物心がついて此の方、反発心から養父母について「無関心」そのものだった訳だが、2人が他界してしばらく過ぎた10年ほど前に、自身の若い頃の写真を探す為に古いアルバムを開いていた時だった。
 
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昭和14年12月20日 南京
最も古びたアルバムの中に、養父の青年時代を見つけた。養父は大正3年(1914年)夏の生まれだったが、写真には「昭和14年(1939年)12月20日南京」と添え書きがあった。
 
南京に派兵された25歳の養父は、精悍な軍服をまとって写真に納まっていた。
 
自宅の押入れを暗室に改造するほどのカメラマニアだった養父は、この写真が気に入ったのだろう。大きく引き伸ばしてアルバムに貼ってあった。
 
希望に燃えて輝く締った顔立ちと、涼やかな目元、おそらく新兵だったのだろうが、添え書きがなければ、とても義父とは思えなかっただろう。
 
例え本人だ思って見ても、別人を見ているような気持ちが支配的だった。この家に貰われて以来、一度も目にした事のない光景だった。
 

 
この写真が残像となって、かつて全く無関心だった養父の若い時代に、おぼろげながら関心が芽生えるようになっていった。
 
そして、どの様な場所で、どの様な状況で、どの様な心境で写真が撮られたのかを、聞いてみたいと思った。
 
すでに、この世に居ないから聞くことは出来ないが、例え生前であっても真面に答えてもらえるとは到底想像できないだろう。
 
戦争経験のあった父親世代は、すっかり口を閉ざしてほとんど語られることはなかったからだ。
 

 
この原因について、「戦争経験者は『戦場の悲惨さ』、命令とは云え『暴力装置の蛮行と残虐性への反省』など」と、学校で教えられ、多くのマスコミで喧伝され続けた。
 
戦後生まれのほとんどの人々は、「軍隊悪玉論」を普通に確信して、何の疑いも持つことはなかった。
 
故に、旧軍人は一兵卒に至るまで、戦前、戦中の話をしない・・・話せない・・・と言う結論に達する。
 
こうした軍隊に対する嫌悪感が、親子の乖離を更に増長する一方で、戦争経験者の大多数は、口をつぐむことしか出来なかったとも思える。
 
時々、テレビやラジオのインタビューに登場する戦争経験者は、必ずと云って良いほど、自分達が意志をもって戦ったにも拘わらず、勧善懲悪の戦争批判を繰り返す始末だ。
 
にわかに違和感を感じる事も有ったが、一方で「軍隊悪玉論」がすっかり定着していたので、それ以上に踏み込む術もなかった。
 
しかしこの事はかえって、多くのサイレントマジョリティーである兵役経験者の口を一段と重くしたのだろう。
 

 
今回、改めてこの写真を見て、養父が過ごした戦前、戦中、戦後の暮らしぶりを通して、ニュートラルな気持ちで見つめてみたいと思った。