サムネ | ||||||||
つい先ごろ米国大統領選遊説で、バイデン米国副大統領が、対立するトランプ候補の攻撃で発した一言が話題になった。 | ||||||||
Does he not realise we wrote the Japanese constitution so they could not own a nuclear weapon ? Where was he in school ? |
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私たちが核武装させないために日本国憲法を書いたことも知らないのか? 学校で習わなかったのか? |
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The Biden Nuclear Remark That Got Japan's Attention https://www.youtube.com/watch?v=NSyR76Kxw7Y |
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バイデン副大統領の「we wrote the Japanese constitution」に対して、後ろに座っているクリントン候補もシッカリ頷いている。 | ||||||||
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この発言に過剰反応したのか、朝日新聞は英文で反論していた。 | ||||||||
VOX POPULI: Biden's remark on Japan’s Constitution insensitive | ||||||||
(民の声:日本憲法への鈍感なバイデンの発言) | ||||||||
http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201608170024.html | ||||||||
一部の特殊な考え方の人を除いて、多くの国民には明々白々な事だが、時折バイデン発言に対して「朝日的思想」でゴネるブログ記事などを散見する。 | ||||||||
憲法9条(戦争放棄)の発案者が幣原喜重郎である…などと妄想を捨てきれない人もいるようだ。 | ||||||||
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1950年代の中曽根康弘 |
個人的には、そもそも占領下で制定された憲法に正当性は感じられないのだが、当時の一般庶民はどの様に感じていたのだろうか? | |||||||
1956年(昭和31年)衆議院議員中曽根康弘が作詞した「憲法改正の歌」に、当時の心情が歌われている。当時、現役だった人は、平和ボケした今より憲法改正または自主憲法制定に、真剣に取組んでいたと感じた。 | ||||||||
「占領憲法強制し、祖国の解体を計りたり」とアメリカを痛烈に批判している。そして5番に「この憲法のある限り、無条件権降伏続くなり」と中々過激だ。 | ||||||||
中曽根さんの作詞(演説かな?)センスはさて置いて、今の国会議員の腑抜け振りには落胆するばかりだ。 | ||||||||
憲法改正の歌 | ||||||||
歌:明本京静 安西愛子 コロンビア合唱団 | ||||||||
鳴呼、戦いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す | ||||||||
平和民主の名の下に 占領憲法強制し | ||||||||
祖国の解体計りたり 時は終戦6ヶ月 | ||||||||
占領軍は命令す 若(も)しこの憲法用いずば | ||||||||
天皇の地位請け合わず 涙をのんで国民は | ||||||||
国の前途を憂(うれ)いつつ マック憲法迎えたり | ||||||||
憲法改正の歌 kouki 2600さん https://www.youtube.com/watch?v=x21PiXfWxSg |
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2番に「マック憲法」の言葉が出てきますが、憲法改正10年目という時期に自主憲法に対する熱い想いが伝わってきます。 | ||||||||
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それでは終戦から憲法改定の施行までの間に、マック憲法が作られた約2年間を時系列でまとめてみた。 | ||||||||
関係者を見るとGHQに入り込んでいたソ連(コミンテルン)のスパイと戦前、戦中の社会主義者(特高では一部にスパイの疑い)が、マッカーサー=マック元帥の周囲で政策に影響を与えていたようだ。 | ||||||||
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日本の降伏文書調印 | 昭和20年09月02日 | |||||||
東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において調印された。日本側は、天皇および大日本帝国政府の命により、かつ、その名において重光葵外務大臣が、また大本営の命により、かつ、その名において梅津美治郎参謀総長が署名した。 | ||||||||
12項目の憲法改正の指針 | 昭和20年10月08日 | |||||||
マッカーサーの政治顧問であるジョージ・アチソン(国務省から派遣)が近衛文麿に12項目の憲法改正の指針を与える。この指針には「権利章典」を設けることが含まれる。 | ||||||||
幣原内閣誕生 | 昭和21年05月22日 | |||||||
日本進歩党総裁「幣原喜重郎」第44代内閣総理大臣に就任。 | ||||||||
憲法研究会発足 | 昭和20年10月29日 | |||||||
元東京大学経済学部教授であった社会統計学者・高野岩三郎が、敗戦直後の1945年10月29日、日本文化人連盟の設立準備会の際、戦前から左派の立場で憲法史研究を続けていた鈴木安蔵(京都学連事件で検挙・憲法学者)に提起し、さらに馬場恒吾(ジャーナリスト)・杉森孝次郎(早稲田大学教授)・森戸辰男(元東京帝国大学経済学部助教授)・岩淵辰雄(評論家で貴族院議員)・室伏高信(評論家)らが主なメンバーとして参加し発足した。 | ||||||||
GHQ「近衛に憲法改正を委ねてはいない」と声明 | 昭和20年11月01日 | |||||||
岩淵辰雄(憲兵からは「イワン」の暗号名で呼ばれていた)は、4月に吉田茂、殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕される。釈放後、近衛文麿に憲法改正案を作成するよう説得した岩淵辰雄は、GHQが「近衛に憲法改正を委ねてはいない」と声明を出し、落胆するとともに民間から輿論を挙げることを考える。 | ||||||||
ノーマンはアチソンに覚え書きを送る | 昭和20年11月05日 | |||||||
日本生まれの日本史の歴史学者で、マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵による明治史研究会に1940年頃から参加し、戦後はGHQ/SCAPの対敵諜報部 調査分析課長となっていたハーバート・ノーマン(ヴェノナファイルでソ連スパイと特定)は、ジョージ・アチソンに覚え書きを送り、それがマッカーサーが近衛を見捨てるきっかけとなった。また戦前の日本の政党の活動を禁止した日本共産党だけはノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。 | ||||||||
憲法研究会の初会合 | 昭和20年11月05日 | |||||||
憲法研究会の初会合が開かれる。 | ||||||||
憲法研究会第三回会合 | 昭和20年11月21日 | |||||||
憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される。会合において、室伏は「...天皇は...儀礼的代表としてのみ残る。...」と発言し、森戸は「天皇は...君臨すれども統治せずの原則により...国家の元首として国家を代表し...」と発言する。 | ||||||||
鈴木安蔵は「天皇が元首」と宣言 | 昭和20年11月29日 | |||||||
鈴木安蔵が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている。 | ||||||||
憲法草案要綱の発表 | 昭和20年12月26日 | |||||||
憲法研究会(高野岩三郎、鈴木安藏、室伏高信、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄ら)による憲法草案要綱を発表。象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用。 1945年12月26日に「憲法草案要綱」を首相官邸に提出し、翌々日に新聞発表された。なお、これにGHQが注目した記録があるため、GHQ案を原型とする現行の日本国憲法の内容に、国民主権などの点で間接的に多くの影響を及ぼしたと、小西豊治は主張している。 |
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日本共和国憲法私案要綱を提示 | 昭和20年12月28日 | |||||||
憲法研究会の主軸であったにもかかわらず天皇制を残したことに関して不満を表明し、単独で高野岩三郎が構想した。大統領を元首とする共和制を提示。 | ||||||||
ラウエル文書が作成 | 昭和20年12月31日 | |||||||
この案が新聞に発表された5日後の12月31日には連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部(G2)所属の翻訳通訳部の手で英訳され、詳細な検討を実施したGHQのラウエル法規課長は、翌年1月11日付で、「この憲法草案に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と評価している。 ラウエルは同案を参照し、欠けていた憲法の最高法規性、違憲法令(立法)審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障(人身の自由規定)、地方公務員の選挙規定等10項目の原則について記述して、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名しいわゆる「ラウエル文書」が作成された。 |
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アチソンが米国国務長官に書簡 | 昭和21年01月02日 | |||||||
アチソンが米国国務長官に、この草案が注目すべき内容であるとの書簡を書く。書簡には、12月27日に幣原首相に提出された憲法の翻訳を同封する、と記される。 | ||||||||
ラウエル文書が憲法改正草案の国民主権を評価 | 昭和21年01月11日 | |||||||
GHQ民生局のマイロ・ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる。 | ||||||||
マッカーサー・ノートを示す | 昭和21年02月03日 | |||||||
マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)に、「天皇は国家の元首の地位にある」 "Emperor is at the head of the state." と書かれる。 このとき日本の憲法改正に際して守るべき三原則(マッカーサー・ノート)を、憲法草案起草の責任者コートニー・ホイットニー民政局長に示した。
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GHQ憲法起草チーム初会合で強制力の権限 | 昭和21年02月04日 | |||||||
マッカーサー・ノートを受け、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する8つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。 GHQが1946年2月4日に憲法草案起草のために開いた初会合において、ホイットニー准将はマッカーサーからGHQ草案を受諾させるために強制力を用いる恫喝を使用する権限と、強制力そのものを行使する権限を付与されていることを憲法起草チームの全員の前で明らかにした。 |
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民生局ケーディス大佐の所感 | 昭和21年02月06日 | |||||||
GHQ民政局の会合で、ケーディス大佐は「アメリカの政治のイデオロギーと、日本の憲法思想中の最良ないし最もリベラルなものとの間には、ギャップは存在しない」と述べる。 | ||||||||
マッカーサー草案完成 | 昭和21年02月12日 | |||||||
民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に九十二箇条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。 | ||||||||
マッカーサー草案が日本政府に提示 | 昭和21年02月13日 | |||||||
「マッカーサー草案」(GHQ草案)が日本政府に提示された。 | ||||||||
日本國憲法草案(憲法懇話会)発表 | 昭和21年03月05日 | |||||||
憲法懇話会(尾崎行雄、岩波茂雄、渡辺幾治郎、石田秀人、稻田正次、海野晋吉)による日本國憲法草案が発表。立法権を天皇と議会に認め、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院を設置する。司法裁判所に違憲審査権を付与する。 | ||||||||
日本政府は「憲法改正草案」を発表 | 昭和21年04月17日 | |||||||
日本政府は「マッカーサー草案」(GHQ草案)に基づき総司令部との折衝の下、4月17日、口語化と修正を加え「憲法改正草案」を発表。 | ||||||||
第1次吉田内閣誕生 | 昭和21年05月22日 | |||||||
日本自由党総裁「吉田茂」第45代内閣総理大臣に就任。 | ||||||||
枢密院可決 | 昭和21年06月08日 | |||||||
昭和天皇臨席の下、枢密院はこれを可決。 | ||||||||
衆議院可決 | 昭和21年08月24日 | |||||||
衆議院において若干の修正を加え圧倒的多数で可決。修正の詳細は国立国会図書館の資料参照。 | ||||||||
衆議院修正可決「帝国憲法改正案」報告書 帝国憲法改正案(政府提出) https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/124_1shoshi.html |
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貴族院可決 | 昭和21年10月06日 | |||||||
貴族院は、若干の修正を加え可決。 | ||||||||
帝国議会での憲法改正手続終了 | 昭和21年10月07日 | |||||||
衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続はすべて終了した。 なお、GHQが憲法草案を起草したことに関して言及することは、日本国憲法違反の事前検閲を行ってまで固く禁止されていた。検閲が存在する事への言及も認められなかった。 | ||||||||
日本国憲法施行 | 昭和22年05月03日 | |||||||
1945年(昭和20年)8月15日に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。 そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 |