サムネ
浪曲と云えば、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。特にテレビが各家庭に普及するまでは、ラジオから落語、講談などと共に浪曲は流れてきていた。こうした話芸は、次はどうなるか解っていても同じ題目を何回でも楽しめた。
中でも、「清水次郎長伝」の森の石松が主人公の「石松三十石船道中」は、映画になったり、他の話芸でも使われていたので、ベストヒットだと云えよう。
話芸の多くは、時々によって語り口が異なることもあるが、戦後に録音された二代目広沢虎造の「石松三十石船道中」は、軽妙な語り口で特に評判が良い。
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石松三十石船 / 二代目 広沢虎造
Dennis Charles さん
https://www.youtube.com/embed/e92673xt3Ww
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全編が、江戸言葉なので、「ひ→し」など、現代では解り難い面のあるが、畳みかけるようなイキでイナセな語り口になっている。
それでは早速。あまりにも有名な、枕から…。

Youtube time shift(00´14")

旅行けば、駿河の道に茶の香り。
流れも清き太田川、若鮎躍(おど)る頃となる。
松も緑の色も冴え、遠州森町良い茶の出どこ、
娘やりたやお茶積みに、ここは名代の火伏(しぶせ)の神。
秋葉神社の参道に、産声あげし快男児。
昭和の御代(みよ)まで名を遺(のこ)す、遠州森の石松を
不便ながら、務(つと)めます。
八軒屋から伏見に渡す渡し船は、
三十石と云いますから、かなり大きい船でしょう。
これィ石松っさんが乗込んで、
余計なお宝払って、胴(どう)の間のところ、
畳(たたみ)一畳ばかりを借切って、
親分には内緒だが、途中で買ってきた小さな酒樽、
ふちの欠けた湯呑に注いで飲む。
大阪本町橋の名物、押し寿司を脇に置いて、
酒を飲み、寿司を食べている内に、
船が川の中半(なかば)へ出る。
乗合衆(のりあいしゅう)の話、
利口が馬鹿になって大きな声で喋(しゃべ)る。
つまり退屈しのぎ、この話を黙って聞いていると面白い。
お国自慢に名物自慢、仕舞いには豪傑の話が出る。
「武蔵坊弁慶と野見宿禰(のみのすくね)が、
相撲を取ったらどっちが強いだろう。」
「ヘン、つまらねえ話をしていやがる。
弁慶と野見宿禰が相撲取ってたまるかい。」
「だけど面白いな。この話が酒の肴(さかな)になるからナ。」

遠州森町(静岡県周智郡森町)の宿屋「福田屋」の倅(せがれ)として生まれた石松は、家業を嫌ってヤクザになった。
親分「次郎長」の命で四国讃岐の金毘羅宮に、保下田(ほげた)の久六を討った刀を納めに代参した。その帰り道に、大阪見物を済まして京都まで乗った船の中の出来事。

歌川広重「京都名所の内淀川」(国会図書館デジタルコレクション)
八軒屋は大阪の中心(大阪市中央区)にある船着場で、旧淀川を上って京都の伏見までの道中。三十石船は全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人~30人だったそうだ。
胴の間(どうのま)とは、船の中央部分で比較的揺れの少ない場所で、優雅に一畳分の場所を貸切り、「余計なお宝=余分な料金」を支払った。
本町橋の大阪名物の押し寿司(箱寿司またはバッテラ)と小さな酒樽を手に、乗合衆の他愛もない話を聞いていた。
前回、述べたが「野見宿禰(のみのすくね)」は、垂仁7年(西暦=紀元前27年)7月7日の相撲節会で相撲を取ったことで、戦前の人には馴染みだったようだ。
武蔵坊弁慶(鎌倉時代)と、野見宿禰が相撲を取る訳ないのだが、暇つぶしになったようだ。

Youtube time shift(03´26")

笑いながら飲んでたら、この話に枝から枝、
何時しか咲いたよ見事な花が、
変わりました親分衆の話となる。
商売は道によって賢(かしこ)し、とやら。
自分の渡世(とせい)の話が出た。
もう親分次郎長の、確か名前が出る時分と。
乱暴者の石松が、聞いているとは夢にも知らず。
乗合衆は大きな声、
「お前さん、何だね。大変、アノ~バクチ打が詳しいね。」
「ワッシャ、このヤクザ者が好きでがしてね。」
「ハァ、どうでしょう、どの国に一番いい親分がいますね。」
「そらァ、まあ何て云っても関東でげしょう。」
「エ。」
「関東、甲州、上州、武州、下総(しもおさ)、
信州なんて云ったらばくち打ちの本場と言ってもいいぐらいで、
イイ親分がいますからな。」
「ハァ。」
「土地に似合わないイイ親分のいるところが伊勢。
伊勢にはイイ親分がいるね。」
「けど親分の数の多いところは、誰が何といっても東海道。
東海道にはイイのが居ンで。
三州、寺津の間之助、
西尾の治助、
見付の大和田友蔵、
藤枝長楽寺清兵衛、
伊豆の大場(だいば)の久八、
富士郡(ごおり)宮島歳三、
宝飯郡(ほいぐん)雲風亀吉、
五井の玉屋の源六、
何てったら凄いからな。」
「ハハァ、詳しいなお前さんは、
今、街道一の親分てェと誰でしょうね。」
「ないね。ヘェ。ありません。
東海道に親分の数はあるが、同なじぐらいに肩を並べて、
グウと頭抜(ずぬ)けたのはないが、
五年経つと街道一の親分が出来ますよ。」
「ハア、誰です。」
「この船が伏見に着く、少ォし下(しも)にくだる。
草津の追分に見受山の鎌太郎。
歳は二十八だが、筆が立って、算盤が高い。
ヤクザに強いが、堅気に弱い、真の侠客。
この見受山の鎌太郎、五年経ったら街道一の親分でがしょうな。」
「成ァる程な、名前は聞いているが、お目に掛かったことはねェ。
見受山の鎌太郎てえのは、何処行っても評判がイイ。
帰りがけ通らりゃならねェ草津の追分か。
一宿一飯でお世話になって、
俺は秤じゃねェが向うの貫録をチョイっと測ってみようか。」
独り言を言っている脇で、イイ気持ちに寝ていた男が、
ガバッと起き上がって、
「オ、オ、オ、エ~チキショウ、煩(う)るせいなァ、
ガーガー騒ぎやがって寝らんねェや。
しょうがねェから、話相手になろうと思ったら、
弁慶と野見宿禰が相撲取ったって言いやがる。
馬鹿々々しいから黙っていたんだ。
オー、オー、オー、有り難ていな、ヤクザモンの話になったな。
江戸っ子だ、神田っ子だ、ふざけやがって。
あの荷物のところに寄っかかっている人、
オゥ、今、お前さん何とか言ったね。
オゥ、五年経ったら街道一の親分が出来る?
笑わせやがらあ、来年の話をすると鬼が笑うってんだい。
五年先の話をしたら、鬼は何て言って笑うんだ。
今、笑いように困っているじゃねェか、鬼がョ。
だからサァ、今の話をしてくれ、
街道一の親分は、今立派にあるじゃねェか。」
「それを知らなかった、街道一の親分は、
いったい誰でございましょう。」
「駿河の国が安倍郡(あべごおり)、
清水湊有渡(うど)町に住む山本長五郎。
通称、清水次郎長。これが街道一の親分ョ。」

大親分と言われるヤクザは、義理と人情を心得ていて民衆から絶大な人気があったようだ。
ここに出てくる親分衆は、実在の人物とは限らないが、おおむね歴史に残っているようだ。この部分の語りは、講釈師、三代目神田伯山による講談「名も高き富士の山本」の影響が色濃く残っている。
いよいよ「鮨食いねェ」でお馴染みの「江戸っ子」が登場してきた。江戸っ子の軽妙な語り口が虎造節の真骨頂とも言える。
いよいよ石松が、乗合衆の話に首を突っ込む。虎造の有名な語り口で「持った茶碗をバッタと落とし。」があるが、このセリフを期待している聴衆に「持った盃ソッと置く。」と小気味よく裏切っているのも虎造。

Youtube time shift(07´53")

酒飲みながら、この話、聞いていました石松も
今の話が出たときは、思わず知らずニッコリ笑い、持った盃ソッと置く。
待てば海路の日和あり。
「エ~有り難ていのが出てきやがった。
もう親分の名前が出るだろうとさっきから待っていたんだが、
やっぱりこう云う話は、江戸っ子に限るね。
アン畜生(ちきしょう)、馬鹿に気に入っちゃったよ。
一杯飲ましてやろう。」
「オーウ、オ、江戸っ子、江戸っ子、オー若えの、
今喋(しゃべ)っているの、オゥ、あの寝起きのイイの。」
「なんだ色んなこと言ってやがる。俺かい。」
「オメエだ、オメエだ、オメエだよ。ここへ来ねェ。ここへ。
ここへ座んねェ。
いいよ、余計な金払って借切った俺の場所だィ。
大きく云や、俺の城下(じょうか)だ。
遠慮はねェ、座んねェ。」
「有難う。」
「江戸っ子だってな。」
「神田の生まれだ。」
「イイな。京、大阪の人の言葉は、あんまり大人しくて、
こちとら喋っていて、きまりが悪くてしょうがねェ。
そこ行くと江戸っ子だい。長い話は短くて済んじまうんだ。
これを唱えて「ざっくばらん」てェんだ。
ノゥ、飲みねェ、オゥ、飲みねェ、飲めるんだろう。
フフン、そうだろう鼻が赤けいや。」
「何を言いやがるんでェ。よせやい。」
「ハッハッハッハッハッハッ、そう怒るなってことよ。ホイきた。
今、なんだな、ヤクザモンの話をしたな。」
「さいで御座い。」
「街道一の親分は、何とか言ったな。」
「清水次郎長、ナァ次郎長。」
「次郎長ってのは、そんなに偉いか。」
「エッ。」
「次郎長ってのは、そんなに偉いか。」
「オゥ。」
「何だい。」
「酒をご馳走になったり、寿司をご馳走になったりして、
文句言いたくねェが、文句を言いたくなるじゃねェか。
口は災いの門、舌は災いの根ってことを知らねェか。
次郎長てえのは、そんなに偉いか?とは何だよ。
か?だのだろうという言葉は人を疑るよう。
関東八か国、管内六か国、十四か国にバクチ打ちの親分の数ある中に、次郎長ぐらい偉いのが二人とあってたまるかい。」
「飲みねェ、飲みねェ、オゥ飲みねェ、オゥ寿司食いねェ、
寿司を、もっとこっちに寄んねェ。江戸っ子だってね。」
「神田の生まれよ。」
「そうだってね、そんなに何かい、オィ、次郎長は偉いかい。」
「偉いったって、けどお前さんの前だけど、
次郎長ばかりが偉いんじゃない。」
「まだ他に偉いのがあるか。」
「物事出世をするのには、話し相手、番頭役が肝心さ。」

風貌から見ても、一見でヤクザと解る石松に声を掛けられても、対等に受け答えする一般庶民の応対に、戦後生まれとしては驚くのだが、戦前は「ヤクザは堅気に手を出さない」というルールが徹底していたと言われている。
大衆から「後ろ指」を指されるようでは、「ヤクザは務まらなかった」と云えよう。
よほど阿漕(あこぎ)な事でもない限り、ヤクザ者は堅気に手を出さないものだと、安心していた為だろう。
私利私欲のために暴力を振りかざすことは、ヤクザの貫録を著しく貶(おとし)めることで、たとえヤクザ同士の喧嘩でも、堅気に迷惑を掛けないことが大前提だった。
相当、評判の悪いと言われた親分でも、それはヤクザ内の事で、堅気を相手にすることには、真っ向から批判の的になった。
その結果、ヤクザの親分が、二足の草鞋(わらじ)と云う、「地域の親分」であると共に、「十手持ち」と云う警察官の役目も担うことができたのだろう。
終戦直後の動乱のさなか、GHQの手かせ足かせで身動きが取れなかった警察組織を、支えた「山口組三代目」をはじめ、全国のヤクザの親分達が居たことを考えれば理解も出来る。
GHQの欧米的「マフィア論理」には、到底理解できなかった考え方だろう。
これから先が、石松を焦(じ)らす江戸っ子の軽妙な受け答えが始まる。有名な「酒飲みねェ」「寿司食いねェ」だが、いつまで待っても江戸っ子の口から「森の石松」の名前が出て来ない。

Youtube time shift(11´14")

出世大将、太閤秀吉公に竹中半兵衛という人あり、
徳川家康公に南光坊天海あり、
ぐっと下がるが、紀州の人、みかんで売り出すあの紀伊国屋文左衛門も
仙台の浪人で、林長五郎という人が、
番頭さんになったから、文左衛門が出世をした。
次郎長とてもその通り、話し相手が偉いのよ。
「イイ話し相手が居るからな、あそこには。」
「誰だい、その次郎長の話し相手てのは。」
「子分だよ。」
「エ。」
「子分、イイ子分が居るで、次郎長には。」
「飲みねェ、飲みねェ、オゥ、飲みねェ、
オ、寿司食いねェ、寿司を。
もっとこっちへ寄んねい、江戸っ子だってね。」
「神田の生まれよ。」
「そうだってね、そんなに何か、
アノ次郎長にはイイ子分が居るかい。」
「居るかいどころの騒ぎじゃないよ。
千人近く子分があって、その中に大貸元を務めて、
人に親分、兄いと言われるような人が二十八人、
これを唱えて清水の二十八人衆。
この二十八人衆の中に次郎長ぐらい偉いのが五、六人居るからね。」
「飲みねェ、オゥ、飲みねェ、オゥ、もっとこっちへ寄んねェ。」
「神田の生まれよ。」
「んなこと聞いてやしねェじゃねェか。
よせよ、神田、神田ってつッてやがら、さっきから。
オゥ、お前の生まれなんか、どうだってイイんだよ、こうなったら。
お前さんね、馬鹿に詳しいようで、オレ聞くんだけど、
次郎長の子分の大勢ある中で、兄、弟の貫録は問わないが、
一番強いのは誰だか知ってるかい。」
「そら知ってらい。」
「誰が強い。」
「清水一家で一番強いのは。」
「ウン」
「尾張の御先手、槍組の小頭、槍を取っては山本流の使い手、
山本政五郎。
武家を嫌ってヤクザになって、次郎長の子分、
身体が大きいから清水の大政、これが一番だな。」
「ア~、やっぱりあいつにはかなわねェな。
あの野郎、槍を使いやがるからね。
俺はまるっきり槍を知らねェからね、やりっぱなしだから俺は。
と、二番は誰だ。」
「浜松の魚売りの倅(せがれ)、
お父つァんに患(わずら)われて食うことができない。
シジミを売って親孝行。
お上(かみ)から、三度、褒美を頂いたが、
十三の暮れにお父つァんに死に別れて、
何とかヤケだってンで、バクチ打ちになって次郎長の子分。
身体が小さいから、人が馬鹿にしていけない。
こうゆう家業は、馬鹿にされちゃ男ンなれねい。
今日から剣術を習おう。
並大抵の剣術じゃだめだって、居合抜きを習った。
山椒小粒でヒリリと辛い、大きな喧嘩は大政だが、
小さい喧嘩は小政に限るって。小政が二番だな。」
「あん畜生、手が早いからね、ドーモ。三番は誰でい。」
「千住の草加の在の大瀬村の村役人の倅(せがれ)、
大瀬半五郎だね。」
「あいつあ、利口だからな、人間がな。
おれはどっちかてえと、少しおっちょこちょいだからな、
まったく。で、四番は誰でえ。」
「遠州秋葉、三尺坊(さんじゃくぼう)の火祭りで、
お父つァんの敵討ちをした増川仙右衛門だな。」
「ア~五番だな、俺はなあ。段々、段々下がって来やがる。
だけど否(いや)が応でも、五番にや俺よりねェだろう。五番は。」
「法印大五郎。」
「六番は。」
「追分三五郎。」
「七番は。」
「尾張の大野の鶴吉。」
「八番は。」
「尾張の桶屋の吉五郎。」
「九番は。」
「三保の松五郎。」
「十番は。」
「問屋場の大熊。」
「出て来ねェね。俺はね。こね野郎、俺を知らねェな。
嫌な野郎に会っちゃたな、こりゃあ。
ずいぶん寿司を食いやがって、マタ。十一番は。」
「鳥羽熊。」
「十二番は。」
「豚松。」
「十三番は。」
「伊達の五郎。」
「十四番は。」
「石屋の重吉(じゅうきち)。」
「十五番は。」
「お相撲綱。」
「十六番は。」
「滑栗(なめぐり)初五郎。」
「十七番は。」
「煩(うる)せいな、オイ。下足の札貰ってんじゃねェや。
何言ってやんだ。十六番、十七番って言ってやンだ。
いくら次郎長の子分が強いッたって、
強いといって自慢するのはそんなもんだ。
後の奴は、一山いくらのガリガリ亡者ばっかりだよ。」
「こね野郎、とうとうガリガリ亡者にしやがったな、俺を。」
「ヤイ、もっと前へ出ろ。面白くねェな、テメエは。
俺はね、初めてオメエの顔を見たときに、
ヤァこいつは面白くねェなと思ったんだ、本当は。
さっきから黙って見てりゃ、誰のモン食っているんだ。
酒だって、寿司だって、みんな俺が買ったんだぞ。
たとえ飲みねェ、食いねェったってね、人ってものは遠慮するもンだ。
なに? もう食いません。
なんだ、あらから食っちゃったじゃねェか、オメエは。
なにも酒飲んだ、寿司を食ったからって、
怒るようなしみったれじゃねェや、俺は。
けど、怒りたくなるじゃねェか。
オメエ何だね、詳しいように見えて、あんまり詳しくねェな。
次郎長の子分で、肝心なのを一人忘れてやしませんかってんだ。
この船が伏見に着くまででいいから、胸に手ェ当てて、
よおく考えてくれ。エ、オイ。」
「泣いたってしょうがねェな、お前さんな。
いくら胸に手をあてて考えてたって、
そのほ~か~に、強~いといい、強い。オ~、一人あった。」
「それ見ろ、誰だい。」
「こりゃ強いや。」
「オー。」
「奇妙院常五郎。」
「ヤな野郎だね、こん畜生。」

石松がジリジリ待っていても出て来ない。仕舞いには江戸っ子に「下足番じゃねェ」と怒られる始末だ。
解ってはいながら、まだか、まだか、と聴衆も引き込まれていく場面だ。虎造の話芸が如何なく発揮される部分で、更にダメ押しで「奇妙院常五郎」とは意地が悪い。
語りは連続して続くが、いよいよ石松三十石船のクライマックスで、待ちに待った石松の名前が出てくるのだが…。

Youtube time shift(17´45")
「思わせ振りをするな、思わせ振りを。
そんなもんを考えろってんじゃねェや。
もっと強いのがあんでしょ。
清水一家で一番強いのは、特別強いのが、あるんだよ。
お前さんね、気を落ち着けて考えてくれ、もう何事も心配しないで。」
「何も、心配(しんぺい)なんかしてねェや。
どう考えたって、誰に言わしたって、清水一家で一番強いてえば、
大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい…。
アレ、大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい…、
いの一番に言わなきゃならない、
清水一家で一番強いのを一人忘れていたよ。」
「面白くなってきやがったな、これは。
これね、この酒ね、今飲めってエンじゃないよ。
お預けだよ、コリャ。
後の出ようによって、みんな飲ましちゃうんだから。
エ~、誰が一番強い。」
「コリャ強い、大政だって、小政だって敵(かな)わない。
清水一家で離れて強い。」
「ウン」
「遠州森の生まれだ。」
「待った、お上がんなさい、お上がんなさいよ。
もっとこっちい寄んなよ。
俺ね、何となくお前さんが好きでしょうがねェ、ナァ。
初めてお前さんの顔を見たときに、
ア~この人はイイなと思ったよ、ナァ。
あのね、今日は午(んま)の日だよ。
船が伏見い着いたら、御山をお参りして、京都見物が済んだら、
あんたの身体を二晩借りたよ祇園の町で。
おら、祇園で二晩押しちゃうぜ。」
「本当かい。」
「もっと、こっちい寄んなよ、こっちい。
「エー。」
「誰が一番強い。」
「これは強い。遠州森の福田屋と云う宿屋の倅(せがれ)だ。」
「なるほど。」
「左の眼。左の…アレ、大変だよこりゃ。
俺はこの話はしたくなかった。
うまく忘れてたんだけど、考えろ、考えろって言いやがる。」
「どうしたい。」
「エ。」
「どうしたい。」
「不味いよ、話が合っちゃったよ。お前さんと同ンなじだィ。」
「何が。」
「エ。」
「何が同ンじだィ。」
「それがね、変なとこなんだよ。大きな声じゃ言えないがね。」
「アァ。」
「片っ方、良くない。」
「エー。」
「片っ方、良くないんだよ。」
「何が。」
「エ。」
「何が片っ方良くねェ。」
「それがね、眼が片っ方良くない。」
「アー、懐かしいな、そりゃあなァ、オィ。
で、随分面白いな。どう、どっちの眼だ。」
「エ。」
「どっちの眼が良くねェ。」
「あの人ね、あの人はつまり、こう向いてね、こう向いてこっち。
同ンなじなんだよ、やっぱりこの左なんだよ。
森の石松ってんだィ。これが一番強いやィ。」
「飲みねェ、飲みねェ、オゥ飲みねェ、
オゥ、寿司を食いねェ、寿司を。
もっとこっちへ寄んねェ。江戸っ子だってね。」
「神田の生まれよだい。」
「そうだってな。そんなに、何か、石松は強いかい。」
「強いかい、なんてのはこんなもんじゃないよ。
神武この方、バクチ打ちの数ある中に、
強いと言ったら石松さんが日本一でしょうな。」
「オメエ、小遣いやろうか?
オ、エ、有んのかい、そうかい、そんなに強い。」
「強いったって、あんな強いのないよ。」
「そう。」
「だけどあいつは、人間が馬鹿だからね。」
「嫌な野郎だね、こいつは。上げたり下げたりしてやがる。
誰が馬鹿だい。」
「エ。」
「誰が馬鹿だい。」
「石松が。」
「清水一家の森の石松は馬鹿かい。」
「馬鹿ったってね、東海道で一番馬鹿なんだ、あいつは。
だからね、お前さん、東海道をゆっくり歩いてご覧なさい。
あいつのうわさで大変。
この頃、小さな娘(むすめ)がねえ、子守歌に歌ってますよ。」
「何を。」
「石松つァんのことを。」
「子守歌?」
「エエ。」
「ヘ~、俺は聞いたことがねえが、お前その子守歌を知ってるか?」
「ワシャ、知ってますよ。」
「フウン、やってみな。」
「エ。」
「やってみな。」
「何を。」
「子守歌」
「エ~、やってみましょう。」

お茶の香りの東海道、清水一家の名物男。
遠州森の石松は、素面(しらふ)の時は良いけれど。
お酒飲んだら乱暴者よ、喧嘩早いが玉に傷。
馬鹿は、死ななきゃ、治らない。
「石松ってやつは、本当に馬鹿だからね、あいつは。」
「チキショウ、がっかりさせやがる、こね野郎。
ア~、小遣いやらなくて良かったよ、コリャ。」

思いっきり持ち上げて、「石松ってやつは、本当に馬鹿だからね」と奈落の底に突き落とす。虎造の人気が理解できる気がした。

Youtube time shift(23´10")

笑いの内にこの船が、無事に伏見に着きました。
船から上がる石松が、御山(おやま)をお参り、京都見物できまして、
これから清水に帰り道、通りかかったところは、
草津追分、見受山、ここの貸元、鎌太郎。
お目に掛かったことはないけれど、
人のうわさでチョイチョイ聞くが、かなり評判のイイお方。
どのぐらい貫録を持つ人か、秤(はかり)じゃねえがこの俺が、
チョイと測ってみよかなと、独り言を言いながら、
参りましたよ鎌太郎宅。
この時の石松の姿が、白の蛇型(じゃがた)の単衣(ひとえ)、
紺の一本独鈷(どっこ)、手綱(たづな)染めの上(うわ)三尺、
千種(ちぐさ)の半股引(ももひき)、
同じく山の付かない脚絆(きゃはん)、素足に草鞋(わらじ)、
着物の裾を三方高(さんぼうたっか)く端折(はしょ)って、
丸の中に金の字、真鍮の金具の打ったのが、
金比羅山のお守り、
それを背中に背負(しょ)って、笠をあみだに被って、
こぼれ松葉の手拭いを首ンところに引っ掛けて、
新刀鍛冶、池田鬼神丸を一本差して、
右の手に要(かなめ)の取れた扇子を一本持っていたそうです。
鎌太郎の家の前まで来ると、被っている笠を取って脇い置いた。
差しているものを抜いて、
下(さ)げを柄頭(つかがしら)いチョイっと絡(から)んで
鐺(こじり)を前い出した。
それを右の手に持ちました。
ご当家には恨み、遺恨は御座いません。
お手向かいは致しません。
口には出さない、形で見せる、因果な稼業。
そうして切った石松の仁義が、誠に立派であった。
見受山鎌太郎と森の石松のお話し。

丁度時間となりました。チョト一息願いまして、またのご縁とお預かり。

戦前は普通に使われていた服装の説明なのだが、特に興味のある人以外に、現代では理解できないかも知れない。
長ドスや蛇型の単衣など、多少派手ではあったものの、ヤクザだけではなく、江戸時代の町人の旅姿としては、一般的な服装だったのだろう。

浪曲が流行した時代には、全国の寄席、芝居小屋、公会堂などが主で、当時掛ける映画が乏しかった映画館でも公演が行われていた。大正14年(1925年)にラジオの本放送が始まると、各局から引っ張りだこだったようだ。
中でも、二代目広沢虎造はラジオで人気を博し、全国の一般大衆に支持された。こうして語りの締めに次の演題の触りを入れるのは、云わば予告編のようなもので、聴衆を引き留めるために、浪曲では次回予告を披露されることが多い。
ちょうど時間となりました。

この度、Yahooブログが終了したため、こちらに引越してきました。書込む文字数が増えて全文を1ページで掲載できました。
なお聞取りの間違い、誤字、脱字、解釈の間違いなどありましたら、お手数ですがコメント欄からご指摘いただけると幸甚です。では今後とも宜しくお願い致します。
 
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