阪大学法学部法学科 特別研究員(DC1) 醍醐龍馬