ペリー艦隊が江戸湾に侵入して交易を迫って日米和親条約を締結してから、嘉永7年(1854年)年6月に帰国した。その1カ月後に、出島在住のドイツ医師、博物学者のシーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かい、長崎奉行の大沢安宅に国書を渡して、幕府との交渉に入った。
 
彼らに接触した奉行所の役人たちは、ロシア艦隊の態度はすっかり気に入らせてしまったようだ。奉行に宛てた役人たちの意見書には、
地位の低い役人ですら「ロシアと審議を通じ、交易もすべきだ」とある。
奉行自身も「滞船のことも至って穏やかにて、慎み方よろしく」
「これまでは非法の儀もこれなく」
と言葉を添えている。
 
ロシア使節提督のエフィム・プチャーチン
全権代表や長崎奉行をはじめ役人たちは、丁寧、懇切、愛想のよさをこめてわれわれに尽くそうと務めていた。
大旅行家たちが日本人は極東随一の教養ある国民だと書いているが、まったくそのとおりだと思うことがあった。
長崎滞在中、日本人はわれわれに対する態度を最後まで変えなかった。ロシア側と友好関係に入ろうとする日本政府の意図の誠意を表明したのである。
とファインベルグ著「プチャーチン使節と日本 1853-1855年」に残されている。
 
 
ロシア側全権エフィム・プチャーチン    日本側全権勘定奉行・川路聖謨
 
嘉永7年10月14日(1854年12月3日)、プチャーチンは新鋭戦艦「ディアナ号」で長崎から回航して下田に来航した。
日本側全権大目付・筒井政憲と勘定奉行・川路聖謨が、応接係として急遽下田に派遣され、事前交渉がもたれた後に、第1回日露交渉が11月3日に福泉寺で始まる。
 
嘉永7年11月4目(1854年12月23日)の安政東海地震M 8.4)で「安政の大津波」が下田湾を襲い、この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事だった。
湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ、マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出た。
 
災害の中で、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出た。この厚意に応接係・村垣範正はいたく感服したと伝えられている。
 
沈没するフリゲート「ディアナ号」
 
ディアナ号は、大津波により大破して遠洋航海が不能にり、伊豆西海岸の戸田へと向かったが、激しい波風に押し流されて駿河湾の奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろす。ここで装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元漁民の決死の協力で再び航行を試みたが、艦は浸水激しく駿河湾に沈没した。
 
乗員およそ500人は全員救出されて無事戸田に収容された。乗艦を失ったプチャーチンは、直ちに代船の建造を幕府に願い出て、幕府もこれを許可、修理する予定だった戸田で天城山の木材を使用し、近郷の船大工を集めて、代船の建造が始まる。
 
君沢形一番船「ヘダ号」の絵図 ロシア海軍の軍艦旗を掲揚
 
完成した船は地名を冠して「ヘダ号」と名づけられた。この時、建造に参加した船大工は洋式造船の技術を習得する絶好の機会に恵まれた。
このスクーナー帆装形式は、日本で使用するために君沢形」として同型船10隻を量産した。形式は戸田村が属した君沢郡に由来する。安政2年(1855年)3月10日新造船「ヘダ号」進水、3月22日プチャーチン等乗組員第2陣はヘダ号で帰国する。
 
プチャーチンはディアナ号の遭難にもめげず、一ヶ月半後、発災から下田にとって帰り会談を続行した。
安政元年12月21日(1855年2月7日)、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲、川路聖謨、下田奉行・伊沢政義とのあいだで締結された。
 
日露和親条約(和文)
 
(オランダ語)Van nu af zal de grens tusschen de eilanden Itoroep(Iedorop) en Oeroep zyn. Het geheel eiland Itoroef behoort aan Japan en het geheel eiland Oerop, met de overige Koerilsche eilanden, ten noorden, behoren tot Russische bezittingen. Wat het eiland Krafto(Saghalien) aangaat, zoo blyft het ongedeeld tusschen Rusland en Japan, zoo als het tot nu toe geweest.
(蘭和訳:これから後、境界はイトルプ(イェドロプ)島とウロプ島の間にあるべし。イトルプ全島は日本に属しそしてウロプ全島は残りの、北のほうの、クリル諸島とともに、ロシアの所有に属する。カラフト(サハリン)島について言えば、従来どおりロシアと日本との間に不分割のままにとどまる)
 
(日本語)今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島と ウルップ島との間に在るへし ヱトロプ全島は日本に属し ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす 是まて仕来の通たるへし
 
オランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれているが、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」と書かれており、日本語では「残りの」が抜けている。
 
この正文間の文言の相違は、日露和親条約の時点ではなんら問題のないものであり、国境線は択捉島と得撫島との間に確定されていることが双方の正文により明示されているが、サンフランシスコ会議のさい日本が放棄することとした「クリル諸島」の解釈についての文理解釈のさいに取り上げられ論点とされている。
 
ところで、その後嘉永7年11月5日(1854年12月24日)安政南海地震M 8.4)、安政2年10月2日(1855年11月11日)安政江戸地震(M 6.9-7.4)が発生し、安政東海地震M 8.4)とあわせて安政三大地震」とも呼ばれている当時は「寅の大変」と呼ばれたようだ。