ブログ「日本人の暮らし向き」を始めるにあたり、気恥ずかしい思いがいっぱいだが、自分自身の生い立ち(原点)から話してみることにします。
 
いわゆる戦後ベビーブーム世代を「団塊の世代」と呼ばれて久しい。その只中の昭和23年に茨城県で生を受けた。2歳を前に子供のいない東京の夫婦に貰われた。
 
両国駅
当時の連絡通路(両国ステーションギャラリー)
後に再会した実兄によると「両国駅」の国電と総武本線のホームを結ぶ連絡通路(現在の「両国ステーションギャラリー」あたり)で、東京の養父母に引き取られたとの事だった。
 
養父母は実子のように育ててくれたのだろうが、そこはかとない疑問を感じ、近所の家庭との違和感があることに、小学校高学年には気が付き始めていた。
 
両親は他界するまで、養子の経緯について話してくれることはなかったが、中学時代には不自然な戸籍、親戚筋からの話などで、すでに実子でないことに確信を持っていた。
 

 
そんな事もあって、両親に対する敬愛の心も一向に深まらず、反抗期を過ぎても静かな反発心だけが膨らんでいった。
 
進学高校を中退したのも、主に両親への反発であったが、養父母は生家に対する対面から必死に中途入学できる先を探し回っていたように思える。
 
これは申し訳ないと云う気持ちを持ったが、結果的には反発心が一段と闇の中に沈んで広がっていった。
 

 
加えて世の中には個人主義が高らかに謳われ、家族より個人を大切にすることが尊重された結果、唯でさえ親に対する尊敬の気持ちは消えていった。
 
養母は真意ではなかったかも知れないが、決して裕福でもない家庭に関わらず「世間体を考えろ」との口癖で、強く大学進学を進めてきた。
 

 
学生運動
安保反対を叫ぶ学生 昭和45年(1970年)
丁度その頃、「70年安保」で世の中は騒然としていて、キャンパス内を左翼学生が闊歩していた。本来、学業の秩序を守るべき教授連中や学校関係者が何故全く放任していたのか、当時は不可思議でならなかった。
 
大多数の学生はノンポリ(思想を持たないと云う意味)だったが、風潮に流されるように集会やデモに顔を出して、左翼インテリを気取る連中も地方出身者に多かった。
 
そして学生全体に「左翼に有らずんばインテリに有らず」と云う雰囲気が固定化されていった。
 
同じ時期に、宗教団体の青年部組織が学生の勧誘に余念がなく、さながら左翼団体と宗教団体によるノンポリ客の奪い合いの様相だった。
 
こういった連中と一緒に酒を飲むこともあったが、他人の意見に耳を傾けないだけでなく、持論を押し付けて盲目的に崇拝する様子には、いい加減閉口したものだ。
 

 
今になって思い起こせば、若い学生を騙す手口は単純そのものだったが、当時は「盲目的な崇拝」が清廉潔白さに映り、その実、落ち着いて考え直すことさえ「日和見」「教義に反する」などと蔑む連中だった。
 
幸いと言おうか、何事にも信念に乏しく優柔不断だった為に、ノンポリのままで社会に出ることができた。その一方で、自分に都合のよい個人主義が底流に固定化した。
 

 
結婚を機に親から完全に独立して戸籍を作り、更に子供が出来てからも、養父母との距離は広がる一方だった。ボタンの掛け違いと云えば聞こえは良いが、自らの考え違いに気付き始めたのは最近になってからのことだ。
 
およそ70年間の人生で、お座なりのままにして解決できなかった疑問を、あることが切っ掛けとなって、少しずつ紐解いてみようと思った。