映画「東京行進曲」(1929) 日仏合体版(31分33秒)nakacoscraftさん
日活(太秦撮影所)の製作で、女優の夏川静江が主演している。
この主題歌(映画小唄)として「東京行進曲」が作られ、人気オペラ歌手の佐藤千夜子が歌い、ビクターオルソフオニツク(日本ビクターレコード)から映画と同時に発売されて大流行した。
大正12年(1923年)9月1日に発災した関東大震災から6年後に、帝都「東京市」の復興ぶりを唄ったとも云える。
当時の音楽界では売れっ子の西條八十が作詞して、中山晋平が作曲した。大正3年(1914年)から大正7年(1918年)の第一次世界大戦特需で日本は戦勝国で好景気だった。歌詞は世相を反映してモボ・モガの様子を色濃く映している。
佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 PRELUDE TypeRさん
1番は復興めざましい銀座界隈、2番は東京駅前の丸の内、3番は文化の中心だった浅草、4番は震災後に郊外の人口の急増にともない新たな繁華街として発展し始めた新宿がある。
映畫小唄「東京行進曲」
作詞:西條 八十
作曲:中山 晋平
獨唱:佐藤 千夜子
- 昔戀しい銀座の栁
仇な年増を誰が知る
ジャズでをどつて リキユルで更けて
あけれやダンサアのなみだあめ。
- 戀の丸ビルあの窓あたり
泣いて文かく人もある
ラツシユアワーに拾つたばらを
せめてあの娘の思ひ出に。
- 廣い東京戀故せまい
いきな淺草忍び逢ひ
あなた地下鐡私はバスよ
戀のストツプまゝならぬ。
- シネマ見ませうか
お茶のみませうか
いつそ小田急で逃げませうか
變る新宿あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る。
歌詞の中で、1番最終行、西條八十は当初「彼女の涙雨」としたが、中山晋平の注文で「ダンサアの涙雨」に変わったようだ。
4番の歌詞から「小田急(おだきゅ)る」という言葉が巷で流行して、当時は正式社名が「小田原急行鉄道」だった上、「駆け落ち電車」のレッテル張りに小田急側からクレームが入ったとのことだ。
西條八十は、早稲田大学文学部英文科卒業後に、フランスのソルボンヌ大学に留学して早大仏文学科教授となった。象徴詩の詩人として活動していたため、初めて手掛けた大衆文化である歌謡曲に戸惑っていた様子も伺える。
4番の「シネマ見ませうか、お茶のみませうか、いつそ小田急で逃げませうか」も、原案では「長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える『赤い恋』」だったようだ。
小説「赤い恋」は ソビエト共産党幹部の女流作家アレクサンドラ・コロンタイの作で、邦訳版は昭和2年(1927年)松尾四郎。
裕福なブルジョワ家庭に生まれて、21歳で結婚し子供も儲けるが、次第にマルクス主義に傾倒し、1898年家庭を捨ててチューリヒ大学でマルクス主義研究に入る。
コロンタイはレーニン、スターリンのもとで批判しながら大粛清に会わず、外交官にもなっていた。ソ連史上、非常に特異な存在であったとも云われている。
歌詞に戻ると、当時「エンゲルスガール」と共に「マルクスボーイ」は流行した言葉で「浅薄な知識をふりまわして、マルキシストを気取る青年」とのことである。
原案は歌謡曲にしては違和感満載だが、ここだけ唐突に「政治色が強すぎる」との配慮で「シネマ見ませうか、お茶のみませうか・・・」に変更されたようだ。